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自由律句のひろば
日時: 2008/12/15 11:40
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

防府の富永鳩山先生が結社や会派を問わず力を合わせて、自由律俳句の振興を図るために発刊されているのが「群妙」です。随句を愛する皆さんで集まって、随句の狼煙を上げれば、世を喚起・啓蒙して随句(自由律俳句)の再興をもたらすに違いないという主張は尤もで、微力を鑑みずその志を応援させていただければと考えています。

このことは、だれ彼の随句観に追随するとか、受け入れることではなく、傀師の随句観を世の広める機会であり、そうでなくても、随句界の高齢化や衰退が危惧される中、かつての社会党のように、コップの中の争いを繰り返して行けば、やがて「草原」だけでなく、随句(自由律俳句)自体の衰退を招くことは火を見るより明らかと考えます。

「草原」と傀師の「随句の基調」を世に広め、多くの人の心に響く句を目指して進み、訳の分からない自由律俳句が世にはびこることこそ自由律俳句の衰退を招くことを世に問う機会として、私は「自由律句のひろば」をまともな随句の木鐸と期待したいのです。

その為に、「自由律句のひろば」が本来の「自由律俳句協会」の設立を目指さない限り、継続も発展もありえなく、本義を忘れれば、既存の結社と選ぶところのない結社もどきに堕すことは目に見えています。
会員の期待に背けば、どうなるかは、目の前に見本があります。
メンテ

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群妙第4号 「詩性」と「俳句性」 ( No.1 )
日時: 2010/04/17 14:12
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

「詩性」と「俳句性」
草原舎   そねだ ゆ

井泉水の「新短詩入門」の中に、「『詩』か『俳句』か」という章があります。
〈「それは俳句ではない、詩である」という批評は自由律俳句の前期から起こっている。井泉水の主唱する新しい俳句と称するものは「詩」であり、「俳句」ではないという非難である。
私の意見はその時から四十五年間一貫して変っていない。
俳句は広い意味で「詩」の一種である。「詩」でない「俳句」というものはツキナミ俳句ともいうべきものであって、文学(芸術)ではない。俳句を俳句とするには、俳句に「詩性」を豊かならしめることである。同時に俳句の中にある「非詩性」を排除することである。だが、俳句には俳句独自の「俳句性」というものがある。「詩性」の上に「俳句性」を持ったもの、それが芸術的の意味における俳句である。〉

広義の詩という概念の中に俳句も西洋から輸入した新体詩とそれから発展した現代詩も含まれます。俳句とこの現代詩が文学であるためには共に「詩性」を持つことが要件だということにどなたも異存はないでしょう。そして、俳句が現代詩と相違する点を井泉水は、(自由律)俳句には「俳句性」が必須であると確認しています。

芭蕉が趣味化した貞門俳諧を蕉風という文学に革新したように、江戸末期の遊戯化した俳諧に文学性をもたらすために、子規が俳句を立ち上げたように、そして、この俳句が宗匠俳句に堕したことに危機感を持った井泉水や一碧楼が興したのが新傾向俳句を経た自由律俳句という俳句革新運動であることを考えれば、自由律俳句の現状においても本来の文学運動という原則を忘れてはいけないと思っています。

俳句を文学として革新しようという自由律俳句は、その作品においてどうあればよいのか、文学的には遊びを廃して、詩性を追求しなければなりません。しかしそれだけでは、ただの一行詩になってしまいます。そこで、井泉水の言うとおり「俳句性」を担保しなければ、自由律俳句ではなくなるということでしょう。

では、「俳句性」とは何か、それは俳句の聖典である芭蕉の句を見れば分ると思います。つまり、基本的に寄物陳思、深くものを見切って、ものをもって人の想いを述べるということでしょう。

現代詩は、自分の想いを直に詩に表現することが可能ですが、日本人の文学は、察しの文化ですから、直に思いを述べることを美しいとはしません。それに二十字に満たない句の中にあれこれ想いを述べて、読み手のイマジネーションを限定してしまうのがよいか、読み手の想像力を最大限に広げるのが文学としてよいか、答えは明らかでしょう。
この簡単なことを忘れて、人からうまいと言われる句をひねろうとするのでは折角の努力がもったいないと言わざるを得ません。

つまり井泉水がいう「俳句性」とは、観念を入れず、ものを持って想いを述べるという俳句の原則のことでしょう。
この点で、本当の自由律俳句は、一行詩や一部の自由律と称するものとは基本的に違うと言うことだと思います。自由律とは、五七五の定律の約束事以外に日本語に内在するその他の律を持った句のことを言うはずです。

自由律俳句から俳句の二文字を取るのは賛成ですが、単になんでも自由に作ってよいのだと、詩性や俳句性を失った詩もどきに、文学としての自由律はないでしょう。
私たち「草原」は井泉水が、「随」という句誌を独自に立ち上げたように、また「随翁」と称したように、随意に句を生み出すという意味で『随句』と称することを提唱しています。詩は頭でなく心で作るものですから、感動した時その感動のひらめきが直接言葉になったものこそが、読み手の心に響くという詩の原則に忠実であろうとします。

詠んだときの自分の感動を読み手に伝える時に、短詩や俳句や随句では、ものや人の心を観切ってその本質をえぐるからこそ、読み手にその感動が響くという原則であることを忘れ、本質を観切るという修練を敬遠して、人目を引くような詩を安易に作ろうとするからです。それでは、自得の個人的メモに過ぎなくなります。

詩を書こうとする時、心に生じた感動を、素直に表現するということは、とても簡単なのですが、実際は、根拠のない自我と作意が身に着いた我々には、この簡単な無私の境地に至ることが難しいのだろうと思います。それでも安易に自我で詩を書こうとするから、観念的になり、作意をひけらかすという悲喜劇に陥るのだと私は思います。
メンテ
群妙第5号 心に残る句「草原」 ( No.2 )
日時: 2010/04/17 14:20
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

心に残る句「草原」       そねだゆ 選

私たち「草原」の中のかもめグループは過去五年の句から各自百句を選び自選句集『かもめ』と題してこの四月に発刊しました。今回はその中から選んでみました。

  あくびあなたからわたしへ    相原芳江
  帰り道も私の足跡だけ      いけだとしこ
  藤の匂いをくぐる        井上敬雄
  ジョッキ合わせて何の乾杯だっけ 岩村操子
  気づけば何のため息       小田部昭代
  うちわの風をいただく      清水水娥
  杖の先にも降る桜        高橋暁子
  かゆい所かく手がある      豊村多喜夫
  若妻の顔で年始に来た      芦ヶ原恵子
  スプーンのさかさの顔が座る   米田明人



拝啓 梅雨の季節の中でも時が過ぎてゆきます。先生におかれましてはますますご清祥のこととお悦び申し上げます。先日はお会いでき、親しくお言葉をおかけいただきましたこと、まことにありがたく、お礼申し上げます。
 さて、田中さまよりご依頼のありました「心に残る句」の原稿を大変遅くなりましたが、お送りいたしますのでよろしくお願いいたします。

 また、不躾なお願いではございますが、先日先生から山頭火館について熱い思いをお語りいただき大変に感銘を受けました。つきましては、本誌は小誌であり、影響力も限られたものですが、「草原」にお話の要旨なりとも掲載したく、原稿をいただければ幸いです。また、その原稿は掲載後、ネット上にて現代の若者たちにも知ってもらい、防府が山頭火のみならず自由律俳句の聖地として、多くの若者に自由律俳句に触発してもらうためのきっかけの地となるようにと、自由律俳人たちが所蔵しているかこの俳人たちの足跡や資料などの収集の目処にもなればと考えております。
 これからもお元気で、自由律俳句の普遍化のためにお力をお貸しくださるようにお願いいたします。
  敬具

そねだゆ
平成二十年六月二十三日
富永鳩山先生
メンテ
群妙第7号 第四回 東京自由律俳句会報告 ( No.3 )
日時: 2010/04/17 14:54
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

第四回 東京自由律俳句会

(平成21年11月22日 於 江東区芭蕉記念館)
                                          そねだゆ
春は句会で秋は勉強会という提案があり、本会は、『選句法』と初回からのテーマである『自由律俳句の明日』を勉強する会として、そねだがプロデュースと議長を務めました。
一.選句法と句の得点についての勉強会
句会では高得点句にばかり焦点が当てられ、なぜ点が付かない句なのかを勉強するために、席を八人ずつのグループに分け、誰もが話せるようにしました。次に予め選句した表は配っておき、点に関係なく班毎に三句を合議で選んでいただき、なぜ選ぶのか選ばないのかを検討し、その後、全体でそれを発表してもらいました。さらに議長が、点が少なかった一句一句を取り上げて全体からの意見を求めました。この試みはよかったようです。
二.会の名称と会のあり方
A会の名称を変えた方が良いと言う意見
イ.自由律俳句というと俳句の尻尾を引きずっているようで、「俳句」を取りたい。
ロ.東京以外からの参加もあるので、東京を外した方がいい。
ハ.現俳の社会や若者への取り組みを見ると、協会的なまとまった窓口が欲しい。
B.会の名前を変えない方が良いと言う意見
イ.地区毎に本会のような集まりを育てていってから、それを統合するという形でよい。
ロ.今の状況で「自由律俳句協会」などとすると皆に馬鹿にされる。
ハ.この会は沢山が集まって句を作るだけでいいのではないのか。
【議長コメント】
『選句』について、「自分で良いと思ったものを選ぶのでいい」という言い方をします。しかし良い句を沢山鑑賞して掴んだ人と、まだ掴んでいない人の選句眼に差があることを意識しないと、いつまでたっても良い句ができるようになりません。
井泉水の著書を見ると、芭蕉や一茶をよく研究していることが分かります。
鉄鉢の中へも霰  山頭火
この句は、或る日ふっと彼の口からむぞうさに飛び出したような、無技巧ふうな句ぶりであるが、実は決してむぞうさではなく推敲を重ねた末に出来たのだといふことが分かる。
初句は忘れたが、「霰、鉄鉢にも」では俳句としての力の弱いものである。「鉄鉢かがやく」なんか問題にもならない。              『山頭火を語る』荻原井泉水著
この句にいたるまでの山頭火と井泉水の手紙のやり取りを見ますと、山頭火の天才をなしたことに井泉水の選句や添削がとても重要であったことが分ります。
 『明日の自由律俳句を考える』について、結社主宰者や年長者が発言するばかりで、肝腎の五十歳以下が一人しかいないので、皆さんが明日を考えているとはとても見えないのが残念でした。田中耕司氏に現代俳句協会から講師の依頼があったり、現代俳句協会の活動が中高生など対象に目立っています。若手や女性の現俳作品の積極的で自由な独創的な作風の追求をみますと、「自由律俳句不要論」も出そうな気がします。
メンテ

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