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受ける権利と与える光栄
2013/09/22
Japan On the Globe(816) ■国際派日本人養成講座■H25.09.22より転載
Common Sense:「受ける権利」と「与える光栄」
「戦後半世紀の間、私たちは受ける権利だけを教え、与える光栄についてはほとんど触れなかったのです」

■1.私たちは子供たちに「乞食の思想のみを教えた」

 曽野綾子さんが週刊現代に掲載した「何でも会社のせいにする甘ったれた女子社員たちへ」が、波紋を呼んでいる。いかにも曽野さんらしい直言だ。

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 そもそも実際的に考えて、女性は赤ちゃんが生まれたら、それまでと同じように仕事を続けるのは無理なんです。なぜなら、赤ちゃんは始終熱を出す。大抵はたいしたことないですけど、母親としては心配です。その場合、「すみません、早退させてください」となるのは無理もありません。でも、そのたびに「どうぞ、急いで帰りなさい」と快く送り出せる会社ばかりではないはずです。

 ですから、女性は赤ちゃんが生まれたら、いったん退職してもらう。そして、何年か子育てをし、子どもが大きくなったら、また再就職できる道を確保すればいいんです。[1]
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 これに対して、「産休制度は労働基準法に明記された労働者の権利」などという批判も上がっているが、実は曽野さんは、そもそもこういう「受ける権利」のみを主張する思想に対して、次のような根本的な指摘をしているのである。

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 しかし戦後半世紀の間、私たちは子供たちに、受ける権利だけを教え、与える光栄についてはほとんど触れなかったのです。これはいわば乞食の思想のみを教えたことになります。[2,p61]
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■2.「死ぬと決まった子供には食事を与えない親もいるのです」

 曽野さんの言葉の背景には、作家業の傍ら、カトリック教徒として30年間も南米やアフリカの人道援助をしてきた経験がある。その後半10年は日本財団会長としても務めている。その経験から、たとえばこんな光景を紹介している。

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 私は或る国で、瀕死の床にある27歳の、かつて砕石工だったエイズ患者の小屋を訪ね、23歳の若い母と、まだ一歳にならない男の子について、案内してくれた土地の牧師さんと話したことがありました。

「お母さんと子供はHIVプラスなのですか?」
と私は尋ねました。

「検査をしていないのです。食べるのにやっとの人たちが、どうして検査費用を出せるのでしょう。・・・」

 牧師さんはこう言ってからためらいがちに付け加えました。

「それにアフリカでは、もう死ぬと決まった子供には、食事を与えない親もいるのです。だから事実がわからない方が子供にとって幸せ、という気もします。[1,p206]
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 日本財団から粉ミルクを配ったらどうだろう、と曽野さんは一瞬、考えたが、「井戸水で粉ミルクを溶いたら、エイズになる前に下痢で死亡する確率が高いのは眼に見えている」と思い直した。

 曽野さんは、こういう世界を見てきた上で発言している。餓えも知らない温室の中で育った現代の日本人が「受ける権利」ばかりを主張している姿を見れば、「甘ったれ」と一喝するのも頷ける気がする。


■3.片道3時間かけて山奥の患者に薬を届ける医者

 曽野さんの言う「与える光栄」とは、たとえば以下のような事例を指すのだろう。日本財団はWHO(世界保健機構)を通じて全世界にハンセン病の薬を配っているが、曽野さんが中国でその現場を視察した時のこと。

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 中国では「白衣の医師」と呼びたいのですが、実は汚れて埃色になった白衣を着た中国医療の医師に田舎で会ったことがあります。
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 昔の中国の礼儀と習慣か、彼は「タバコをいかがですか?」と勧めた。その田舎の医師の人間的な温かみに曽野さんは心打たれた。

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 このような人が、片道3時間もかかる山奥に住む、貧しいハンセン病の患者さんに、毎月一度、薬を届けに行ってくれているのです。こうした患者さんたちは時には視力も失い、足も切断してしまっていて、とても山を越えて薬を取りにはこられないからです。[2,p124]
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(日本財団などから)「いくら資金が提供されても、実際にそれが患者たちに恩恵をもたらすのは、各地で実際に働いている医師や看護婦たちがいて初めてできることだ」として、曽野さんはこれらの人々の「与える光栄」を称賛している。


■4.「アフリカには孤児はいない」

「与える光栄」とは財団や医師・看護婦などだけにあるものではない。苦難の中で、人々は助け合うことで「与える光栄」を得る。

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 数人の人が、「アフリカには孤児はいない」と言いました。世界中にはしばしば見捨てられた子供たちが路上で生活したり、アメリカや日本などでは政府の手によって育てられるケースも少なくありません。

しかしアフリカでは常に誰か優しい親戚や村の人が出てきて、その子を育てるというのです。(JOG注:エチオピアの)シリンカのキャンプにいた(同:ひとりぽっちで衰弱しきった)少年も、体を治して村に帰れば、たとえ親がいなくとも、近所の知人に見守られて、それなりに幸福な人生を送ったことだろう、と思います。

アメリカや日本の社会機構では見られない、温かい人間関係を私はしばしばアフリカから学んだのです。[2,p218]
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 曽野さんが会長を務められた日本財団の前身は、財団法人日本船舶振興会であり、その初代会長が笹川良一氏だった。笹川氏はアフリカを饑餓から救うべく、身を呈して活動を行った。そのきっかけは、1985年にエチオピアを襲った餓死者2百万人という大飢饉だった。

 笹川氏は、「飢えたものに一匹の魚を与えるよりも、魚を釣る方法を教える」という方針を立て、農民に品種改良したトウモロコシの種子と化学肥料を貸し与え、効果的な育成方法を教えるだけで何倍も収穫を増やすことに成功させたのだった。そしてわずか10年後にはエチオピアは食料を自給自足できるようになった。

 その過程で多くの青年たちが農業指導員として農家を指導して回った。多くの農民を飢餓から救ったのは、彼らの同胞に対する「与える光栄」だった。[a,b]


■5.「夢のお国」

 中国の奥地やアフリカから見れば、日本は「夢のお国」だ、と曽野さんは言う。[2,p72]

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1.清潔な水が飲める
2.餓死するような人も、乞食も、行き倒れも(例外的にしか)いない。つまり社会保障の制度がある。

3.医療が誰にでも比較的すみやかに受けられる。
4.弱者の悪口は言えないが、強者の悪口は言える。

5.ほとんどの人が雨の漏らない、電気、水道、暖房、浴室、炊事場などが屋内にある家に住み、テレビや電話などを使える。

6.行きたいところに行くことができ、親の出身が何であろうと、子供は自分の才能次第で、いかなる職や地位に就くこともできる。
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 まだまだ11項まで続くが、このぐらいにしておこう。
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 もちろん時々は例外がありますが、今までに108カ国を歩いた私の、それが実感です。

 それにもかかわらず、日本は悪い国だ、という人がいて、殊にマスコミがそうした空気を後押ししました。私たちはもっと子供たちに厳しい現実を教えるべきでありました。[2,p73]
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 我々はなぜこんな「夢のお国」の住人でいられるのか。それは先人たちが一生懸命作ってきたこの「夢のお国」にたまたま生まれついたという偶然の僥倖に過ぎない。その僥倖と先人たちのお陰に感謝し、たまたま我々のような好運には恵まれなかった人々に「与える光栄」を少しぐらいは持ちたいと思うのが、成熟した大人の思慮分別だろう。

 その好運に気がつかず感謝もせずして、「産休は労働者の権利」などとさらに「受ける権利」を言い募る人々の未熟さを、曽野さんは「甘ったれ」と叱咤しているのである。

 そして、戦後の教育とマスコミは、こういう未熟な人々を作ることを目指してきた。彼らは自分が「夢のお国」に住んでいる現実に気がつかず、さらなる「夢」を見て、不満をぶつけるのである。それは本人にとっても不幸な生き方であることは言うまでもない。


■6.「夢のお国」が綻びた時に

「夢のお国」に生まれて、そこから出た事のない人は、その有り難さが分からない。しかし、大震災などの非常時に、その「夢のお国」の生活が一時的にでも失われた時に、その有り難さが明らかになる。

 そして阪神淡路大震災、東日本大震災などで被災した人々も、また救援に立ち上がった人々も、「受ける権利」よりも「与える光栄」を選んだのである。

 阪神淡路大震災で大勢の青年が被災者支援に立ち上がったことから「ボランティア元年」と呼ばれ、また東日本大震災でも人々の支え合う「絆」が再認識されたことは、「夢のお国」から一度出てみることで、「与える光栄」の大切さに気がついたということである。

 弊誌699号「国柄は非常の時に現れる(上)〜 それぞれの『奉公』」[c]では、自衛隊員、消防隊員は言うに及ばず、一日でも早く皆のために店を開けようとしたスーパーのおばさんから、被災者に一つでも多くの救援物資を届けようと努力した宅配便のおにいさんまで、皆がそれぞれの場で立派な「奉公」をした事実を紹介した。「奉公」とは「公に奉ずる」ことで、「与える光栄」そのものである。

「与える光栄」を目指す生き方は武士道[d]から教育勅語[e,f]、さらには皇室の伝統的精神[g]まで、我が国の国民生活の根幹をなしてきた文化伝統であった。それが我が先人の生き方であり、教えでもあった。いや、だからこそ「夢のお国」が実現されたのだ。


■7.「与えること」と「与えられること」で「豊かな生活」

「受ける権利」は教えたが「与える光栄」は教えない戦後教育の欠陥を正すために、曽野さんが提案しているのが「小中高校での奉仕活動」だ。「教育改革国民会議」の審議報告の中で、次のように説いている。

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 そのために小学校と中学校では2週間、高校では1ヶ月間を奉仕活動の期間として適用する。これは、既に社会に出て働いている同年代の青年たちを含めた国民すべてに適用する。そして農作業や森林の整備、高齢者介護などの人道的作業に当たらせる。・・・

 そこで初めて青年たちは、自分を知るだろう。力と健康と忍耐する心を有していることに満足し、受けるだけでなく、与えることが可能になった大人の自分を発見する。障害者もできる範囲ですべての奉仕活動に加わるから、彼らもまた新しい世界を発見し、多くの友人を得るだろう。[2,p26]
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 奉仕活動を通じて、子供たちは「与えること」の難しさと同時に、それができた喜びを知り、同時に「与えられること」の有り難さも実感するだろう。それこそが真に「与える光栄」を体験する道なのである。


■8.「日本のいかなる知識人の口からも聞いたことのないような」
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 私は多くの国で、文盲であったり、日本人からみたら信じられないほどのつましい生活をしている人々の言動に、日本のいかなる知識人の口からも聞いたことのないような生命の尊厳に対する畏敬の念、家族に対する優しさ、悲痛なまでの義務への忠誠心、弱者に対する労り、などを見ました。

 ブラジルの知恵遅れの貧しい未婚の母は、「子供はかわいいですか?」という来訪者の問いに「愛のように美しいです」と小声で答え、イスラエルで会った行きずりのドイツの青年は、私たち日本人が身体障害者と共に旅行しているのを見ると「不自由な人たちを連れて来てくれてありがとう」と我々に礼を言ったのです。[2,p60]
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 このブラジルの未婚の母やドイツの青年と、我が国の「産休は働く女性の権利」などと主張する知識人を比べて見よう。どちらが人間として深い豊かな生き方をしているか。曽野さんは、この点を問うているのである。我が国の戦後教育はこういう生き方を教えてこなかった。

「私は現在の日本の危機と国家の貧しさを、教育に感じます」とは、「夢のお国」の外の世界を30年間も歩いてきた曽野さんの実感であろう。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(125) 蘇るアフリカの大地(上) 〜笹川グローバル2000の開始〜
 餓死者200万人のエチオピアの農業再建に笹川は立ち上がった
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h12/jog125.html

b. JOG(126) 蘇るアフリカの大地(下) 〜緑の革命〜
 「日本よ、ありがとう」蘇った緑の大地に感謝の声が湧き起こった
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h12/jog126.html

c. JOG(699) 国柄は非常の時に現れる(上)〜 それぞれの「奉公」
 自衛隊員、消防隊員は言うに及ばず、スーパーのおばさんから宅配便のおにいさんまで、それぞれの場で立派な「奉公」をしている。
http://blog.jog-net.jp/201105/article_4.html

d. JOG(654) 子供が喜ぶ武士道論語
「自分の命より大切なものがあると知ったときに、その人の人生は輝きを増して、人間として素晴らしい人生を歩むことができるのです」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h22/jog654.html

e. JOG(735) 井上毅 〜 有徳国家をめざして(上)
 大震災では、戦前の教育勅語が理想としていた生き方が、あちこちで見られた。
http://blog.jog-net.jp/201202/article_4.html

f. JOG(736) 井上毅 〜 有徳国家をめざして(下)
 井上毅が発見した我が国の国家成立の原理は、また教育の淵源をなすものであった。
http://blog.jog-net.jp/201202/article_7.html

g. JOG(581) 国民の幸を願われ20年
 両陛下は180回のご巡幸で全都道府県514市町村を訪問され、770万人の奉迎を受けられた。
http://blog.jog-net.jp/201103/article_3.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 曽野綾子「『私の違和感』 何でも会社のせいにする甘ったれた女子社員たちへ」、週刊現代、H25.8.19

2. 曽野綾子『生活の中の愛国心』★★、生活の中の愛国心、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/430902081X/japanontheg01-22/

95歳男が「日本統治はよかった」発言で殴り殺される
2013/09/16
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」通巻第4021号2013年9月16日

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(読者の声1)最近の新日鉄住金への賠償請求判決に見られるように韓国では、日本に対しては法律の訴求適用、条約の無視等、異常な判決が韓国の裁判所ででています。
韓国では、日韓併合の違法性をこういった判決の正当化のための法理上の根拠とする動きがあるとのことです。つまり、違法な日韓併合のもとで行われたことはすべて違法で、それを処罰することは、法律の訴求適用にはならないという議論です。
もちろん、当時の国際法では正当に日韓併合がおこなわれました。
 また韓国の側から日本政府に日韓併合が提案されたことも、当時の日本に著しく不公平な内容であったことも明確です。これらをすべて、日本が強制した全く不当なものであったということが、韓国の歴史学会、韓国政府の見解だけでなく、国民の意識の中にも浸透しているようです。
これを象徴する事件が平成25年5月に韓国で起きました。95歳男「日本統治はよかった」発言で殴り殺される 韓国ネットでは「死んで当然」「正義の審判だ」J-CASTニュース 9月13日(金)18時26分配信)
韓国で多くの老人が散歩に来て、談笑するある公園で、95歳の老人が「日本統治はよかった」と言ったところそばを通りかかった35歳の男が、老人が持っていた杖を奪って頭をたたき、その老人は病院で亡くなったそうです。
9月にその男に対して懲役5年の判決がおりると、韓国のネットに、その男を擁護し称賛するメッセージがあふれ、その老人は日本統治が良かったといった時点で犯罪者であるとする意見があったそうです。これを狂気の沙汰ということは簡単ですが、その奥に、韓国の対日関係での法理が欠如した対応を日韓併合の違法性に求めるという動きが符合します。
今後、韓国政府の対日外交でも、韓国内の日本人、日本企業がからむ裁判の判決もこの観点からのものが主流をなすと推定します。これに反論するのに理をもってしても、日本側の資料や、当時の第三国の資料をもってしても全く効果がありません。

最も有効な論拠は、平成17年に韓国で韓国人の学者が発見した、大韓帝国皇帝が内閣に日本に日韓併合を提案(実際には懇願)することの可否を論じるよう命じた結果開かれた閣議の議事録です。
実は、私はその要約を平成17年7月の日本経済新聞の記事で読んだので、日本経済新聞社には、その議事録の全文ではなくてもある程度の内容を書いたものがあるはずです。
 しかし、あの新聞社の体質からいって、それが現時点での韓国関連の報道で言及されることはあり得ません。韓国でも非公開となっているようです。
ただし日本側からこれを主張するとその議事録が廃棄されるか、発見した学者が殺害されて、ないことにされてしまう可能性があります。
以前、韓国人の学者の鄭女史が国際法上竹島は日本領であると発言したら、自宅軟禁状態になってしまい、弟は日本に帰化してしまった(せざるを得なくなった?)ということもありました。私は、これは行くところまで行かせたうえで、あまりの異常さに対して韓国内から正常な意見が出てくるのを待つしかないと思います。
何百年かかるかはわかりませんが。
  (ST生、千葉) 

(宮崎正弘のコメント)韓国は中国の顔色を見ながら「中国様の一歩先を行く」のです。阿諛追従が目的です。元寇のときも秀吉が進出したときも、中国に支援を仰ぎ、その先兵となるのが、体質ですね。ところが中国は朝鮮民族を徹底的に嫌う。両国関係はまさに異常という他はありません。

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 易姓革命の正統性を自己主張することと前王朝がなぜ滅びたかを分析すること
それが中国のいう「歴史を鑑とする」ことである
黄文雄『もしもの近現代史』(扶桑社)

 日本人は歴史の真実を知ることに情熱を傾ける。客観的事実、そして科学的根拠が重要であり、小説ですら時代考証を間違えたりすると、批評家から批判されることがある。
 中国人は「歴史を鑑とする」のが口癖だが、その歴史には一片の客観的事実もなく、また証拠となる科学的根拠もなく、つくり話、法螺話、そしてでっち上げと過去の通史の改竄である。そのためには古文書さえ、遡って改竄するのである。その妄執的な歴史でっち上げの情熱は凄まじい。

 歴史学というより庶民は想像上のつくりごと、『三国志演義』や『西遊記』が好きである。
すなわち中国では「歴史学は政治に属するから、日本のように文学部で教えるのではなく、政治学部で教える」のである。
政治的判断が一等重要だからである。

 本書は中国の歴史を「もし」という架空のフィクション仕立てにしたシュミレーションではなく、歴史学の碩学、黄さんがひとつの尺度をもって中国通史を論じたもので、各所に箴言が散りばめられている。

 黄文雄氏は、中国史の作者らを次のように評価する。
 「『史記』をはじめとする中国の正史、また『史実通鑑』がそうであるように、歴史をつくる目的は二つある。易姓革命の正統性を自己主張することと、前王朝がなぜ滅びたかを分析するためだ。いわゆる『歴史を鑑とする』ということだ」

 そしてこう続ける。
 「秦王朝は暴政で滅び、清王朝は腐敗で崩壊したと小中学校の歴史教科書は教えているが、それは王朝衰亡の理由としては極めて抽象的で主観的である。(中略)王朝興亡の分析は、決して科学的でなく、『教訓』という倫理的なものが殆どで、経済社会的な視野から歴史を語ることが欠落している。また中華帝国歴代王朝の衰亡については共通の原因が多い。秦漢王朝をはじめ、たいていは農民反乱やカルト教団の反乱によって滅びるのだ。清王朝も十八世紀末の白蓮教の乱から二十世紀初の義和団の乱に至るまで、「会匪の乱」と「教匪の乱」がえんえんと一世紀も続いた。しかし、太平天国の乱や回乱のように、王朝をゆるがす大乱が繰り返し起きても、清王朝はそれが原因で滅んだわけではなかった」。

 黄氏はときに外戚や宦官が原因であり、暴君は愚君がいなかった王朝でも、国を守ることができず、しかしローマやオスマンのように、大国が滅びるのには時間がかかるのであると説かれる。
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樋泉克夫のコラム
【知道中国 964】
 ――「それにしても我々日本人はあまりに中国を知らな過ぎた」(安倍の6)
 「新中国見聞記」(安倍能成 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
  ▽
「今や中国は毛主席の音頭の下に、和平の声は全土に満ち溢れて居ます」とヨイショした安倍は、「中国が平和を単に政策としてではなく、恒久な原則としてこれを貫徹し、事実に於いてこれを実現されことを望みます」と表明しながら、一転して「例えば中国が一段上手の大所高所に立って、ソ連に対して千島返還を勧告される如き手をうたれることを望」んでいる。

中国の勧告を受け入れてソ連が千島を返還すれば、日本の中国やソ連に対する警戒感・不信感が拭えるとでも、安倍は夢想したのだろうか。

さらに「中国はかつて日本の再軍備に反対しました。私も亦再軍備に反対する日本人の一人です」としたうえで、「しかし日本人の中には、中国のアジア政策が日本を圧迫することを恐れて、再軍備の必要を真面目に考えている人も少なくありません。私は中国の平和政策が徹底して、このような不安が一掃され、中日両国が共々一致して、アジアの平和、世界の平和を実現するに至らんことを、心から望んでやまないものであります」と、挨拶の最後を結んでいる。
日本人なら、やはり「中日」ではなく「日中」というべきだ。

とはいえ、さすがにリベラル保守の旗頭だった。安倍は米ソ両陣営対立という現実を前にして、「勝手に日本の軍備を撤廃して、勝手に日本の再軍備を強要するアメリカを信じ得ない」とする一方で、「かつては日露戦争を彼等の運動に対するプラスだと言いながら、千島攻略を日露戦争の敵討というスターリンの言説に至っては、狼がどんな口実を恥とせず、羊の子を食い殺すのと選ぶ所はない。我々はソ連の冷静と打算とその上に立った利口さを見るが故に、一層不快をます」
と、米ソ両国への不快感を隠そうとはしない。

そこで「日本が独立の日本、民主・平和・自由の日本となった場合、自衛のための武装を持つことは当然であります」という周恩来の考えを紹介し、日本は中国に対し「アメリカに駐兵の口実を与えぬだけの、平和的意志、平和的政策、平和的実行を示すのが望ましい」としつつ、「自信を得、安固を感じ、戦争の苦患を過ぎ、始めて自分の領土を領土とし、顧みて自分の力と自国の富源とを意識して、新たな建設にいそしもうとして居る」新中国が「名実共にアジアの中心となり、又世界の外交を指導し得るに至るであろう」と期待を寄せる。

だが安倍は、中国外交が掲げた領土保全・相互不侵略・内政不干渉・平等互利・平和共存を柱とする平和五原則のうちの内政不干渉に疑問を示す。というのも、「今まで共産主義国が随分えげつなく(内政干渉を)試みて来た」からである。

「例えばインドの場合、インド国内やその周囲に定着せる華僑の、或は華僑中の中国人民代表の、共産主義的運動を積極的に試みるということが、結果として内政干渉になるということも考えられる。こういう場合事実上内政干渉を断じてしないために、特に共産主義国は、他国に対して自己の勢力圏を拡大するためのあらゆる運動を厳しく抑制せねばならない」とクギを刺した。

安倍は帰国を前に「殊に世話になった対外文化協会に向かってメッセージを残した」。曰く「別れに臨んで我々は一言中国に望むことがあります。今や中国は武に於いても世界の強国であります。我々の浅い知識によると、『武』の意義は『戈を止める』にあるということです。即ち武装的平和であります。・・・我々は若い新興中国の野心の更に大ならんことを熱望します。・・・ここに敬んで毛首席を始め中国人民諸君の健康と幸福とを祈ります、一九五四年十月十五日」

安倍は柳田ほどのブザマに振舞ってはいない。
だが、「毛首席を始め中国人民諸君の健康と幸福とを祈」って帰国した直後から「中国人民諸君」は生き地獄を体験する。確かに安倍の言う通り・・・「それにしても我々日本人はあまりに中国を知らな過ぎた」のだ。
《QED》

悪韓論ー韓国の新聞に見る韓国の実像
2013/09/15
Japan On the Globe(815) ■国際派日本人養成講座 ■H25.09.15より転載
The Globe Now : 隣の国はモンスター!? 〜 『悪韓論』から
 データで明かされた韓国社会の実態。

 第1弾の「教育再生」( http://blog.jog-net.jp/201305/article_2.html )に続き、
第2弾「韓国問題−現代編」を開講いたします。

 近年の韓国は異常な反日活動が燃えさかって、我々日本人としても、この隣国との今後のつきあい方を考えるためには、「韓国はなぜこうなのか」をよく理解する必要があります。
 お申し込みはこちらから。 http://blog.jog-net.jp/201309/article_9.html
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■1.「この隣人は我々の常識の通じないモンスターではないか」

 2020年のオリンピックの開催場所決定のまさに前日、韓国政府は「福島県を含む周辺8県からの水産物の輸入を全面的に禁止する」と発表した。産経新聞のコラム『産経抄』はこう評した。

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 こちらは完全に意図的だろう。今でも魚介類に対する放射性物質検査は各地で厳格に行われ、基準値を超えるモノは市場に出回っていない。科学的根拠を欠いた輸入禁止は、東京のイメージを悪くしようという「落選運動」にほかならぬ。[1]
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「韓国の嫌がらせ」はこれに留まらない。最近の例だけ挙げても、

1.アメリカの各地で「慰安婦像」を設置すべく運動中[2]

2.戦時中に日本で徴用された韓国人に対し、ソウル高裁は日本企業に賠償するよう判決。これは日韓両国の請求権問題は解決済みとする協定を踏みにじるもの[3]

3.朴槿恵大統領がオバマ米大統領との首脳会談で「日本が正しい歴史認識を持たなければならない」と異例の発言。[4]

 この他にも、弊誌ですでに論じてきたように、竹島問題[a]、日本海の呼称を「東海」に変えようという運動[b]など、韓国の対日嫌がらせは枚挙に暇がない。

 日本人には発想もできないような異様かつ執拗な嫌がらせが続いて、多くの国民が気がつきだした。「この隣人は我々の常識の通じないモンスターではないか」と。


■2.国民の10%以上が恩赦対象者!?

 韓国社会のモンスターぶりを様々な統計データから明らかにしているのが室谷(むろたに)克美氏の『悪韓論』[6]である。室谷氏は時事通信社の特派員としてソウルに5年滞在しているが、この本では氏の個人的体験ではなく、韓国の公式統計や代表的なマスコミの報道から、その実態をえぐり出している。

 たとえば慮武鉱政権当時の与党が大統領に建議した恩赦案の規模には、唖然とさせられる。[5,p190]

__________
 特別赦免対象者は約4百万人、一般赦免または一般赦免に準ずる赦免対象者は250万人」「金対中政権の大赦免(98年)の552万人より100万人多い過去最大規模」(中央日報05・7・15)
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 大部分は道路交通法違反による免許取り消し・停止者や、食品衛生法など行政関係法の違反者とされるが、それにしても人口5千万人弱の国で、98年に何らかの犯罪行為で有罪となっていた550万人(約11%)が赦免されたのに、その7年後の2005年には恩赦対象者がまた650万人(約13%)もいたという。

 あなたの周囲の人々100人ほどのうち10人以上が、何らかの違反、犯罪で警察のお世話になったなどということが日本で考えられるだろうか。せいぜいが一人いるかどうか、というレベルが普通だろう。凄まじい恩赦の規模の前提として、凄まじい人数の犯罪者がいるというのが実態なのである。


■3.「管理のサムスン」

 同様な現象が企業レベルでも見られる。サムソン財閥の李健熙会長は自らのグループ会長就任25周年を記念して、「グループ内の恩赦」を指示した。

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 サムスングループが下半期中に役職員の懲戒記録の削除を進めることとした。・・・対象は軽微な社規違反や業務上過失で譴責・減給などの軽い懲戒を受けた役職人。サムスンは、対象者は約1千人と把握している。(中央日報12.7.12)  [5,p191]
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 サムスンは30数万人の巨大企業だが、日本でも比肩しうる規模の企業はいくつもある。しかし、そうした日本の大企業でも1千人規模の譴責・減給処分を受けた人がいるなどとは聞いたこともない。そして、そもそも李健熙会長自身が、脱税・横領で有罪判決を受けた後で、大統領特赦で救われた人間だ。

 こんなサムスンが、不正をチェックする伝統で有名らしい。

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 系列会社と役職員の不正をチェックする監査活動はサムスンの伝統だ。『管理のサムスン』という言葉もこうした企業文化から生まれた。サムスンに腐敗があるなら、他社も問題がないか自ら点検する必要がある。(中央日報11.6.10) [5,p182]
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 会長自身が脱税・横領で有罪となり、その下で1000人ほどの人間が譴責・減給処分を受けている企業が『管理のサムスン』と称賛され、他社はもっとひどい、というのは、日本人の想像を絶する世界である。


■4.犯罪大国

 様々な統計が、韓国の犯罪大国ぶりを示している。

__________
2010年基準で韓国の人口10万人当たりの暴力発生件数は609.2件で、米国の252.3件の2倍、日本の50.4件の12倍以上多い。」(中央日報12.7.12) [6.p134]
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 韓国で2010年に偽証罪で起訴された人は日本の66倍、日本の人口が韓国より2.5倍多いことを勘案すれば165倍に達する。・・・

 誣告(ぶこく、JOG注:人を陥れるために、虚偽の告訴・申告をすること)事件は日本の305倍、詐欺事件は13.6倍だ。(朝鮮日報、12.3.6) [5,p118]
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韓国人は、普段は法をよく守らないのに、争い事が起きると、「法による解決」を叫んだりする。・・・

検察に受理された告訴件数だけでも04年約47万件、05年と06年はそれぞれ約42万件に上っている。日本の約150倍に当たる。(東亜日報04.4.27) [5,p144]
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 韓国の暴力、偽証・誣告、告訴は人口比で日本の10数倍から数百倍、という状況のようだ。まさに犯罪大国である。


■5.汚職大国

 こういう犯罪を予防すべき教育者、取り締まるべき警察は何をしているのだろうか。こんな事実が伝えられている。

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首都圏の前職・現職学校校長157人が修学旅行など団体行事の過程で、賄賂を受け取った容疑について警察が本格捜査を始めた。(朝鮮日報10.3.30)
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 前・現職校長157人といえば、特定の個人の犯罪というよりも、どの学校にもある社会現象ということだろう。まだまだある。

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 給食や印刷などの納品業者に対し、数千万ウォン(1千万ウォン=約72万円)台の裏金を要求していた小学校の校長や元校長らが、相次いで検察に摘発された。(朝鮮日報12.2.27)
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 犯罪を取り締まるべき警察でも同様の現象が見られる。12年には「風俗街の帝王」と呼ばれる男が、売春斡旋・脱税で捕まった際に、検察に対して、多数の警官に多額の金品を送っていたことを自白した。

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 総監(原著者注=日本の県警本部長クラス)も含め40人が金を受け取った見返りに、帝王の拠点を取り締まり対象から外していた。金を受け取った警官たちは警察の監査室に一部を上納していた。(朝鮮日報12.5.3)
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 第一線の警察官ばかりか、警察のトップから汚職を取り締まるべき監査室まで、汚職まみれになっているのである。

 きわめつけは大統領の汚職だ。竹島に上陸した時点で、李明博・前大統領の実兄をはじめ親族・側近20人がお縄になっていた。その前の盧武鉉氏は、収賄や不正献金で側近や親族の逮捕が相次ぐなか、本人が自殺。

 3代前の金大中氏、4代前の金永三氏はそれぞれの息子たちが金銭授受容疑で逮捕されているが、両人は病死。5代前の盧泰愚氏は退任後の不正蓄財で逮捕され、無期懲役となったが、特赦で釈放された。要は最近の5代の大統領で、晩節を全うした人は一人もいないという異常さである。


■6.誇大広告と手抜き原発

 法やルールなど無視して手っ取り早く儲けようという意識は、産業界においては手抜き製品や誇大広告となって現れる。

 12年末、現代自動車と傘下の起亜自動車がアメリカで販売した13の車種で燃費が誇大に広告されていた事が発覚。顧客が次々に集団訴訟を次々に起こしている。これは02年に同じく米国で、「エンジン出力(馬力)水増し広告」が発覚し、集団訴訟に対して補償金を払った事件の再発である。

 手抜きで怖いのは原発部品だ。部品供給業者8社が「海外の認証機関から得るべき品質保証書を偽造し、237品目7682個の部品を納入していることが明らかになった」(ハンギョレ新聞12.11.5)

 李明博前大統領は、「韓国のスマート原発は安全性と効率性が世界最高レベル」と海外売り込みに熱を上げてきたが、11年9月16日に地震も津波もなかったのに、大停電(ブラックアウト)が発生。
 これで韓国マスコミの監視の目が厳しくなると、02年から12年までの10年間で、全羅南道・霊光にある原発6基で27回もの停止事故が起こっていることが露見した。

 これまで放射能漏れ事故がないことになっているソウルで、東日本大震災1年後の仙台よりも2倍も放射性物質量が多いというデータもあるそうだ。


■7.売春大国

 女性にとって手っ取り早い稼業は売春である。03年に韓国政府によって実施された売春実態調査では、以下の点が明らかになった。

・売春産業は年間26兆ウォン(約2兆6千億円)台の規模で、01年の国内総生産(GDP)545兆ウォンの5%にあたる。

・「専業」女性はおよそ26万人で、満20歳から34歳までの女性人口の4%にあたる。

「専業」以外に「副業売春婦」がいる。飲み屋などで酌をしながら客の相手をする女性などで、売春禁止運動を進めていた女性団体は、専業・副業あわせて80万人という数字を挙げていた。20歳から34歳までの女性の1割超に達する。

 04年9月に「性売買特別法」が施工され、おおっぴらな公娼館は閉鎖されたが、「スポーツ・マッサージ」「ルームサロン」などと形態を変えて、地下商売を続けている。

 また、日本、アメリカ、オーストラリアなどに「海外雄飛」する売春婦も少なくない。10年10月、韓国のパク・ソンヨン議員は、海外で売春する韓国人が10万人に達すると公言し、そのうちの5万人が日本で売春していると指摘した。[6]

 ロサンゼルスでは「毎月逮捕される70〜80人の売春婦の9割が韓国人」との警察関係者の証言を韓国中央日報(06.6.21)が報じている。[6]


■8.「我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」

 さて、冒頭で述べた韓国の異様な反日いやがらせも、この韓国社会のモンスターぶりが対外的に発揮されたものと理解できよう。

 今回の東京オリンピック阻止のための突然の輸入禁止措置、そして竹島は自国領であり、日本海は「東海」だと平気で歴史をねじ曲げる主張は、自らの利益のためには偽証も厭わないという姿勢から来ている。

「従軍慰安婦」問題などは、韓国内で頻発する誣告、すなわち
人を陥れるための虚偽の告訴そのものである。そしてそれは売春大国として、国民が身近に感じられる問題だった。

 さらに警官、大統領まで高度な汚職にうつつを抜かす社会では、ワールドカップやオリンピックでの審判を買収するくらい朝飯前だろう。こういう国際的にも異様なモンスター国家が、我々のすぐ隣にあることを、日本人として理解しておかなければならない。

 もちろん、国家レベルの交際と、個人レベルの交際は次元を分けて考えなければならない。韓国人の中には尊敬できる人、誠実で友人とするに足る人も多い。しかし、国家レベルでは隣国だからどんな国とも仲良くしなければならない、ということはない。一定の距離を置いて、用心しながら付き合う相手もありうる。

 かつて韓国がソ連・中共の共産主義勢力の防波堤となってくれていた時代は過ぎ去った。その時代の感覚のまま、同盟国と考えていては、いつ騙されるか、裏切られるのか、分からない。

 今や中韓は明治時代の清国、朝鮮に戻りつつある。福沢諭吉が『脱亜論』で述べた「我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」という言葉がしきりに耳底に響いてくる。

 今後の韓国とのつきあい方を考える上で、以下のコースを参考にしていただきたい。
__________
■■■ JOG Step 韓国問題−現代編 開講 ■■■

 国際派日本人養成講座ステップメールコース JOG Step は、教育再生、国際政治、日本文化など個別分野毎に、過去の記事を選び、週2回、メール配信し、体系的にその分野を学べるコースです。

お申し込みいただいた時点から、読者毎に順次、第1号から配信していきます。本誌と同様、無料です。

 第1弾の「教育再生」( http://blog.jog-net.jp/201305/article_2.html )に続き、
第2弾「韓国問題−現代編」を開講いたします。

 お申し込みはこちらから。 http://blog.jog-net.jp/201309/article_9.html
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(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(392) 竹島問題 〜 「日韓友好」に隠された欺瞞
「竹島問題を国際司法裁判所に提訴しよう」という日本政府の提案を拒否する韓国のお家の事情。
http://blog.jog-net.jp/200504/article_1.html
b. JOG(746) 「日本海」が「東海」と書き換えられる日
 韓国は竹島問題の封印を狙って、「日本海」の呼称を「東海」に変えようと画策している。
http://blog.jog-net.jp/201204/article_5.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 産経新聞、H25.09.07『産経抄』
http://on-msn.com/1aeb1C8
2. 産経新聞、H25.07.13『慰安婦像設置に日系住民が猛反発、公聴会大荒れ 米・グレンデール市』
http://t.co/A6JMomNhyY
3. 産経新聞、H25.08.20『産経抄』
http://t.co/R6DaeK66bN
4. 産経新聞、H25.05.08『韓国、歴史認識で米国巻き込んだ対日包囲網は不発』
http://on-msn.com/15PGK8I
5. 室谷克美『悪韓論』★★、新潮新書、H25
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN//japanontheg01-22/
6. 水間政憲「『売春させろ」デモが頻発、そして売春を”輸出" 儒教の国のGDP5%を支える一大産業の実態」SAPIO, H24.12

11歳少女の朝鮮半島脱出記
2013/09/01

Japan On the Globe(80) ■国際派日本人養成講座■H25.09.01より転載

地球史探訪 : 11歳少女の朝鮮半島脱出記 『竹林はるかに遠く』から

「ソ連兵が上陸してくる」との突然の警告に、11歳の擁子と母、姉3人の満洲国境近くから母国日本への逃避行が始まった。

■1.「私も娘もこの本を読みました」

「1986年にアメリカで刊行後、数々の賞を受賞。中学校の教材として採択された感動秘話」。

『竹林はるかに遠く』日本語版のAmasonでの紹介である。日本語版は発売されてからまだ2ヶ月も経っていないが122件ものレビューが寄せられ、うち109件、89%が「星5つ」をつけている。

 アメリカのAmasonでも同様のようで、115件のレビューが寄せられている。しかし、在米韓国人からの批判も多く、「星5つ」が77件、「星1つ」が20件と、評価が両極端に分かれている。一般の米人読者と思われる「星5つ」のレビューでは、

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私も娘もこの本を読みました。この本が大好きになりました。
この本が素晴らしいのは、戦争がいかにお年寄りや女性や子供たち、家族全体に惨(むご)いものかを示している所です。
なぜ、この本を学校で子供たちに読ませてはいけないのか、分かりません。
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「学校で子供たちに読ませてはいけない」というのは、韓国で「この本に反対しよう」という新聞記事が出て、米Amasonのレビューにも「星1つ」で「歴史をねじ曲げている」云々のいかにも韓国人の書いたと思われる意見が寄せられているからだ。韓国ではこの本は販売禁止にされているという。

 この本を読んでみると、事実を冷静に述べながらも、ぐいぐいと読者を引っ張る語り口で、上記の「素晴らしい」という感想に私も共感した。しかし、「読ませてはいけない」という韓国人の気持ちも理解できる。なにしろ登場する韓国・朝鮮人たちは、主人公の兄を助けた1家族を除いて、残虐な共産主義者や非情な人間が目立つからだ。

 また、そんな修羅場でも主人公たちを助けてくれる何人かの日本人の姿も描かれている。胸に迫るこの物語を読めば、「星1つ」をつけたレビューが負け犬の遠吠えに聞こえてくる。

 これは一人の少女が自らの体験を一人称で語った迫真の物語である。こういう歴史があったことを、日本人としても知るべきだろう。本号で、そのさわりだけでも、味わって貰いたい。


■2.「すぐに避難するよう」

 1945(昭和20)年7月29日真夜中のことだった。朝鮮北部の羅南(ラナム)、満洲との国境線から80キロほど離れたこの古い町から、11歳の川嶋擁子(ようこ)と16歳の姉・好(こう)は母親と一緒に脱出した。満洲鉄道に勤務する父は家におらず、また長男の淑世(ひでよ)も勤労動員で、30キロ離れた兵器工場に行っていた。

 きっかけは、真夜中に松村伍長がやってきて、すぐに避難するように警告したことだった。まもなくソ連兵が上陸してきて、満鉄に働く人の家族は殺されてしまうでしょう、という。

 松村伍長は、かつて重傷を負って入院していた時、擁子が日本舞踊で慰問をしたことで、生きる気力を取り戻し、元気になった。その後、擁子の家に出入りするようになっていた。

「日本人の病人を避難させている赤十字列車(傷病兵輸送列車)が、朝4時に羅南駅を出発します。それにあなたたちが乗れるよう、私が駅長に取り計らってあります。彼は私の友達なのです、、、」

 話し声に目を覚ました擁子のおでこに唇をあて、「君のことは忘れないよ」と言って去ろうとする松村伍長を呼び止めて、擁子は「武運長久」と書いてある半紙を渡した。「ありがとう。自分も皆さんのご無事を祈ります」と言って、暗闇の中に消えていった。

 父親と兄・淑世に置き手紙をし、3人は取り急いで荷物を風呂敷にまとめて家を出た。


■3.「乗せてあげなさい!」

 3人は駅までの川沿いの道を歩いた。大きな窪みがいくつもあり、擁子がそれにつまづく度に、母親が手首を結んだ細引きを引っ張って起こしてくれた。細引きが手首を擦って痛かった。

 「気分が悪いよぉ、、、」。擁子は半泣きで言った。「静かに」と母はささやいた。耳を澄ますと、遠くに軍隊の足音がした。3人は急斜面の土手を滑り降りて隠れた。「イル(一)、イー(二)、サム(三)、サー(四)」の掛け声で訓練している反日朝鮮軍だった。

「敵を殺す訓練をする」と部隊長が言って、敵の刺し方や、死体を引きずる方法を教えた。擁子は吐いてしまったが、好が覆い被さり、兵たちに聞こえないようにした。兵たちは、また掛け声とともに遠ざかっていった。

 ようやく駅に着くと、病院や軍のトラックがぎっしりと止まっており、負傷した兵隊たちや衛生兵、民間医療班でごった返していた。なんとか駅長を見つけると、彼は朝鮮人だった。母が「乗車の許可をいただいているのですが」と言っても、冷たい目を向けて「病気のようには見えないが。汽車は患者専用だ」と言い放った。

 そこにいあわせた日本人の軍医が「乗せてあげなさい!」と命令した。擁子たちが陸軍病院に慰問に行った時に、その姿を見ていたのである。軍医の威圧的な態度に、駅長は「わかった。女性患者の貨車に乗りなさい」と言った。

 三人は軍医に深々とお辞儀をした。この人が居合わせなかったら、列車には乗れなかったろう。


■4.「目を覚まして!」

 貨車の中で、多くの病人、怪我人、妊婦たちが隙間なく、むしろの上に寝かされている間に、擁子は膝を胸につけて小さくなっていた。あちこちから、呻き声や泣き声が聞こえてきた。

 列車が走り始めてしばらくすると、空は淡いピンク色に変わり始めた。「家よ!」と好が叫んだ。父と兄が夏の日に竹竿の先にくくりつけたラジオのアンテナが見えた。擁子は、少しでも長く見ようと、列車から身を乗り出した。母は家を見ようとはせず、目頭を押さえて泣いていた。

 夜になると、お腹が空いてきて、リュックサックをあさったが、母から止められた。他の人もずっと何も口にしていないので、一人何か食べると不公平になってしまうからだ。「皆お腹が空いているわ。皆にあげる分はないの。明日には京城(ソウル)に着くわ。そうしたら何か作りましょう。水を少し飲んで我慢しなさい」

 となりに座っていた母親が赤ちゃんにおっぱいをあげようとしたが、その口と目は閉じたままだった。母親が「目を覚まして!」と叫んで、赤ちゃんをゆらしたが動かない。衛生兵と看護婦が、赤ちゃんの死を伝え、遺体の始末をするから子供を渡すように言った。

 母親は夫の名を呼んで助けを求めた。衛生兵は抵抗する母親から赤ちゃんを奪い取り、貨車の外に放り投げた。その小さな身体はほんの一瞬、人形のように空中をゆっくり飛んでいき、すぐに見えなくなった。それを見つめていた母親は、やにわに立ち上がり、貨車から飛び降りた。「ああ!」、擁子の母は両手で顔を覆った。


■5.「先頭の機関車がやられた!」

 夜が更けた頃、汽車が突然大きく揺れて止まった。ブーン。グワン、グワン、グワン、グワン。飛行機が上を飛んでいった。外を見た衛生兵が叫んだ。「先頭の機関車がやられた!」。擁子と好が外に出ると、機関車から轟々と炎が上がっていた。

 衛生兵は「赤十字をつけた列車や船を攻撃してはいけないことになっているのに、、、」と憤慨した。母が「今何処に居るのですか?」と聞くと、「京城から70キロ離れたところです」

 3人は列車を降りて、線路沿いに南に向かって歩き始めた。燃えさかる機関車の横を通ると、黒焦げになった機関士が見えた。「見るんじゃないの!」好は強い口調で言った。線路は上弦の月明かりで不気味に輝き、前方へ延々と伸びていた。

 歩き続けて、夜が明け始めると、母は線路から離れた所に茂みを見つけ、日中は共産軍に捕まらないように、そこに隠れて毛布にくるまって眠った。

 目が覚めると、飯盒で米半合を炊いて、4日目にして初めて、ご飯を口にした。こうして次の7日間、昼は休み、夜だけ線路に沿って歩いた。擁子が「これ以上、歩けないわ」と泣き言を言うと、好は「歩かなければいけないの! 黙って歩きなさいっ」とぶっきらぼうに言った。


■6.「今夜楽しむには、丁度いい年頃だな」

 そんなある日、食事の後片付けをしていると、突然、3人の共産兵が立ちはだかった。擁子たちは恐怖で身動きできなかった。兵たちは銃を向け、「立て!」と怒鳴った。3人とも好を見ていた。「お前はいくつだ」と聞いたが、好は答えなかった。「今夜楽しむには、丁度いい年頃だな」と一人は言った。

「お前たちは所持品を全て、、、」と兵隊の言葉が終わらないうちに、飛行機の爆音が聞こえ、頭すれすれに飛んだので、慣れている擁子たち3人はすぐに地面に伏せた。ドカーン! 爆弾が近くで破裂した。擁子は遠く吹き飛ばされたようだった。目の前が真っ暗になり、気絶してしまった。

 乱暴に揺すられて、擁子は目を覚ました。母は何かを言っていたが、何も聞こえなかった。「聞こえない」と言うと、胸に激しい痛みが走った。そこに触れると、手は温かさを感じた。血だった。「兵隊たちはどこにいるの?」と聞くと、好の唇の動きから「死んだ」と読むことができた。

 好はリュックからシュミーズを出して、擁子の胸に巻いた。母は擁子に毛布をかけて頭を撫でながら、涙を擁子の顔にぽろぽろとこぼした。擁子はいつしか眠りに落ちていった。

 擁子はまる一日寝て、次の日の朝早く母に起こされた。まだ耳は聞こえなかった。次の瞬間、目に入った好の姿に驚いた。身を守るために共産軍の軍服を着て、長い髪を切り落としていた。母も軍服を着ていた。死んだ兵隊のものだとすぐに気づいた。

 母は擁子を正座させ、大切な家宝である短剣を出して、頭を剃った。「坊主になりたくないよぉ」と、擁子はしくしく泣いた。それが済むと、母は擁子に死んだ兵隊の軍服を着るように言った。

「死んだ人間の服なんか脱がせたくないわ」と言うと、「私がもう脱がしたわ」と好が言って、軍服を手渡した。汗とタバコの強い臭いがした。好は袖とズボンを巻き上げてくれたが、それでも大きすぎた。その格好で、3人は、それから何日も、線路を歩き続けた。


■7.「戦争は終わった」

 3人は、70キロを歩いて、ようやく京城に着いた。武装した日本人の警官が北から逃げてくる避難民を検問していた。「これからどこに行くのか」と尋ねられて、母は、息子が着くまで京城に留まり、戦争が終わったら、羅南に戻るつもりだと話した。

「戦争は終わった」と彼は言った。3人は驚きのあまり呆然とした。「いつ?」と好が聞くと、「昨日だが、君たちは羅南には戻れない。今、朝鮮では、日本人は危険な状況下に置かれている。だから、北からこれほど多くの人たちが避難しているのだ。」

「今日は何日ですか?」とまた好が聞くと「8月16日だ。では、長崎と広島に原子爆弾が落ちたことも聞いてないのか?」
羅南を脱出したのが7月29日夜だったので、3人は2週間以上もかかって、京城まで辿り着いたことになる。

 もう一人の警官が言った。「日本は負けた。広島も長崎も地獄そのものだ」 突然、母が地面に倒れた。警官は、周りに立っていた男たち数人に、母を駅の中へ運ぶように言い、自分はウイスキーを取ってきて、ほんの少し母の口の中に注ぎ、好は軍服の前のボタンを外し、胸をマッサージした。

 母が意識を取り戻すと、警官たちは親切に「娘さんの怪我の手当をしてやりなさい」と、屋根に赤十字が書いてある大きなテントがいくつかある場所を教えてくれた。


■8.竹林はるかに遠く

 そこで擁子を治療してくれた若い医師、武田は、偶然にも父の同級生の息子で、父をよく知っていた。「患者は全員、今月の末までにトラックで釜山に向かいます。赤十字船が10月2日にそこから日本に出発することになっているのです。一緒に母国に戻りましょう」

 しかし、母は長男の淑世に書き置きした通り、京城で待つつもりだった。毎日、北からの列車が到着する度に、淑世がいないか、捜しに行った。食べ物は病院裏のゴミ箱からあさってきた。初めは擁子は強い異臭を放つゴミ箱に手をいれることなど出来なかったが、好に「やりなさい!」と厳しく命令されて、やるようになった。

 好は、朝鮮人の男達が避難民の日本の女性を藪の中に連れ込んで、乱暴をした光景も見た。それでもう一度、髪を剃って貰い、ガーゼで胸をきつく巻いて、また薄汚れた軍服を着た。

 一度、独立を祝いながら酔った朝鮮人たちに取り囲まれたが、この変装で好は難を逃れた。しかし、連中は他の女性を見つけると、引きずり出した。たびたび悲鳴が響いたが、朝鮮人を怒らせると、何をされるか分からないので、誰も女性たちを助けようとはしなかった。

 母国日本に戻るには、京城から釜山を経て、さらに海を渡らなければならない。母国に戻れても、焼け野原になったという国土で、どんな生活が待っているのか。兄・淑世は今頃どうしているのか。

 羅南の家には、ちょっとした竹林があった。それは母が青森の実家の竹林を恋しがって、父が東京に出張した際に持ち帰った竹の根っこを植えたものだった。3人はすでに羅難の竹林から遙か遠くに来ていた。しかし、母国の母の実家のまだ見ぬ竹林も、いまだ遙か遠くにあった。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(357) 同胞4万救出作戦
 内蒙古在住4万人の同胞をソ連軍から守ろうと、日本軍将兵が立ち上がった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h16/jog357.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)

1. ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ『竹林はるか遠く─日本人少女ヨーコの戦争体験記』★★★、ハート出版、H25
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4892959219/japanontheg01-22/

大韓帝国皇帝が天皇陛下に日韓併合を求める手紙
2013/08/29
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」通巻第4008号 2013年8月29日より転載
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(読者の声3)貴誌前号(通巻第4007号)の「東海子」氏のご意見について朝鮮併合は正当防衛であるという点では賛同いたしますが、何からの防衛かについての氏のご意見「ロシアに隷属する朝鮮から日本を守るため」
というのはいささか不適当に思います。
実際に攻めてくるのは朝鮮兵だからという意味で仰っていることは分かりますが、見た目はそうであってもそれはあくまでもロシアの意思のなせる業ですから、やはりロシアから自らを防衛するためとすべきだと思います。
何故そのように細かいことにこだわるのかといえば、そういう認識が「日本は逆に朝鮮をイザベラ・バードが報告しているような李氏朝鮮時代の原始な状態にしておけば良かった。善政など全く余計だった。欧米人が植民地統治では絶対にやらない見境のない日本の失敗だった。」につながっているからです。これはあまりにも日本の先達の魂を分かっていない言葉だと思います。
日本が行った防衛策は朝鮮を植民地にすることではありませんでした。
自らの力で自らを守れない朝鮮を日本の國の一部にすることによって、日本と朝鮮を守ろうとしたのです。だから、日本の國の一部になったのですから当時の朝鮮に日本がしたことは当たり前のことであって、植民地を公平に扱った善政だったという問題ではありません。
ただ、日本の一部になったとはいってもそれまで別の國でしたし状況もかなり違っていた訳ですからそれを考慮しながら一体となる政策と同時に、独自の民族性にも配慮してハングル文字を発掘して辞書を編纂してそれを教育や行政に取り入れるといった、むしろ当の朝鮮人よりも朝鮮人の文化・主体性に配慮した柔軟な一体化政策を行っておりました。その結果多くの朝鮮人は自ら進んで日本人になりたがって改名したのです。
そして大東亜戦争時においては朝鮮人も自らと故郷と日本を守るために日本人として闘いました。
これはロシアが植民地人を先兵として最前線で闘わせたのと訳が違います。だから、朴元大統領のように日本軍の将校となって日本軍を率いた朝鮮人もいたのです。ところが、日本が負けた途端掌を返したように、自分たちは日本人ではない。日本に侵略された被害者で戦勝国側だと平気で裏切って、そういう利己的な立場を守るため、日本から絞れるだけ絞るために、恩人である日本を悪者にしたてるための嘘の作り事で塗り固めて真実を見ようとしないのが、現在の韓国人です。
ですから「歴史を忘れた者に未来はない」とはまさしく韓国人のためにこそある言葉です。
あの状況で日本が行った朝鮮併合は、当時の状況としては最善の策だったと私は思います。こういう方策を行ったところに先人・日本人の魂が示されていると思います。
ただ相手が悪かった。
周りの國の属国状態が長く続いて一度も國としての、人としての主体性を持てなかった朝鮮人たちの強烈な劣等感に基づく事大主義的に歪んだ根性には、そうした日本人の魂は猫に小判だったようです。
しかしそれは日本人の責任ではありません。朝鮮人・韓国人の方が人間としてあまりにもお粗末で酷すぎたということでしかありません。
しかし、このことは決して他人事ではなく他山の石として自らを戒める必要があります。今の日本もかつての朝鮮同様に属国状態で、國としての主体性を持てない状態がすでに相当長く続いているからですし、日本を悪者にする大宣伝が今も内外で盛んに行われ続けているからです。
つまり日本人としての魂が堕落してしまう危機的状態にさらされているのが現在の日本の状態だからです。
そんな時だからこそ、先人の行った魂ある行動を正当に評価し、それを正しく受け継いで日本の未来を切り開いていく必要があると思います。
(武骨)

  ♪
(読者の声4) 貴誌通巻第4007号(読者の声1)で東海子氏が日韓併合の日本側の目的について論じておられた。これはかつて小室直樹氏も論じておられた同じ、いわゆる正論である。
しかし、さらにいうと、日本政府首脳は当時多額のコストのかかる日韓併合ではなく、日本が多少の援助をして朝鮮が自立することを目指していた。そのために、当時日本政府の外交顧問として大活躍をしていた優秀な米国人 Durham White Stevens を李氏朝鮮(当時大韓帝国と自称していた)に提供した。
Stevensはその後、大韓帝国外交顧問として大活躍し、日韓修好条約を韓国により有利なものとすることに成功した。Stevensは、米国に帰国中、新聞のインタビューに答えて、韓国の庶民は日本の恩恵を受けていることを認めるべきだといったことが記事となり、その発言の撤回を求めた二人の朝鮮人の要求を断った。その場で、Stevensは殺された。
この恩を認めないためには何でもするという韓国人・朝鮮人の伝統は今も生きている。
損をしてでも他国の民を助けようとする日本人の心性も未だに生きている。
しかし損であるとわかっていて、何故日本政府は韓国を併合したのか。
大韓帝国皇帝が天皇陛下に日韓併合を求める手紙を書きこれを受け入れるよう日本政府に言ったからである。韓国の歴史学者たちは、その手紙は日本政府が恫喝して書かせたものと主張してきた。
平成17年(西暦2005年)に韓国人の学者が韓国で、大韓帝国皇帝が日本政府に日韓併合を求めることの可否を論じるよう内閣に下問したことを受けて行われた閣議の議事録を発見した。
これが、現存するもっとも客観性のあるこの問題に関する資料である。
しかし、韓国では公開されていない。日本人の学者も取り上げようとしない。内容は、賛成と反対に分かれていたが、議論の結果国家財政の赤字とロシアの軍事的脅威に対抗するには日韓併合しかないということで最終的には全員一致したというものである。三国史記も現在の韓国では歴史学者の説に反する部分が削除されたものしか韓国では手に入らない。
日本人を客観的に調査し、その結果日本からの朝鮮通信使に対して礼をもって接することを主張した18世紀前半の李氏朝鮮の大学者 星湖氏は韓国の歴史から抹殺された。これが韓国の歴史学会の実態であり、日本人の歴史学者の遠慮がちの姿勢である。
  (ST生、千葉)

日本の朝鮮統治を検証する 1910−1945
2013/08/28
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」通巻第4006号2013年8月28日より転載
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 ◆書評 ◇しょひょう ▼ブックレビュー ■ BOOKREVIEW 
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 日本の朝鮮統治の総括は、戦後かくも歪められてきたのか
  公平に客観的に朝鮮統治を比較検証すれば、九割が公平だった

ジョージ・アキタ、ブランドン・パーマー著 塩谷紘訳
『日本の朝鮮統治を検証する 1910−1945』(草思社)
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 画期的な、しかもアカデミックな歴史検証の書物がでた。
 米国の学者が、客観的な歴史の事実を踏まえて、これまでの俗説に挑戦したのだ。本書は日本の保守層にとって必読の文献となるだろう。
 日本の朝鮮統治は「殆どが公平におこなわれた」とする結論は、アメリカの歴史学会では異例、おそらく左翼陣営やリベラルなマスコミから「修正主義者」のレッテルを貼られるであろうが、その学者生命を賭けた勇気に私たちは瞠目する必要がある。
そして、この本が世界で広く読まれることを真摯に望みたいのである。
 小誌の読者にはいまさら説明の必要はないであろうけれども、日本の朝鮮統治が「帝国主義的な侵略だった」とか「残忍」とか「植民地主義による収奪」とか、でたらめなことをいってのけてきた左翼学者、ジャーナリストによって、いまも多くの日本人は『洗脳』されてしまったままである。
 しかし客観的事実を注意深く遡及し、慎重に比較検証してみれば、それこそが「穏健かつ公平、現実的にして、日朝の相互発展を目指」していたことが分かる。その事実を、しかしながら絶対に受け入れない国々がある。
 そして「朝鮮、韓国系の人々が往々にして極端に偏見に満ち、反日的な歴史の記憶をあえて選択して記憶に留める傾向を、少しでも緩和するお手伝いをするべく努力してきた。その中で非常に印象的だったのは、朝鮮の近代化のために、日本政府と朝鮮総督府が善意を持ってあらゆる努力を惜しまなかった」のである。
 書かれるべくした書かれた歴史のダイナミックな検証である。
 「フランス領カンボジアでは、1944年に就学対象児童の20%以下しか学校へ行けなかった」
いや、そればかりか「ベトナムに於けるフランスの教育的実績も寂しい限りだ」とする著者らは、就学率が10%以下であったうえ、『植民者』と『被植民者』との差別があった。つまり別々の学校へ通わされていた事実を淡々と書く。
日本統治下の朝鮮、台湾で、そういう露骨な差別はなかった。
 「フランス領西アフリカの教育制度はベトナム以下のレベルだった」
 「イギリスの植民地における教育実態は功罪相半ばした。大半が間接統治」でなされ、「現地の伝統的なエリート集団に日々の実権を委ね」た。
 イギリス統治のインドの識字率は12%だった。
 「イギリスとフランスがアフリカで施した教育の主眼は、現地人の学生達を労働者や活動的な市民にすることではなく、従順な農民にすることだった」。
 「ポルトガルの植民地教育は、文化的同化に焦点を絞った」。けれども「学費が極端に高く、実際に通学できた子供達はごく僅かだった」
 「ベルギー領コンゴの教育はすべての植民地の中で最悪だった」
 すなわち「日本は決して植民地の生き血を吸うバンパイアではなかった」
 朴大統領、播国連事務総長にも、この本を届けたい。

またもや慰安婦少女像計画
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」通巻第4007号2013年8月28日より転載

(読者の声1)貴誌前号に掲載された書評(ジョージ・アキタ、ブランドン・パーマー著 塩谷紘訳『日本の朝鮮統治を検証する 1910−1945』(草思社)について意見があります。
日本の朝鮮併合の正当論として朝鮮統治善政論がある。確かに人口が倍増し学校数は34倍になった。しかし日本が朝鮮を併合した目的はロシアに対する自衛のためである。朝鮮人に公平な善政を施す必要はなかった。十九世紀ロシア帝国は朝鮮半島経由で朝鮮兵を使って弱小未開の日本征服を考えていた。13Cの元寇の再現だ。日本人は元寇をモンゴル兵の襲来と思っているが実際はモンゴル人は指揮官だけで、他は皆朝鮮軍、支那軍だった。
大陸の戦争は被支配民族を使って攻撃するのが常道だ。
ということで日本は日清戦争でも日露戦争でも朝鮮がロシアに使われないように戦争した。実際、朝鮮人はロシア人に抵抗せず一度も戦っていないのだ。
だからこれは経済植民地を争ったわけではない。日本の朝鮮統治は、あくまでもロシアに隷属する朝鮮から日本を守るための正当防衛だった。大体本国の生存をかけて超大国と経済植民地を争う国はない。朝鮮人はこの事情を知っているようだが、日本人は全く知らない。だから併合を非難されると朝鮮統治は善政だったというような見当違いの言い訳に向かうのである。
本当はそれどころか日本は逆に朝鮮をイザベラ・バードが報告しているような李氏朝鮮時代の原始な状態にしておけば良かった。善政など全く余計だった。欧米人が植民地統治では絶対にやらない見境のない日本の失敗だった。
  (東海子)

(読者の声2)またもや慰安婦少女像計画!カルフォルニア州ミルピタスに。
韓国サンフランシスコ総領事も議会に登場! 官民挙げての韓国ロビー活動に日本人として反対の声を挙げよう!
カルフォルニア州サンフランシスコの南部、シリコンバレーでサンノゼの隣ミルピタス市( Milpitas)の議会で8月6日に慰安婦決議が採択されました。議場には、韓国サンフランシスコ総領事と韓国団体代表が出席。話し合いもなく、決議の報告と記念撮影でだけでした。明らかにロビー活動の成果です。
また韓国ニュースによると、韓国系団体は来年8月15日光復節までにミルピタス市に女像の建設を目指し、市議会に積極的にロビー活動を行うとのことです。ミルピタスはマイクホンダ下院議員の選挙区です。2010年人口66,790人のうち白人20.5%、アジア系62.2%。ただアジア系はフィリピン、中国、ベトナム系が多く、韓国系は非常に少ないようです。
ミルピタスにはウシオ電気やTDKなどの日本企業も多くあります。日本人も多く住むこの地に慰安婦少女像が建つのを絶対に許してはいけません。
韓国系団体のロビー活動は相変わらず活発ですが、諦めたら負け、黙っていては認めたことになります。ミルピタス市慰安婦決議への抗議と、慰安婦少女像計画反対のメッセージをミルピタス市議会とメディアに送りましょう!

メール送り先、英文メッセージ例等を纏めました。詳細は↓こちらをご覧ください。
CAミルピタス 慰安婦決議と少女像計画に抗議のメッセージを送ろう!
http://nadesiko-action.org/?page_id=4566

メールが苦手な方にお手紙を用意しました。<お手紙ダウンロード>署名、日付、住所を記入すれば完成です。
http://nadesiko-action.org/wp-content/uploads/2013/08/letter31.doc
<郵送先>Major Jose Esteves and Members of the City Council City of Milpitas City Hall、455 East Calaveras Boulevard、Milpitas, California 95035、USA

皆様の御協力お願い申し上げます。

ブエナパーク慰安婦少女像計画にいついて
8月2日号のお知らせで反対メールを呼びかけたブエナパーク慰安婦少女像計画ですが、現地邦人が反対の声を挙げて署名活動等を行ったこと、日本から沢山の反対メールが届いたこと、市長と市議の多数が反対の立場であることにより、現在の処、議会の議題には上がっていません。
しかし韓国系の市議が、慰安婦記念日を議題にしようとした動きもあり(議会直前に議題から外された)、慰安婦関連の議題が再度出される可能性があります。今後も注視していかなければなりません。反対のメールも引き続き御協力いただきたいと思います。
ブエナパークからの返信
http://nadesiko-action.org/?p=4545
慰安婦記念碑もうこれ以上許さない!カルフォルニア/ブエナパーク市
http://nadesiko-action.org/?p=4248
(正しい歴史を次世代に繋ぐネットワーク なでしこアクション 
http://nadesiko-action.org/
代表 山本優美子 問い合わせ先 JapanNetwork1@gmail.com)


日米衝突の萌芽
2013/08/13
日米衝突の萌芽
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」通巻第4000号 2013年8月13日より転載

 ドイツの巧妙な情報戦略にのせられた米国と日本が戦争に至ってしまった
   レーニンを亡命先からロシアへ連れ戻したのもドイツだった

 渡辺惣樹『日米衝突の萌芽 1898-1918』(草思社)
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 概略を簡潔に紹介すると世界歴史の裏舞台で展開されていた地政学的な政治と軍事の確執を軸に野心を抱く人物たちの思惑と行動が交錯する物語である。
前作と同様に、陰の主役、ロビィスト、フィクサーが躍りでてくる。どんな歴史書にもほとんど登場しない人物らが陰でワシントン政界を操っていた。

端緒はスペインとポルトガルの世界分轄戦争、植民地化の流れを本書の基礎におくことからはじまり、マゼランの世界一周航海が布石に置かれる。マゼランはドレイク海峡の手前の入り江から、太平洋につながる航路を発見し、香料群島へと航海を急いだ。
マゼランはポルトガル人で本名はマガリャンイスという。ある時からスペイン人になりすまし、南米から中米沖合、ハワイを経てフィリピンへ到る航路を発見したことになる。しかしマゼラン自身はフィリピンのセブ島東海岸で酋長との戦いで戦死した。
この前後の米国はと言えば、西海岸へいたるまでインディアンを大量の虐殺し、ゴールド・ラッシュに湧いた西河岸へと鉄道敷設を急いでいた。これが「開拓者精神」なるものの実態だった。人力が不足すると中国から苦役労働者(クーリー)を大量に輸入してカリフォルニアへ投入した。
広東からかき集められたクーリーは人間としての扱いを受けなかった。
 まだ太平洋へ本格的に侵出するという発想はなく、だからこそ日本の露西亜との戦いを金銭面で支援した。セオドール・ルーズベルト大統領は新渡戸稲造の『武士道』を友人らに配るほどだったから日本では同大統領を「親日派」と誤解した。

 同じ頃、スエズ運河で大もうけしたフランス人実業家兼冒険家のレセップスは64歳にして43歳もはなれた女性と結婚し、派手なパーティを連日開いて、つぎはパナマ運河と朗らかに謳っていた。
レセップスのパナマ運河は途中から資金が集まらなくなり、歴史的な大工事の三分の一ほどで倒産してしまった。詐欺だと訴えられ、敗訴したとき、法廷に立っていたのは息子で、レセップスは裁判中に死んだ。
このパナマ運河の開拓プロジェクトの後継権益を米国が狙っていた。
世界戦略上、是非とも必要と判断したワシントン政界の裏の動きを本書は克明に時系列に書き込む。
太平洋への近道を確保するには、ぜったいに欲しいパナマ運河。コロンビアに滅茶苦茶な理由を付けて戦争を仕掛け、パナマを強引に引き離して米国のものとするや、十年かけて強引に運河を建設した。あの阿漕な遣り方、その強引な外交手法は今日のワシントン政治にも影を落としている。

 つまりフィリピンを領有しても、米国の不安は、距離的に近く海軍力の発達していた日本がフィリピンを領有してしまうのではないかという、日本からみれば信じられない強迫観念にワシントンは取り憑かれていたのである。
 なぜか。目の前にドイツ海軍の太平洋への大々的進出があったからだ。
 「アメリカが当初予定していなかったフィリピン買収を決断した大きな要因の一つが、マニラ湾周辺で遊弋を続けるドイツ艦隊の存在だった」
なぜなら「スペインの米西戦争での敗北を受けてドイツは(スペインに代わる)ミクロネシアにおける盟主たらんと欲した」からで、既にドイツはマーシャル群島をおさえ、グアムをのぞくマリアナ諸島、カロリン諸島、パラオ諸島をスペインから買収済みだった。


▼演出だった米海軍大艦隊の「友好親善」派遣を日本は勘違いした

米国はドイツを前に日本の出番を先制して牽制する必要があった。
そのために軍艦を大量に横浜へ派遣して「友好親善」のセンセーショナルな訪問を演出する。ところが、日本はこれを平和友好の証と信じて大歓迎する。
米艦部隊を歓迎するために沖合に出迎えた日本の艦船は戦艦、巡洋艦など十六隻。米国が怖れたのは、この出迎えの日本海軍が突如、米艦隊を攻撃することだった。もし攻撃されたら米国海軍は殲滅に近い打撃となること、薄氷を踏む思いで日本にやってきたのである。
 こうした歴史が、じつに面白く物語風に語られるから、あるいは『三国志演義』を読むような波瀾万丈の緊張を読者にともなわせる。この盛り上げ方のうまさ、渡辺惣樹氏の筆力には端倪すべからざるものがある。

 さて。
 評者(宮崎)は本書を通じて初めて知った史実がある。
 それはドイツがいかに反日の嘘宣伝を欧米で繰り返して、日米離間を謀ったか、という薄気味悪い暗躍工作、情報活動の舞台裏である。
 「メキシコに一万の日本兵が偽装して駐在している」「日本人が西海岸に病原菌を運ぶ」「日本艦隊はハワイをとりにくる」などの嘘放送を、ドイツは巧妙に仕掛けて回っていた。
 おりからシナ人排斥ムードだった西海岸ではシナ人と日本人との区別がつかず、日本人移民排斥がカリフォルニアで圧倒的な勢いをみせていた時でもあった。
 「ドイツにとってカリフォルニアの人種問題(日本人排斥運動)は、その目的達成のためには実に都合のよいツールでした」
 日本人移民の排斥と日本の悪印象をアメリカ人に植え付けることは、ドイツの国益でもあり、情報戦争は世界史的意味から言えば常道であり、政治を倫理でみる日本人には到底理解しがたいアンモラルだろう。
だが、これぞ世界のリアル・ポリティックスの世界だ。
 軍事バランスをみても、当時のアメリカ海軍とドイツ海軍は、むしろドイツが有利だった。アメリカの「海軍大学では何度も対ドイツ戦の机上演習が繰り返され、そのたびにドイツ海軍有利の結果が出ていました」
 そうだったのか、米海軍はまだ世界の海に遊弋してはいなかったのだ。

 きわめつけの黄禍論はハースト家のだすイエロー新聞がひろげたのだが、その出鱈目な反日報道より、漫画がもっとも効果的だった。
 ドイツ人画家をつかってヴィルヘルム二世は「東方から黒雲に乗って現れる仏陀」を書かせ、ヨーロッパ上空には「十字架が描かれ、キリスト教文明国の団結を暗に訴えて」いる構図だった。
この悪辣な風刺漫画を効果的にばらまき、日本の進出を事前に防御しようと画策した。
この結果、「三国干渉」によって日本は屈辱的後退を余儀なくされ、ドイツは(1)日本のアジア大陸進出を阻止し、(2)遼東半島返還の見返りに中国の特区を日本に与えたが、ドイツの最大の眼目は「露西亜の関心をヨーロッパからそらすこと」にあった。「北海の制海権をめぐる独英のせめぎ合いを念頭におけば、(中略)これはドイツの本国の安全保障に直結する」。
 そして火事場泥棒のごとくドイツは山東半島に進出し、青島に自らの軍港をひらき、町全体にドイツ風な家屋をたてて下水道を完備させ、「小さなベルリン」と変えた(だから青島はいま行っても美しい町である。ドイツは青島にビール工場も建てた)。
 抜け目のない英国は、山東半島の威海衛を租借した。この軍港沖にある劉公島は日清戦争のときの清海軍基地だった。


 ▼アメリカ外交は頓珍漢だったのか?

 他方、アメリカは「ドイツが日本の朝鮮支配容認に反発する可能性を見越して」おり、「アメリカ外交にとっては、日本の関心をフィリピンに向けないことが肝要でした」
 爾後、シナをめぐる列強の衝突の歴史は割愛するが、たとえば第一次上海事変の背後にドイツがあり、蒋介石軍隊を訓練し武器を供与したのもドイツであり(それは日独伊三国同盟の最中にさえ)、要するにドイツは信用がおけない素質があるのである。
 けっきょく、第一次大戦中もドイツは「亡命先のスイスからレーニンをロシアへ連れ戻した」
 それも「イギリスとフランスはケレンスキー暫定政権の崩壊以降、ソビエトロシアの(対ドイツ)戦線離脱を極度に怖れていました。東部戦線にドイツを何としてでも留めておきたい。それが英仏両国の願いでした。そのための最も効果的な方法は日本にシベリア出兵させることでした」。

 話を現代に飛ばしても、この構造は変わらない。メルケル首相は2012年に二回、大デレゲートを率いて訪中したが、とくに二回目は反日暴動直後のことだった。パナソニック、トヨタなどが放火された。そしてベンツとフォルクスワーゲンが工場の大拡大を発表した。
まさに平仄が合う。前のパターンとそっくりではないか。ましてドイツの新聞論調をご存じだろうけれど、『南ドイツ新聞』も徹頭徹尾「反日」である。人民日報と同じかと思うほど出鱈目な日本分析がいまも、現実におこなわれているのである。

この浩瀚をすべて網羅することはできず、興味の深い読者は是非、本書を読んでいただきたい。渡辺氏が、本書で扱ったのは、1898年(米フィリピン領有)から1918年(第一次世界大戦終結)までの二十年の出来事。しかし「この短い間に起きていた事件の連鎖を紐解くことで、1941年の日米衝突に到る道筋(萌芽)が見えてくる」のである。
 
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■BOOKREVIEW ◆書評 ◇しょひょう ▼ブックレビュー☆
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  嘘に嘘を重ねて架空の歴史を描くのは歪んだコンプレックスが源泉
   しかし疑問なのは何故「韓流ドラマ」が日本で流行したか、である
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宮脇淳子『韓流時代劇と朝鮮史の真実』(扶桑社)
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 これはとてつもなく面白く、且つ痛快な本である。
なにしろ韓流ドラマが「すべて嘘である」ことをやさしい文章で、説き諭すように証明しているのである。
保守論壇においてさえ、こうした試みがあまりなされなかったから、珍しい時代考証本でもあり、しかも分析が世界史的展望の基本に立脚しているので、韓国の『愛国者』も本書に対して反論は出来ないだろう。最近はあまりに理不尽な韓国の主張に完膚無きまでの反論がなされるようになり、古田筑波大教授、室谷克実氏、呉善花氏の活躍がある。
 宮脇さんは一度しゃべり出すと、モンゴル語、満州語、シナ語の基礎があるから、史実考証は独壇場となる。
 評者(宮崎)はあいにく韓流ドラマに関心が薄く、というより一切興味がないので見たことがないのだが、唯一例外的に一回だけ旅先のホテルで『チャングム』とかいう番組を見た経験がある。なんとNHKだった。
十五分ほど見て、これがでっち上げの劇であることはすぐに分かる。その時代考証を無視した衣装やら、貧民街がきれいで宮中は御殿のように美しく、また喋る台詞の気障なこと、五分もみていたら吹き出すだけで、なんでこんな嘘が世界的ブームになるのか、おそらく想像できるのは、時代考証とか歴史的考察を度外視してのキレイゴト、わすれていたピュアな恋愛、その絵に描いたような慕情と悲恋に自らを感情移入してセンチメンタルになりたいからではないか、と思った。
ともかく偶然みた場面はなにかの事件で済州島へ島流しになっていた主人公の医師が復活し宮廷で手術をほどこして貴人を助けるという所だが、十六世紀の医学、とりわけ漢方医の状態だった韓国で、メスが登場したり、時代考証的にも出鱈目だった。
ところが日本ばかりか、韓流ドラマをバングラデシュとかミャンマーへ行ったときもガイド氏らが一様に『見ている』と言うのである。
「え?」。
帰国後、調べたら、これは韓国の国策、外務省予算がたっぷりついて対外宣伝、各国の外交プロパガンダの一環であることが分かって妙に納得した。

 さて。
 著者の宮脇さんは、これら韓流ドラマをDVDで全部、みたのである。
『チャングム』、『冬のソナタ』、『朱蒙』、『太王四神記』、『善徳女王』、『龍の涙』、『遺産』等々。嗚呼、ご苦労様でした。
そして例証のひとつとして次の記述がある。
「新羅語というのは、習俗から考えてもおそらくはアルタイ語族の系列だろうと推測できますが、現在では知る術がありません。古代の日本語は『万葉集』に残されましたが、朝鮮半島の古代の言葉は全く残っていないのです。人の名前が漢字でいくつか残っているだけで、どんな言葉かわからない。じつは、それが朝鮮半島の人は悔しくてしようがない」のである。
だからなんでもかんでも柔道から漢字まで「韓国が日本に教えてやった」という作り事を本気で言う。これがウリジナル(ウリとオリジナルを引っかけた揶揄語)。

▼日本で韓流ブームはぴたりと終演した

そして李明博前大統領の竹島上陸直後から、韓流ドラムのブームは日本では、ぴたりと終わった。
かわって嫌韓、反韓ムードがたかまり、政治的思想的には時代考証が深化し、韓国の主張していることが全てまったくの嘘であることも分かった。
その錯誤への悔恨が国民の多くに浸透し、北朝鮮弾劾、拉致問題のデモから、反韓デモへと色彩が変わり、日本各地で組織化され、とくに大久保のコリアンタウンでは毎週日曜、夥しいデモが行進がある。コリアンタウンに韓国人俳優のプロマイドを買いに来ているご婦人には「韓流ばばぁ」と非難するそうな。
 現象的なことはともかくとして、本書で展開されているなかで、とくに興味を引かれた記述がいくつかある。
そのうちから二つ、三つを紹介しておきたい。
 朝鮮の民が戦争につよいという韓流ドラマで誇張されていたような史実はない。
 「高麗がモンゴルに攻められたときも、王様と軍隊は民を見捨ててスタコラサッサと江華島へ逃げ込んだし、豊臣秀吉の慶長・文禄の役のときの李氏朝鮮軍にしても、明軍が出て来るまで連戦連敗でした。明らかになっている史実では、朝鮮半島にあった国はほとんど負け戦」だった。

「李舜臣は韓国内では大英雄として扱われている」うえ、この法螺話伝記を翻訳したおっちょこちょいも日本にいるが、まったくの「大嘘」で李舜臣の活躍で日本の水軍が逃げ帰ったという事実はない。
 「李舜臣は初期においてこそ補給部隊を襲撃して戦果を上げましたが、日本が対策を講じた後は何も出来なかった。連戦連敗の朝鮮軍にあっては、李舜臣が比較的奮闘したことは確かでしょう。(中略)明軍がやってきてようやく和睦交渉に漕ぎ着けますが、その交渉は明と日本との間におこなわれ、朝鮮は『蚊帳の外』だった」。

 「小中華主義で文明国を気取っていても、コピーするだけだから独自の文化が育たなかった。よく韓国は『自分たちが日本に文化を教えてやった』などと世迷い言をのたまうのですが、実際にはシナ文化が朝鮮半島を通り過ぎただけです。それを取り入れた日本の鵬が、はるかに確(しっか)りした文化の土台ができていたので、シナ文化を真似るだけのようなことはなかった」
 こうなると先方は立つ瀬もない。
 まだある。たとえば「漢に滅ぼされた王国『古朝鮮』は史実ではない」し、李氏朝鮮をひらいた李成桂は満州族(女真)だったこと、ハンブルを庶民に徹底普及させたのは福沢諭吉だったことなど、是非本書に当たられない。


 ▼嘗て韓国が反共を国是とした時代は過去の物語になった

 蛇足だが、個人的体験を書く。
 評者(宮崎)が最初に韓国へ行ったのは1973年、まだ朴正煕大統領のころで、一週間ソウルに滞在してあちこちを取材したが、大歓迎され、とくに有力閣僚がインタビューに応じてくれた。
彼らは一様に流ちょうな日本語、些細で微妙な表現も日本語でなした。金泌鐘首相も完璧な日本語を喋ったのだ。夜の宴会で驚いたのは参加者の多くが「日本時代は好かった」というのである。かれらはまた日本の『中央公論』『文藝春秋』などを仔細に読んでいた。
なにしろ当時の韓国は「反共」である。在韓米軍は最新の武装、38度線は緊張感がただよい、秘密のトンネルも次々と発見され、国民全体が反共ゆえに日本への依存も高かった。いや、国を挙げて親日ムードに溢れていた。いまとなっては考えられない状況がそこにあった。
日本の保守知識人はほとんどが韓国贔屓でもあった。
 爾後、何回か韓国へ行った。儒城温泉にも、古墳群にも、釜山にも済州島にも行った。或るシンポジウムでは高坂正堯氏と一緒だった。その懇親会には現代グループの鄭会長も金大中も、金泳三も出席した。
或る年の国際シンポジウムでは88年ソウル五輪を前に世界のジャーナリストが集まり、米国から来ていたボルシェグレーブ(NEWSWEEK元編集長)らとも知り合った。日本からは竹村健一、日高義樹氏らも出席していた。
 そうした日本重視政策が突如変わったのは、金大中政権からだろう。
金大中は、朴政権時代に日本に亡命し、高田馬場にオフィスをかまえて岩波、朝日などと交流し、左翼に染まっていった時代でもある。彼が誘拐され、それがKCIAの仕業とわかったときに、日本のマスコミは韓国を痛罵攻撃しはじめた。
凄まじい韓国批判が日本で本格化したのも、背後に米国の情報操作があった。
 そして日本の論調の変化とともに韓国は北朝鮮に理解を示すようになり、中国と国交を開くや、反共路線を弊履の如く捨てた。米国と距離を置く、日本のこととなるとぼろくそに批判し、反対に北京に靡いた。すなわち韓国は国を挙げて基本姿勢を中国へなびくことに決めたのだ。
 だから日本軽視は、中国重視への転換とパラレルに起きた。外交儀礼や国際常識を度外視しても、日本に出鱈目なことをやってのけるのは、その体内に染みついた事大主義、媚中の体質。強気に媚び、弱気を虐めるというDNAである。逆に言えば韓国がおかしなことを言い出すと、かえって哀れを誘う。


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(読者の声3)いささか旧聞ですが、7月27日の産経新聞に興味深い記事がありました。
ロシアで「信仰心の侮辱」と「同性愛の宣伝」を禁止する新法が発効したというものです。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130727/erp13072707280000-n1.htm

ソ連崩壊後のロシアでは海外から多くの新興宗教団体が布教・宣伝を強化、その中には「オーム真理教」も含まれますが、キリスト教系では「エホバの証人」などずいぶんトラブルの元のようです。誕生日もクリスマスも祝わず、他宗教の冠婚葬祭には参列不可、キリストは神の子であり神ではないなどロシア正教の教義とは全く相容れない。
『ろくでなしのロシア ―プーチンとロシア正教』(2013年 中村逸郎著 講談社)に出てくる逸話ではプーチンとロシア正教の関係が浮き彫りにされます。
ロシア正教の教会にはプーチンの肖像画が聖人の肖像画とともに飾られ、ロシア正教への財政支援としては低所得者向けとしてワインやタバコの無税・低税率での輸入割当、資源輸出枠の割り当てまであるという。樺太や北方領土でもロシア正教の聖堂や礼拝堂などの建設が進みロシア化に拍車がかかっている。
さらにプーチンはソ連時代に没収したロシア正教の財産の返還を進めているという。その流れの行き着く先にはロシア正教の国教化とプーチンの皇帝化があるのかもしれません。
ロシアの歴史を見ると開明的な君主が現われ改革をするも、晩年には独裁・専制政治に戻るのが常。
北方領土問題など、いっそ独裁者の方が話は早いかもしれませんね。
   (PB生、千葉)

(宮崎正弘のコメント)露西亜正教会はイコン信仰、生誕祭も、日時の設定も儀式の遣り方も違います。皇帝の権威に直結するスタイルですから、カソリック、プロテスタントといかに同根であれ、その土地の風土、習俗、歴史が織りなして露西亜独特の宗教世界を築いたのでしょう。
 ソ連崩壊直後に何度か露西亜を訪問したおりですが、イコンの持ち出しに制限がありました。小生が国宝級のイコンなど買えるわけがないのに、荷物を徹底的に調べられて苦笑した経験があり、取り上げられたのはキャビアの缶詰でした。当時は二個以上の持ち出しが禁止(いまは知りませんが)でした。

  ♪
(読者の声4)貴書『中国バブル崩壊が始まった』はまことに時宜に適った内容で、半日で一気に読了しました。今まで、なんとなく危ないと感じていた中国経済の現状をよく理解することが出来ました。
 中国のバブル崩壊がどの程度の速度、規模で進行するかは、中央銀行たる中国人民銀行が通貨供給をどう行うかにかかっており、通貨供給量をコントロールするに際し人民銀行がロンドンのシティやウォール街の意向にも配慮せざるを得ないのではないか、が注目されます。
中国人民銀行が中央銀行(通貨発行銀行)として、国際金融勢力から独立しているとは考えにくいからです。この辺りの情報を機会があれば教えていただければ幸いです。
 (MM生、都内)

(宮崎正弘のコメント)ご指摘のこと、きわめて重要ですが、そもそも中国の中央銀行はFRBとも、ECBとも、また日銀とも違い、共産党の支配下にあって、そのうえ為替が管理相場。変動相場に移行すると、たちまち機能不全に陥ります。
 西側のシステムと同様に考えると理解不能に陥ります。
人民元は裏付けのないシステムで輪転機を廻しているのであり、これがドルと交換できるところ自体が米英の暗黙の了解と、ウォール街とロンドンのシティが組んだ、つまり英米の対日本円、対ユーロの戦略と噛ませる複雑な回路をたどっているうえ、英米の思惑がまた部分的に異なるため、行く末を曖昧なものとしています。中国がユーロ保有を増やし対欧投資を増やして、英米を牽制しているのも、中国の世界戦略の一環でしょう。

『国民の修身 高学年用』を読む
2013/07/28

Japan On the Globe(809)国際派日本人養成講座 ■H25.07.28より転載

国柄探訪: 『国民の修身 高学年用』を読む
 国際社会で尊敬される日本人の育成を目指した戦前の道徳教育


■1.国際派日本人を育てるための「修身教科書」

 これはまるで「国際派日本人」を育てるための教科書ではないか、と思った。戦前の道徳教育の教科書を編集した『国民の修身』[a]がベストセラーとなり、その続編として刊行された『高学年用』[1]を読んでの感想である。その帯には次のような引用がある。

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 我らも国交の大切なことを忘れず、つとめて外国の事情を知り、外国人と交際するに当たっては、常に彼我の和親を増すように心掛けましょう。 我が国 第十課 国交(現代語訳)

 国旗はその国の印でございますから、我ら日本人は日の丸の旗を大切にしなければなりません。また礼儀を知る国民としては外国の国旗も相当に敬わなければなりません。 我が国 第四課 国旗

 外国人に対して礼儀に気をつけ、親切にするのは、文明国の人の美風です。 公民の務 第一課 礼儀
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 何かと言うと反日暴動を起こしたり、日の丸を焼いたりする近隣諸国の一部国民に学んで貰いたい事ばかりだ。彼らはいまだ「礼儀を知る国民」でも、「文明国の人」でもないのだろう。

 現代日本人が知るべきは、このような「修身教育」が、戦前から行われていたということである。今回は、この本から、特に国際社会に関する項目を見てみたい。


■2.「外国と対等に交際することになりました」

「外国との交際」に関して、次のように我が国の歩みを振り返る。

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 我が国は、徳川幕府が久しい間外国と交通することを禁じていたので、明治以前には余程(よほど)世界の大勢に後れていました。それがため、外国と交際を開いた時には、大そう不利益な条約を結び、その後長らく苦しみました。

 しかし国民はよくこれに耐え、力を合わせて国の繁栄をはかった結果、ついに外国も我が国の実力を認めたので、我が国は条約を改正することが出来て、外国と対等に交際することになりました。[1,p66]
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 欧米諸国が武力を背景に、アジア・アフリカ諸国と不平等条約を結ぶのは各地で見られた事であった。それを暴力で覆そうとしたのが中国だった。英米や日本の民間人を襲ったり、商店を略奪したり、商品をボイコットしたりと外交上の義務を果たさなかった[b]。米外交官ジョン・マクマリーは次のように記している。

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 人種意識がよみがえった中国人は、故意に(JOG注:対外条約で約束した)自国の法的義務を嘲笑し目的実現のためには向こう見ずに暴力に訴え、挑発的なやり方をした。・・・中国に好意をもつ外交官たちは、中国が外国に対する敵対と裏切りを続けるならば、遅かれ早かれ、一、二の国が我慢しきれなくなって手痛いしっぺ返しをするたろうと説き聞かせていた。[2,p221]
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 我が先人たちは、こういう野蛮なやり方をしなかった。歯を食いしばって国内の近代化を進め、我が国の実力を認めさせることで、条約改正にこぎつけ、対等の外交を実現した。しかもそれを修身の教科書で「外国との交際はかくあるべし」と教えているのである。


■3.「小さい軍艦で、よくも太平洋を無事に越えてきたものだ」

 外国に実力を見せつけた事例として、勝安芳(勝海舟)の逸話が出てくる。若いときに西洋の8巻の兵書を買えなくて、それを持つ人の家に毎晩出向き、筆写した逸話をまず紹介する。

 その後、勝は長崎でオランダ人について航海術を学んだ。そして、幕府が国使をアメリカに送るという話を聞く。

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 安芳はそれを聞いて、我が航海術の進歩を見せるには、この上もないよい機会だと思ったので、自分の教えた部下を指図して日本人の力だけで航海をしたいと願い出ました。[1,p177]
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 幕府は日本人だけでは危ないと容易に許さなかったが、安芳の熱意に負けて、咸臨丸(かんりんまる)という小さな軍艦を派遣することとした。

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 航海中は毎日のように雨風が続いて、海が大そう荒れました。嵐が激しい時には、船体がひどく揺れて、ねじ折られそうになったことが幾度もありました。

 しかし、安芳らは少しも恐れず、元気よく航海を続け、日本を出てから三十八日目にサンフランシスコに着きました。アメリカ人は、日本人が航海術を学んでからまだ間がないのに、少しも外国人の助けを受けずに、小さい軍艦で、よくも太平洋を無事に越えてきたものだと、大そう感心しました。[1,p178]
ゆ注:水夫は元塩飽水軍が勤めましたが、海舟を始め多くの日本人は船酔いして、米航海士の助けを必要としたので、ここでの書き方は誇張があります。鎖国(海禁)政策の為日本は海洋国家ではなくなっていていたので、この体たらくです。海こそ日本の守りです。
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 当時の小学生たちは、こういう逸話を読んで、自分も国の発展のために何事かを成し遂げようという気概を抱いた事だろう。


■4.「欧州諸国に比べて見ると、まだ及ばない所があります」

 しかし、対等の条約を結んだからといって、それでもう世界の大国になった、というような夜郎自大な意識は全くない。

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 我が国は、かような発達の結果、欧州大戦の後には世界の大国の中に列することになりました。・・・しかし現在でも、英・米・独・仏等の欧州諸国に比べて見ると、まだ及ばない所があります。将来我が国が更に発達してこれらの国々と肩を並べて共々に、文明の進歩をはかって行くようにするのは、我等の責任です。[1,p68]
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 これに比べれば、戦後の高度成長で世界第2の経済大国になったと浮かれたり、中国に抜かれたと言っては落ち込んだり、という姿勢は、いかにも子供じみたものに見えてくる。

 世界の中で問うべきは「文明の進歩をはかって行く」上で、国家としてどれだけ貢献しているのか、ということだ。そのためには、国民一人ひとりがよく身を修めて、立派な日本人にならなければならない、というのが、修身教科書の教えである。


■5.「国と国とが親しく交わり互いに助け合っていく」

 修身教科書では、国交の大切さをこう説く。

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 隣近所どうし互いに親しくして助け合うことが、共同の幸福を増す上に必要なことは、いうまでもありません。それと同様に、国と国とが親しく交わり互いに助け合っていくことは、世界の平和、人類の幸福をはかるのに必要なことです。[1,p72]
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 その具体的な内容として、明治天皇が明治41(1908)年に賜った詔書で「ますます国交を修めて列国と共に文明の幸福を楽しもう」と言われていること、大正天皇の詔書にも「万国の公是(世間一般が正しいと認める事柄)によって平和の実を挙げ我が国力を養って時世の進歩に伴うように努めよ」と諭された事を紹介している。

 さらに昭和天皇については、次の逸話を紹介する。

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 今上天皇陛下は皇太子であらせられた時、欧州諸国を御巡歴になりました。半年の間、陛下は至る処の国々で御交際におつとめになり、いつも非常に好い感じをお与えになりました。これがため各国との和親がどれほど増したか計り知られません。

 我らも国交の大切なことを忘れず、つとめて外国の事情を知り、外国人と交際するに当たっては、常に彼我の和親を増すように心掛けましょう。[1,p73]
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 昭和天皇の皇太子時代の欧州御巡歴とは、第一次大戦終結のわずか3年後、多くの人々が治安を心配する中で決行されたものだが、同盟国である英国からは大歓迎を受け、また大陸の激戦地を視察されて青年皇太子は戦争の悲惨さを実感された。[c]

 このように明治維新以降、皇室は国際友好の大切さを身を以て示されてきた。天皇方の御言動を説けば、それはそのまま国際友好の理想を小学生に教える教材になる、という処に我が国の有り難い国柄がある。


■6.「知っている人も知らない人も博(ひろ)く愛するのが人間の道」

 国と国との交わりと言っても、その実体は人と人との交わりである。首脳同士、外交官同士の交わりもあれば、民間人の交わりもある。日本国民一人ひとりが、外国人に対しても友情を持って交わることが出発点である。修身教科書は、このために次のような逸話を紹介している。

 紀伊の水夫虎吉らはミカンを積んで江戸に行き、その帰り道に暴風に遭って吹き流され、2か月も漂流した。そこをアメリカの捕鯨船に救われ、親切に介抱された。

 捕鯨船は北洋で半年ばかり捕鯨をした後に、虎吉らを便船に頼んで香港に送り届けてくれた。そこで仕立て屋をしている日本人が世話をやいて上海まで送り届けてくれ、そこから支那の役人の保護を受けて、ようやく帰国できた。3年も経って郷里ではてっきり虎吉らは死んだと思っていた所、無事に帰ってきたので夢かとばかり喜んだ。

 この逸話を紹介した後、修身教科書は次のように説く。

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 知っている人も知らない人も博(ひろ)く愛するのが人間の道であります。いろいろ災難にあって困っている者を救うのはもちろん、たとえ敵でも、負傷したり、病気になっていたりして苦しんでいる者を助けるのは、博愛の道です。

明治三十七、八年戦役(JOG注:日露戦争)に上村艦隊が敵の軍艦リューリク号を打ち沈めた時、敵のおぼれ死のうとする者を六百余人も救い上げたのは、名高い美談であります。[1,p105]
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 教育勅語に「博愛衆に及ぼし(博く世間の人に慈愛を及ぼし)」とあるが、修身教科書のこの一章はまさしくこの「博愛」を具体的な逸話を通して語ったものである。


■7.博愛の心で、外国人を救った日本人たち

 戦前の我が国には、こうした博愛の心で外国人を救った事例に事欠かない。弊誌で紹介した事例をいくつか挙げると:

・明治23(1890)年、トルコ軍艦エルトゥールル号が和歌山県串本町沖で岩礁に激突、沈没したが、村民総出で救助にあたり、69名を救出。[d]

・大正9(1920)年、シベリアに流刑になっていたポーランド独立運動家たちの子供765名を、ロシア革命の混乱から救い出し、日本で健康を回復させた後で、母国に送り届けた。[e]

・昭和12(1937)年、ロシアを脱出しようとする約2万人のユダヤ人が吹雪の中で立ち往生しているのを、ハルピン特務機関長・樋口少将の指揮で満洲国関東軍が救出。[f,g]

・昭和14(1939)年、日本海軍は上海の租界地に各国から逃げてきたユダヤ人難民1万8千人を収容し、その安全を図った。[h]

・昭和15(1940)年、ナチス・ドイツとソ連に分割占領されたリトアニアのユダヤ人約6千人に杉原千畝領事がビザを発行し、日本経由でイスラエルやアメリカに脱出させた。[i]

・昭和17(1942)年、工藤俊作艦長率いる駆逐艦「雷(いかづち)」は撃沈した英軍艦の漂流者422名を救助した。[j]

・昭和18(1943)年、中国河南地区でイナゴの大群に襲われて餓死寸前の多くの農民を日本軍が糧食を放出して救った。[k]

 これらの義挙を成し遂げた人々は、小学生時代にこの修身教科書で「博愛」を学んだのであろう。


■8.博愛と義勇を兼ね備えた国際派日本人

 国際友好や博愛を説くと同時に、修身教科書は防衛努力の大切さを説くのも忘れない。

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 今日文明諸国は、皆共同して、戦争を避け平和を保つために、出来る限りの力を尽くしています。しかし、世界にたくさんある国と国との間には、いろいろの原因からいつ戦争が始まらないとも限りません。それで、もし我が国にも禍(わざわい)が及んで、国の安危に関するようなことが起こったら一大事です。それ故に、我らが一致して我が国の防衛に心を用い、その安全を図るのは最も必要なことです。[1,p118]
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 ここには戦後の日本国憲法の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というような空想的世界観はない。こういう空想に囚われると、現代のチベット民族やウイグル民族の苦難も見えなくなってしまう。

 博愛を及ぼし、平和を守り、文明の進展を図るためには、時には戦わなければならない時がある。教育勅語で「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」の「義勇」とは、「正義心と勇気を持つ」事であろう。そして博愛と義勇とは表裏一体である。義勇がなければ、博愛も実行に移せない時がある。

 前節で挙げた数々の義挙を行った人々は、この博愛と義勇を兼ね備えた人々であろう。これらの人々の行為は今日の国際社会でも十二分に尊敬されうる。こういう国際派日本人を育てたのが戦前の修身教科書であった。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(758) 『国民の修身』を読む
 極東の一小国が半世紀で世界の五大国に仲間入りした原動力は、修身で培われた道徳力にあった。
http://blog.jog-net.jp/201207/article_6.html

b. JOG(668) 「日貨排斥」の歴史は繰り返す
 貿易を通じた中国の嫌がらせに、戦前の日本人も憤激していた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogdb_h22/jog668.html

c. JOG(187) 皇太子のヨーロッパ武者修行
 第一次大戦後の欧州を行く裕仁皇太子は、何を見、何を感じたか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h13/jog187.html

d. JOG(102) エルトゥールル号事件のこと
 難破船救助から始まった日本とトルコの友好の歴史。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog102.html

e. JOG(142) 大和心とポーランド魂
 20世紀初頭、765名の孤児をシベリアから救出した日本の恩をポーランド人は今も忘れない
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog142.html

f. JOG(085) 2万人のユダヤ人を救った樋口少将(上)
 人種平等を国是とする日本は、ナチスのユダヤ人迫害政策に同調しなかった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog085.html

g. JOG(085) 2万人のユダヤ人を救った樋口少将(下)
 救われたユダヤ人達は、恩返しに立ち上がった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog086.html

h. JOG(260) ユダヤ難民の守護者、犬塚大佐
 日本海軍が護る上海は1万8千人のユダヤ難民の「楽園」だった。http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h14/jog260.html

i. JOG(021) 命のビザ
 6千人のユダヤ人を救った日本人外交官
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog021.html

j. JOG(458) 駆逐艦「雷」艦長・工藤俊作 〜 敵兵422人を救助した武士道
「貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog458.html

k. JOG(691) 日本軍に救済され、中国軍と戦った難民たち
 餓死に追い詰められていた民衆は、救援してくれた日本軍とともに、中国軍相手に立ち上がった。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 渡部昇一監修『国民の修身 高学年用』★★★、産経新聞出版、H25
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4819112228/japanontheg01-22/

2. 藤岡信勝『新しい歴史教科書─市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/

歴史教科書読み比べ(10) 白村江の戦い
2013/07/21
Japan On the Globe(808)■国際派日本人養成講座■H25.07.21より転載

歴史教科書読み比べ(10) : 白村江の戦い
 老女帝から防人まで、祖国防衛に尽くした先人の思い。

■1.「日本の軍船400隻は燃え上がり、空と海を炎で真っ赤に染めた」

 663年の白村江(はくすきのえ)の戦いは、古代日本のその後の進路を大きく変えた出来事だった。自由社版の歴史教科書は「白村江の戦いと国防の備え」と題した1節を設け、こう書く。

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 7世紀のなかば、朝鮮(ちょうせん)半島では新羅(しらぎ)が唐(とう)と結んで百済(くだら)を滅亡させた。日本と300年の親交がある百済が滅び、半島南部が唐の支配下に入ることは日本にとっても脅威だった。

そこで、百済を復興するための救援要請を受けた朝廷は、多くの兵と物資を送った。唐・新羅連合軍との決戦は、663年、半島南西部の白村江で行われ、2日間の壮烈な戦いののち、日本・百済側の大敗北に終わった(白村江の戦い)。日本の軍船400隻は燃え上がり、空と海を炎で真っ赤に染めた。次いで、新羅は高句麗もほろぼし、朝鮮半島を統一した。[1,p56]
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「日本の軍船400隻は燃え上がり、空と海を炎で真っ赤に染めた」とは『旧唐書』での記述をもとにしているが、印象的な光景である。

■2.東書版の2つの違い

 この白村江の戦いについて、東京書籍版はわずか5行で済ませている。

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 朝鮮半島では、新羅(シルラ、しらぎ)が唐(とう)と結んで百済(ペクチュ、くだら)や高句麗(コグリョ、こうくり)をほろぼしました。日本は百済を助けるために大軍を送りましたが、新羅・唐の連合軍に敗れました(白村江(はくすきのえ、はくそんこう)の戦い)。その後、新羅は、唐の軍隊を追い出して、朝鮮半島を統一しました。[2,p34]
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 シルラ、ペクチュ、コグリョと半島諸国には朝鮮語の読み仮名を振り、唐は日本語読みにしているのは、あいかわらずの二重基準、半島向けおべっかである。[a,b]

 しかし、それ以外にも、この短い記述で、自由社版とは大きな違いがある。第1は、東書版では「日本にとっても脅威」という視点がまったくないこと。第2に、「新羅は、唐の軍隊を追い出して、朝鮮半島を統一しました」という記述を加えていること。

 以下、この2点を考えてみたい。


■3.「半島南部が唐の支配下に入ることは日本にとっても脅威だった」

 大和朝廷の出兵動機は明確だった。第一に300年ものよしみのある百済が滅びるのを傍観していては道義心が許さないこと、第二には、百済が唐に侵されてしまうことは、日本への直接の脅威になること、この2点で朝議は一決した。[3,p243]

 第二の理由である「半島南部が唐の支配下に入ることは日本にとっても脅威だった」との自由社版の一節は、現代にも通用する地政学的な常識だ

 鎌倉時代の元寇は、朝鮮半島を手中にした元が朝鮮軍を手先として使って、我が国に侵略を試みたものである。明治に入ってからの日清戦争は朝鮮を清国の覇権下から独立させるために行われたものだったし、日露戦争は朝鮮がロシアの勢力圏に落ちることを防ぐためだった。戦後の朝鮮戦争も朝鮮全域が共産化すれば、日本もドミノ倒しになる、という米国の危機感からだった。

 坂本太郎博士は[3]において、68歳の女帝が自ら北九州まで軍を率いて出向いたこと、しかし慣れない旅と風土のせいか、病気にかかり、亡くなってしまった事実から、こう述べている。

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 老齢の女帝が遠く九州まで足をのばしたこの事実は、百済救援の問題が、日本にとって、どんなに重大と考えられたかを示してあまりがある。[3,p244]
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 さらに後を継いだ中大兄皇子は大和に帰って母天皇の大喪もできず、また即位もしないで、皇太子のままで遠征軍の指揮をとった。百済救援が、我が国の安全保障上、致命的な問題と考えられていたことは、これらの事実からも容易に窺うことができる。


■4.「九州の博多湾の近くにつくられた軍事用の施設です」

 さらに敗戦後に、日本が必死の防衛努力を行った点を見ても、この事が分かる。自由社版は「白村江の戦いと国防の備え」の後段でこう述べる。

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 白村江の敗北は、日本にとって大きな衝撃だった。唐と新羅の襲来を恐れた日本は、九州に防人(さきもり)を置き、水城(みずき)を築いて、国をあげて防衛につとめた。また、中大兄皇子は都を飛鳥(あすか)から近江に移し、即位して天智天皇(てんじてんのう)となった。天皇は国内の改革をさらに進め、全国的な戸籍をつくった。[1,p56]
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 東書版でこれに相当する部分は、次の一文のみである。

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 中大兄皇子は、西日本の守りを固め、やがて即位して天智天皇となると、全国の戸籍をつくるなど、改新の政治を進めました。
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 東書版では「半島南部が唐の支配下に入ることは日本にとっても脅威だった」事を述べず、またここでも「唐と新羅の襲来を恐れた」という点を語らない。これでは多くの中学生たちも、なぜ「西日本の守りを固め」たのか、分からないだろう。


■5.水城(みずき)を築いた理由

 それを述べないのに、なぜか、「大野城と水城」の半頁もの鳥瞰図を載せて、九州の博多湾の近くにつくられた軍事用の施設です」と男子生徒に言わせ、さらに「対馬につくられた金田城跡」の写真を掲示し、「海上からの攻撃に備えてつくられた石垣です」と注記している。

 水城を「軍事用」と言うのはおかしい。攻撃には何の役にもたたないのだから、「防衛用」と言うべきだ。

「日本にとっての脅威」も「「唐と新羅の襲来を恐れた」点も文中では何も語らずに、大きなスペースを使って、「軍事用の施設」のイラストを使った理由は何なのか。

 好意的に考えれば、中学生たちが半島への出兵も、これらの国防努力も、「半島が敵対勢力に落ちたら、日本にとっての脅威」であることを、自ら考えさせよう、という高度な教育的配慮であるのかもしれない。

 しかし、疑り深い弊誌は、東書版を使って「日本が朝鮮半島侵略に失敗し、その報復を恐れて、人民に多大な労役をかけて、巨大な軍事用施設まで作らせた。日本は古代から軍国主義だった」などと勝手に教える偏向教師もいるのではないかと、邪推している。

 自由社版には現代に残る水城の跡の写真を載せ、こう記している。
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太宰府の守り 九州の玄関口・博多湾に向かって長く続いている緑の帯が水城の跡。水城は太宰府防衛のために築かれた土塁で、延長約1キロメートル、幅が約80メートルあり、内側に水をたたえていた。[1,p56]
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 こういう記述なら、中学生たちも当時の日本人の危機感も偲べるだろう。


■6.新羅の「仁義なき戦い」

 東書版のもう一つの違いである「新羅は、唐の軍隊を追い出して、朝鮮半島を統一しました」という点を考えてみよう。

 確かに、これは史実である。唐は百済の旧王族を温存して旧百済領を支配させ、高句麗領は植民地支配をした。新羅はこれを不満として、旧百済領に武力侵攻する。唐は怒って、新羅王の官位を剥奪するが、新羅は謝罪使を送りつつ、唐軍との戦闘は継続し、なおかつ日本に使節を送って、接近を図る。

 こうした新羅の「仁義なき戦い」に、さしもの唐も音を上げて、半島支配を諦めて本土に引きあげるのである。[4,p310]

 これに比較すべきは、大和朝廷が「300年のよしみのある百済が滅びるのを傍観していては道義心がゆるさない」事を第一の理由として出兵した姿勢であろう。

 近代日本は日英同盟でも、三国同盟でも、日米同盟でも、相手を裏切ったことがない。それに対して、新羅の外交姿勢は、今の北朝鮮を彷彿とさせる。こうした歴史を見れば、外交上の信義をおける国かどうかはすぐ分かるものである。

 新羅の朝鮮半島統一を言うなら、ここで述べた数行くらいは追加して欲しいものだ。それを隠して「唐の軍隊を追い出して、朝鮮半島を統一しました」と自慢するだけでは片手落ちである。

 東書版の著者たちには、どうも半島に対する祖国愛を抱いている人が混じっているようだとは、本シリーズで何度も述べてきたが、この一文でもそれを感じる。

 その祖国愛は見上げたものだが、それは韓国か北朝鮮の歴史教科書で発露すべきもので、日本人のための日本史教科書で他国への祖国愛を裨益されては、はなはだ迷惑である。


■7.防人の歌に見る兵士たちの真情

 ここで久しぶりに育鵬社版の歴史教科書に登場してもらおう。自由社版にもない、優れた内容があるからだ。万葉集に収められた防人(さきもり)の歌の紹介である[5,39]。防人とは、敗戦後、大陸からの襲来に備えて九州に太宰府が設けられ、そこに配置された東国の兵士たちである。

__________
父母が 頭(かしら)掻(か)き撫(な)で 幸(さ)くあれて
 言ひし言葉ぜ 忘れかねつる
(出発するとき私の頭をかきなで「元気でな」と言った父母の言葉が忘れられない)

水鳥の 立ちの急ぎに 父母に
 物言(は)ず来(け)にて 今ぞ悔しき
(水鳥が飛び立つようにあわただしく旅立ってきたので、父母に別れの言葉を言うこともできなかった。それが今となって悔やまれる。)

葦垣(あしがき)の 隈所(くまど)に立ちて 吾妹子(わぎもこ)が
 袖(そで)もしほほに 泣きしそ思(も)はゆ
(私が旅立つとき、葦の垣根のすみに立って、袖もぐっしょりとなるほど泣いていた妻のことが思われてならない)

唐衣(からころも) 裾(すそ)に取り付き 泣く子らを
 置きてぞ来ぬや 母(おも)なしにして
(私の服の裾にとりついて「行かないで」と泣いた子どもたちを置いてきてしまった。あの子らは母もいないのに)
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 現代なら、軍国主義に対する反戦歌などと教える教師もいよう。しかし、ここには自分を防人として徴用した国家への恨み辛みは微塵も感じられない。ただただ公の任務に立つ際の肉親を思う真情が溢れている。先の大戦での特攻隊諸士の真情と同じである。[c]

 国家の最初の公的な歌集に、こういう名もなき兵士の真情の籠もった歌を多く取り上げて、共感を寄せた所に我が国の国柄がある。唐や新羅の兵士も同様な真情を抱いただろうが、彼らの思いは後世に伝えられたのだろうか。


■8.愛国の人

 もう一つ、教科書には登場しないが、ぜひ中学生たちに授業の中で紹介して貰いたい逸話がある。

 白村江の戦いで捕虜になり、長安に連行された兵士の中に、大伴部博麻(おおともべのはかま)という若者がいた。日本書紀によれば、現在の福岡県八女市上陽町から出兵した一人である。

 博麻は捕虜生活中に、日本征服を企む唐の計画を耳にする。この情報を祖国に知らせようと、博麻は自分を奴隷として売って金を作り、それを捕虜仲間に渡して船を調達させ、帰国させる。彼らのもたらした情報をもとに、水城などの防衛施設が構築された。

 博麻はそれから28年後に奇跡的に帰国できた。時の持統天皇は博麻に異例の勅語を賜った。その一節に「朕(ちん)、厥(そ)の朝を尊び国を愛(おも)ひて、己を売りて忠を顕すことを嘉(よろこ)ぶ」とあり、これが「愛国」という言葉が我が国の歴史に登場した最初の例であったという。

 肉親との別れを悲しみながらも祖国防衛のために遠地に向かった防人、自らの身を奴隷として売ってまで祖国に危急を知らせた博麻、さらには68歳の老身に鞭打って九州まで出陣した女帝・舒明天皇、母の崩御に悲しむ余裕もなく半島遠征と敗戦後の国土防衛に打ち込んだ中大兄皇子。

 そうした人々の心の内に思いを馳せることが、未来の国民を育てるための歴史教育なのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) 〜 聖徳太子の理想国家建設
 聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
http://blog.jog-net.jp/201303/article_1.html

b. JOG(799) 大化の改新 〜 権力闘争か、理想国家建設か
 聖徳太子の描いた理想国家を具現化しようとしたのが大化の改新だった。
http://blog.jog-net.jp/201305/article_4.html

c. JOG(306) 笑顔で往った若者たち
 ブラジル日系人の子弟が日本で最も驚いた事は、戦争に往った若者たちの気持ちだった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h15/jog306.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 藤岡信勝『新しい歴史教科書─市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/

2. 五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み

3. 坂本太郎『日本の歴史文庫〈2〉国家の誕生』★★★、講談社、S50

4. 熊谷公男『大王から天皇へ 日本の歴史03』 ★、H20、講談社学術文庫
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4062919036/japanontheg01-22/

5. 伊藤隆他『新しい日本の歴史─こんな教科書で学びたい』★★★、育鵬社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594064019/japanontheg01-22/

6. 占部賢志「愛国の人 大伴部博麻 祖国守護に生きた勇者の物語」、産経新聞、H24.05.05

▼私の祖先越智・河野氏18代伊予大領盛興は勅命に従い新羅に渡るも白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ捕虜となり、唐に捕囚になりますが、越の女の助力により帰国します。日本霊異記より)

福島第一原発の大惨事を食い止めた男たち
2013/07/14
▼吉田昌郎元所長ががんで亡くなられた。殉死されたとの思いが多くの国民の心に浮かぶと思います。
自分のことしか考えないようにみえることが多いこの世の中ですが、自分の命を賭けることのできる人間が一人でもいることが実感できて、自分の思いを深めることになりました。
ありがとうございました。そねだゆ▼

Japan On the Globe(807) ■国際派日本人養成講座■H25.07.14より転載

国柄探訪: 福島第一原発の大惨事を食い止めた男たち
 私はあの時、自分と一緒に「死んでくれる」人間の顔を思い浮かべていたんです。

■1.自分と一緒に「死んでくれる」人間の顔を思い浮かべていた

 福島第一原発所長・吉田昌郎の様子に「異変」が起きたことを、その背後に座っていた企画広報グループの猪狩典子は見逃さなかった。

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 あの時、もう最後だと思いました。それまで席に座っていた吉田さんが突然、立ち上がったかと思うと、机の下にそのまま「胡座」をかくように座ったんです。吉田さんは、しばらく頭を下にして、目をつむっていました。私は、ああ、(プラントが)もうダメなんだ、と思いました。[1,p251]
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 震災発生から4日目の3月14日夜、不眠不休のまま吉田は緊急時対策室で指揮をとっていた。1号機に続いて3号機で水素爆発が起こり、その影響で2号機の冷却機能が失われ、核燃料の格納容器の圧力が高まり、その爆発という最悪の事態がいつ起きても不思議ではなかった。吉田はそれに備えて、協力企業の人たちを待避させたばかりだった。吉田は後に、こう語っている。

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 私はあの時、自分と一緒に「死んでくれる」人間の顔を思い浮かべていたんです。

 その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。・・・あとはもう神様、仏様に任せるしかねぇというのがあってね。

 何人を残して、どうしようかというのを、その時に考えましたよね。ひとりひとりの顔を思い浮かべてね。[1,p254]
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■2.日本は「三分割」されていたかもしれません

 格納容器が爆発するとどうなるか、吉田はこう考えていた。
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 格納容器が爆発すると、放射能が飛散し、放射線レベルが近づけないものになってしまうんです。ほかの原子炉の冷却も、当然、継続できなくなりますから、全部でどれだけの炉心が溶けるかという最大を考えれば、第一と第二で計十基の原子炉がやられますから、単純に考えても、「チェルノブイリx10」という数字が出ます。[1,p356]
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 斑目春樹・原子力安全委員会長(当時)は、これを聞いて、こう語った。

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 私は最悪の場合は、吉田さんの言う想定よりも、もっと大きくなった可能性があると思います。近くに別の原子力発電所がありますからね。福島第一が制御できなくなれば、福島第二だけでなく、茨城の東海第二発電所もアウトになったでしょう。

そうなれば、日本は「三分割」されていたかもしれません。汚染によって住めなくなった地域と、それ以外の北海道や西日本の3つです。日本はあの時、三つに分かれるぎりぎりの状態だったかもしれないと、私は思っています。[1,p256]
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■3.やらなければならないことが、頭の中で回転し始めた

 地震発生から1時間ほどして、「非常用電源がオフ! 停まりましたぁ!」という声が響いた時が、吉田が最初に最悪の事態を想定した瞬間だった。

「どういうことだ!」と吉田は反射的に叫んだ。「わかりません」「なぜなんだ? すぐ確認しろ!」「はいっ」

 地震のあと起動して今まで動いていた非常用電源が停まったという。やがて、次々と情報が入り始めた。10数メートルもの津波で非常用電源装置がやられ、中央制御室が真っ暗になり、すべての計器が動かなくなってしまった、、、

「そうか、、、(全電源喪失で)最悪の事態が来るかもしれない」と吉田は考えた。チェルノブイリ状態になるかもしれないと思いながらも、やらなければならないことが頭の中で回転し始めた。

 原子炉を電気で冷やすことができなければ、水で冷やすしかない。水なら海にいくらでもある。その水をプラントに入れるには、消防車しかない。多くの専門家が驚くのは、この段階で吉田が、消防車の手配まで行わせていたことだ。

 3台あった福島第一原発の消防車のうちの2台は津波にやられ、稼働可能だったのは、たまたま高台にあった一台だけだった。それが分かった5時過ぎには、吉田の依頼が自衛隊に伝えられ、福島第一原発に消防車が向かうことになる。自衛隊の消防車が事故の拡大をぎりぎりで止める事になるとは、この時点では誰も予想していなかった。

 長年、原発の補修や運営に携わってきた現場のプロだけが持ちうる直感的判断だったのだろう。


■4.人力でバルブを開け、水の通り道を確保する

 消防車で水を運んだとしても、それで原子炉を冷やすには、水の通り道を確保する必要がある。格納容器の外側を覆っている厚さ2メートルほどの遮蔽コンクリートがあり、それを突き抜けて入る配管が何本か通っている。消防車のポンプから、この配管に水を入れれば良い。

 しかし、その配管にはいくつかのバルブがあって、その一つでも閉まっていると、冷却水が通らない。電源さえあれば、中央制御室ですべてのバルブの状態を見ることができるし、開閉操作もスイッチ一つでできる。

 しかし、非常用電源すら落ちた状態では、各バルブがどうなっているのか、まったく分からず、また開けるにしても、プラントの中に入り込んで、人力で開けなくてはならない。

 吉田からの指示を待たずして、制御室のメンバーはプラントの図面を見ながら、どこにどのバルブがあり、冷却水を通すためには、どのバルブを開けるべきか、との検討を進めていた。これも吉田と同様、現場に精通したプロたちの判断であった。

 津波後、数時間の間に放射線量が上がり始めていたので若手を外し、ベテランたちが原子炉建屋に入り込んだ。重い防護服を着て、階段やはしごを上り下りし、直径60センチもあるハンドルを回して、バルブを開ける。放射能が急上昇したり、大きな余震があったら逃げ場のない危険な作業であった。

 最後のバルブを開けた時には、午後8時頃になっていた。放射線量はますます上がり、午後11時には原子炉建屋に入れるレベルではなくなっていた。

 このタイミングを逃していたら、バルブを開けることはできず、冷却水の通り道を確保できず、炉心溶融がすぐに始まっていただろう。この作業に取り組んだ一人は後にこう語っている。

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 危険は感じていましたが、やはり誰かがやらないといけなかったわけです。われわれ運転手には、やるべき使命があるんで、これは当然のことだったと思います。
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■5.最初の水が原子炉に注入された

「水を注入する方法は、全部現場で考えました」と吉田は語る。海水を入れるには、海面と建屋のレベルが10メートルも違うので、この高さまで持ち上げるポンプがない。では、どうするか。

 考え抜くうちに、3号機にある「逆洗弁ピット」という巨大なプールに、たまたま押し寄せた海水がたまっていたので、それをまず入れようということになった。

 しかし、逆洗弁ピットに近づくには、津波で散乱したおびただしい瓦礫やゴミを取り除かねばならない。またテロ対策のための厳重な柵を壊さなければならない。

 暗闇の中、重機を動かして、消防車の動く道を作るという作業が猛然と行われた。これらの作業によって、最初の水が原子炉に注入されたのは、翌3月12日明け方の4時頃だった。津波から12時間が経過していた。吉田はこう語る。

__________
 海水注入なんて、誰でもすぐにできると思っているかもしれませんが、そんなことはないんですよ。それを簡単にできるかのようにおっしゃる方もいますが、そういう話を聞くと、憤りを感じますね。
現場が、どんな気持ちで水を見つけ、そして進路を確保してやっているのか、そういうことをまったくわからないまま、想像もしないまま、話していますからね、頭で考えるよりも、時間はいくらでもかかるわけです。[1,p101]
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■6.「まず総理だけが降りますから、すぐには降りないで下さい」

 ようやく水の注入が始まった頃、「菅首相が来ます」という耳を疑うようなニュースが入ってきた。最悪の事態を防ぐために、現場で不眠不休の対応を続ける吉田に、ヘリコプターをどこに留めるか、そこから首相らをどう運ぶのか、ただでさえ足りない防護マスクをどうするのか、など、余計な時間を使わせた。

 菅によると、東電本社側が説明できない点があるので、直接現地に来たという。しかし、ヘリが着陸した時に、他の乗員がまず降りようとすると、写真撮影のために「まず総理だけが降りますから、すぐには降りないで下さい」と待たされた事が、菅の魂胆を明らかにしている。

 建物に入る際に、係員が汚染をチェックしようとすると、「なんで俺がここに来たと思っているんだ! こんなことやっている時間なんかないんだ!」とフロア中に響く声で怒鳴りつけた。自分が来たという証拠写真を撮る時間はあるが、建屋内で奮闘している人々を放射能から守るための汚染チェックをする時間はないということである。

 周囲を怒鳴り散らしていた菅も、吉田の的確な説明に気押しされてか、少し落ち着いきを取り戻したようだった。しかし、この間に貴重な吉田の時間が20分も費やされた。怒鳴り散らすだけの菅首相が多少落ち着きを取り戻した事以外に、この訪問の具体的な成果は見当たらない。


■7.「官邸が、グジグジ言ってんだよ!」

 官邸からの過剰介入はこれに留まらなかった。1号機の爆発の後、放射線量増加の危険を冒して、本格的な海水注入を始めた直後、吉田の前に置いてある固定電話が鳴った。

「おまえ、海水注入はどうした?」 官邸に詰めている東電の武黒一郎フェローである。後輩の吉田とは「おまえ」と呼ぶ間柄であった。「やっていますよ」と吉田が平然と答えると、「えっ、本当か。それ、まずい。とにかく止めろ」と命令する。

「なんでですか。入れ始めたのに、止められませんよ」と言う吉田は、武黒の次の言葉に驚いた。

「おまえ、うるせえ。官邸が、グジグジ言ってんだよ!」
「なに言っているんですか!」とすさまじいやりとりになった。

 菅は、海水注入によって再臨界などいろいろな可能性があるので、よく検討せよ、という指示を出した、と後に国会で答弁している。一国の総理が、原子炉の専門家でもないのに、こういう技術的な問題まで口を挟んでくる異常さが本人には分からないようだ。

 なんで「素人」の理不尽な要求が、現場の最前線で戦っている自分のところに飛んでくるのか。吉田は、腹立たしくてならなかった。原子炉を冷やすには、水を使うしかない。限られた淡水がなくなったら、海水を使うしかない。それがなぜ分からないのか。

 その直後、本店から吉田に海水注入中止命令が下った。本店が官邸の意向に従ってしまったようだ。しかし、吉田は先回りして手を打っていた。

__________
 本店から海水注入の中止の命令が来るかもしれない。その時は、本店に(テレビ会議で)聞こえるように海水注入の中止命令を俺が出す。しかし、それを聞き入れる必要はないからな。おまえたちは、そのまま海水注入を続けろ。[1,p221]
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 吉田は原子炉という正面の敵とともに、後ろから足を引っ張る官邸とも戦わねばならなかった。


■8.「人間には、命を懸けなければならない時がある」

 吉田の「独断」によって海水注入は続けられ、さらに応援に駆けつけた陸上自衛隊中央即応集団や東京消防庁スーパーレスキュー隊が、消防車やヘリから決死の放水を行った[a]。こうした人々の執念に負けたかのように、暴走しかけた原子炉も徐々に熱を失っていった。

 吉田がサラリーマンのように本店の海水注入中止命令に素直に従っていたら、どうなっていたか。「チェルノブイリx10」が起こって、我が国は東北・関東が死の国となって「三分割」されていたかもしれない。吉田昌郎所長と所員たち、自衛隊諸士、消防員たちのまさに命懸けの行動によって、そのような事態はギリギリのところで避けることができた。

 [1]の著者・門田隆将氏は、吉田所長をはじめとして、実に90名以上の人々の話を聞きながら、この見事なドキュメンタリーをまとめた。氏はあとがきにこう記す。

__________
 私は、このノンフックションを執筆しながら、「人間には、命を懸けなければならない時がある」ということを痛切に感じた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 吉田昌郎氏はその年の末に食道ガンが発見され、その後、入退院を繰り返し、この7月9日に亡くなった。原発事故の際の極度のストレスが原因ではないか、と言われている。

 ご冥福をお祈りするとともに、吉田昌郎氏とその仲間たちが命を懸けて我々を守ってくれた恩にどう応えるべきか、我々はそれを考えなければならない。

(文責:伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(724) 福島の英雄たち
 自衛隊、消防庁、警視庁などの無数の英雄たちが、身を呈して福島第一原発事故の収拾にあたった。
http://blog.jog-net.jp/201111/article_3.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 門田隆将『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』★★★、PHP研究所、H24
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4569808352/japanontheg01-22/

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