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草原に吹く風 2
日時: 2010/02/02 00:06
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

雪が降り始め、やっと「草原」2月号の表紙の写真で嘘をつかなくて済みました。
2月号は正月に編集をしていましたから、今年は雪が降るかな、降らなかったら、嘘になるしと、表紙と表紙は語るには気を遣っています。

何とか編集を続けることができています。
皆さんのお力に支えられています。
ありがとうございます。

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1月30日 ( No.60 )
日時: 2011/01/30 16:06
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

文学の森社の「俳句界」で5月号に『夭折の俳人』を特集するとのことで、私に「海藤抱壺」について書いてくれという依頼が来ました。しかし、抱壺については過去の層雲に木下信三さんが書かれていて、遺族とも取材を通じて深い交友を持たれていることを考え、木下さんにお伺いを立てましたら、体調不備であり、私に任せていただくというお返事をいただきました。また伊藤俊二とのつながりから、隗師もその資格があるのですが、伺うと資料を書いていただけるということで、頑張ってみたいと思います。1月末までに許諾の返事がほしいと言われたので、本日FAXで回答しました。

昔は結核にかかると抗生剤がないので若者が結構夭折しました。
現代のように長生きが当たり前の世の中になると、かえって人は、自分の人生に対する思いが甘く、何かを深めたり没入することが少なくなったと考えます。真剣味が見られません。夭折の作家は、その存在を燃やして輝かす様子が見えて、気持ちが引きします。

顕信の句に若者が惹かれるといい、香山リカ等が「鬼とは私のことか豆がまかれる」等の句から自意識の過剰な意識を感じるといいますが、彼は短い人生を燃やし尽くした生き方こそがポイントで、現代の若者が自虐的に自分を甘やかす感傷とは全く逆なのです。未熟な精神分析で安易にミスリードしてほしくないですね。

作家は真剣に自分の生きざまや作家姿勢を見つめてほしいです。

「層雲」が創刊100年号をを出すそうです。
また、県立神奈川近代美術館で、3月5日〜4月17日に『荻原井泉水と「層雲」100周年記念展』が開催されるそうです。一般は250円ですが、私は黄門の印篭を持っているので、免許所を見えると無料です。恐れ入ったでしょう。(笑)

さらに、「ぎんなん」は隔月刊ですから来年1月号が100号記念号です。

この際先生も100歳まで長寿されるといいのですが。
私は先に行きますので。ではでは。
1月31日 ( No.61 )
日時: 2011/01/31 21:12
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
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今日は締切ですが、まだ2名が残っています。
投句は今晩だと思いますので編集は明朝からになると思います。

田舎から送ってもらった自家製の干し大根を昼間水で戻しておいたのを、2,3cmに刻んでサラダ油で炒め、椎茸出汁に麺つゆと砂糖で味のアクセントをつけて、油揚げを絡めてから、最後にゴマ油で仕上げて、タッパに入れて、一部は今日食べてみましたが、いい味が出ました。

今日、句稿を待っている間に年賀状のお年玉をチェックしたら、切手が3枚、これだけで私は満足ですが、なんと3等が当たったのは出来過ぎです。
カタログを渡されて選ぼうとするとお菓子や、ドレッシングや麺類やつくだ煮類が多種あって迷います。ちゃんぽんが美味しそうでしたが、ふかひれスープカニ缶も魅力的です。決める段になって、お年玉だから、これは贅沢してもいいか、どうせ他のものも高級そうなのだからと頼みました。1カ月以上かかるとのことです。
それにしても、本人確認や書類が多くて、なんとも民営化したにしては、お役所的です。

 たまのお年玉に迷う  ゆ
2月5日 ( No.62 )
日時: 2011/02/05 23:24
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
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今日は桜木町教室の日でした。
権三郎さんは事前に電話で都合がつかなくなったとのことで、「草原」当月号は送っておきました。

ここのやり方は、疑問や質問を尋ねてそれに答える。あるいは私の方で伝えておいた方がいいと思われる、主として「随句の基調」や「随句に関する問題点」などについて説明します。その後、短冊を配って、用意してきてもらった自句を書いてもらい、回して選句してもらい、上位句から1句ずつ取り上げて、鑑賞(どういうイメージを浮かべるか、感動点は明確かなど)、選句理由を述べてもらいます。この過程こそが、読み手に感動を伝えることのできる随句を作る感性を育てる方法だと信じています。
徹底的に「随句の基調」を理解してもらったので、彼らの随句評は鋭いです。私の句に対してもはっきりと批評できます。
私が出す句は、30点〜70点の句を出すので、検討違いの選句すると、なぜこんなのを選んだかと尋ねるからです。いい句と悪い句を言うことは簡単ですが、中間の句は、どこが何故いけないのか、いいのかを説明することがいい句を見分ける訓練になるからです。単に「いいと思う」といか「良くないと思う」という評ですと、進歩するのは遠い道だと思います。
まして、選句で点を付けるのはしたくないとか、選句理由をあいまいにするのは、無責任と私は思っています。私は、自分のやり方に責任を感じているので、とても真剣に対応するからです。

今朝最後の投句が来ましたので、明日から本格的に編集するつもりです。
2月10日 ( No.63 )
日時: 2011/02/10 21:50
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
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やっと編集が終わりました。
表紙の紙の印刷に手こずりました。
水を含ませたスポンジをプリンターヘッド部に入れているので、この乾燥状態にもインクヘッドは詰まることもないのですが、安いインクを使っているので、ときどき相性が悪くて、駄々をこねるのです。
一旦元原を切ってプリンターをリセットしてから継続する様な按配でした。

一昨日と昨日は、昨年の3月4月のように疲労が生き血を越えたのでしょう、足に発赤が広がっていましたが、今朝には引いていました。昨夜は安眠できたからでしょう。

 肩こりを酒でだまして寝る  ゆ
2月11日 ( No.64 )
日時: 2011/02/11 17:48
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
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朝から雪で、まだ粉雪が視界を浅くしています。
下界の屋根は白葺きになってしまいました。今夜も降り続けば明日はバスにチェーンでしょう。

雨よりも雪は人にものを思わす効果があるように思います。

雪が降る あなたはこないという歌が鼻から出ます。

 雪積もる想い  ゆ

通信互選のまとめは、やり始めると夜が更けても時間に気がつかないで、2時過ぎまでやってしまいました。翌日の昼過ぎは猛烈な睡魔に襲われ、後で校正するとめちゃくちゃでした。W

これまでは、通信互選選句コメントファイルと「草原」の当該版下記事を印刷して、つき合わせて校正していましたが、今回は選句コメントファイルだけは印刷せず、モニター上で校正が済めば赤色に反転するようにしました。

高点句から作業していて今回初めて気がついたことがあります。
白兎さんの選句が最初に全て反転し、次に福露さんの選句でした。
つまり、高得点句を選ぶ傾向が見られました。
単純に見れば、選句眼があるということになります。

ただこの時、先生の推薦句は半分くらいしか反転していませんでした。

先生の選句と皆さんの選句とがこれまでも一致することはなかったのには気が付いていましたが、先生の選句眼は確かですから、このギャップの解釈が必要です。

私の解釈ですと、先生は「随句の基調」に忠実ですから、素直に詠んだと思われる句を選ばれる傾向があります。

私は、見たまま読むとママ句になるので、花鳥諷詠の軽さや薄さが物足りないと思っているので、独自の眼差しをもった句を選ぶ傾向があります。今完成されなくても、その方向を目指している句を選びます。この方向で意見を言ったり、選句をするので、段々その色が出ているのかもしれません。
顕信放哉山頭火がなぜ人の心に刺さるかというと、独自の眼差しが読み手の心に刺さるからだと思っているのですが、いかがなものでしょうか。

大先輩が、私が入会してから、「草原」の雰囲気が変わったと言われるのですが、以前の作家の作品が選句されなくなったとは感じています。

時代と共に、ものが変わり、人が変わることは避けようがありません。その変化を必ずしもいいことではないと考える人もいて、ある意味それも正しいと思いますが、句作を研鑽していれば、自分のものの観方が向上することもありますから、マンネリで、自作に満足している作家より、頑張って日々努力している人の句がより良くなるということもあり、私は努力をした人は必ず進歩するものだ、芸術は休むことはなく、自己満足は置いて行かれると考えています。このポイントを大先輩に分かってもらわねば、先輩が望むようにはその句や名が残らないのではないでしょうか。ただ私はおろか先生の意見には耳を貸されませんので、致し方ないですが。
2月15日 ( No.65 )
日時: 2011/02/15 00:11
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
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今日はバレンタインデイ

昨日は「ぎんなん」との合同句会があり、翌日は地元の名所を案内するのがしきたりというのですが、秦野は大山登山の名所ですが、雪になるかもしれない山に案内するのは無酸素でエベレストに登るより怖いです。

以前「随雲」の全国大会が秦野の陣屋であった後、小田原市内の文学館散歩を企画したという大先輩に辞を低くして尋ねましたが、答えは、「参加しません」とのこと、私はコースを参考に教えてほしいと思っただけですが。

こうしたことはサラリーマンなら先輩の嫌がらせには慣れているので、納得。

箱根板橋まで行き、電力王と言われた松永安左ヱ門の記念館で、戦国時代までの小田原の北条氏と徳川時代の大久保氏のおさらいです。その後小田原氏駅前から、小田原文学館に行く予定で、まずはだるま料理店本店で、お昼のゴマ油揚げた天丼にビールの吸いもの。その後、文学館で色々。
文学館を出れば冷たい雨で、皆さんを疲れさせてしまったので、そこから駅までバスで帰りました。

帰りの電車はロマンスカーで新百合で降りて、前日に駅ロッカーに預けていたゴイディバのチョコを駅向うの腎センターの主治医に、彼が女性からのチョコ、それもゴディバだけという贅沢を言うので、日ごろ私がインフォームド・コンセントに厳しいことの穴埋めに持って行きました。当然ゴディバで大箱を買って、スタッフにも気を遣います。

今年の目玉は、人生哲学で有名な斎藤実医師が、イラクに医療機器を寄付するために、チャリティーチョコを売っているのをネットで買っていたのを一緒に先生に渡すように女性スタッフにお願いしました。

これははっきりって厭味です。医者だから患者を人間と見ることを忘れないようにとの計らいです。
分かってもらえるでしょうか。医者だから人間的に偉いわけではありません。俳句を長年やっているからと言って、人格が優れている訳でもなく、管理能力や洞察力が身に着いているというわけではないと私は感じています。

随句の基調を身に付ければ誰でも短期間で即吟力が身につきます。しかし物を深く観て独自の感動点を見出すには、対象に対する愛情というか感謝の眼差しがないと、読み手を感動させる句にはならないと私は思っています。決してこれは難しいことではなく、自分の思うままにならない逆境や敵でさえありがたいと思える心の力を鍛錬するというか、理解する、あるいは悟れば、全く問題ない筈です。分からないのは、自分が偉いと思っているからです。人間があほな存在であると解れば造作はないと自分は思っています。そこに真の安寧と幸せがあることは分かってきたような気がしています。

合同句会ではぎんなん方式で、左縦軸に候補句の番号、上の欄には選者の名前がそれぞれ書いてあって、選者は自分の欄の選択した句の交差する欄に○(一点)をし、特選句には◎を付け2点とします。それぞれ選句を8句したのを順に発表し、皆はそれを各々の選句票に記入し、最後に右端縦軸に句ごとの合計点を計算します。

高得点句から句評をし、出席者が出席の場合には自解をしてもらいます。

今朝起きてから枕元で、選者ごとの選句した句の得点8句分を合計してみました。
要するに、その合計点が多ければ、その選者は高得点句を選択的に選句している、つまり、選句眼があるという一つの目安になります。

最高点は、隗師の37点、次が吉多氏の35点、さらに萱沼氏の34点でした、私は29点でまだまだと思いました。ただ、層雲の選者であった斎藤先生が29点で同点でしたのでちょこっと安心です。
ただ、斎藤先生の選句は、完成されていなくても、あるいは古い基準では評価されなくても新しい方向性を示すような句を拾うという、並みの随句人にはできない芸当をされるので私と比べては不遜のそしりを免れません。私は尊敬もしていますし、こうした選者眼を持つ選者がいなければ、その結社は新しい空気を入れないぬか床のように腐敗してしまうと思っています。「草原」も気を付けたいと思っているところです。

大浴場や2次会で、お酒に負けやすい人がいて、私に解決できない、むしろ関係ないことで強く迫られてしまったのには困りました。
夜の風呂場で迫られるのは、美女に限ります。ただその時は翌朝に湯に浮かんでいる姿を発見されるという、横溝正史ワールドですが。

また、随句の3節について、5・7・5だと言われたのにはまいりました。なぜなら、昆虫は頭と胸と胴の3つの部分からなる身体に6本の足を持つと定義されますが、節をそこで切ると解釈するなら、昆虫の節は頭と胸の間と、胸と胴の間の2か所で節を持ちます。虫はその2節で3つの部分を結合して有機的に生命を維持しているのです。

つまり何も3つに切れ切れと言っているわけでなく、作者が感動した時にその感動の原点に立ち帰ればよく分かるのですが、そこらを自分の頭で分かったつもりで、半可通に難詰されるのでまいります。まずよく聞いて理解した上で問いかけるべきではないでしょうか、そんなものの見方で良く随句ができると感心してしまいます。

例えば、
 まっすぐな道でさびしい 山頭火
をみれば、”まっすぐな道”だけでは句になりません。また”道がさびしい”では散文の切れ端です。
”まっすぐでさびしい”は詩になります。ただ具体的なものがなく抽象的で俳句としては、感動を読み手に伝える力は弱いです。随句も寄物沈思ですから、具体的なものを入れます。そこで目の前にある”道”を入れると、歩きながら単調な道より、曲がって景色が変わる道の方がより楽しいだろう、人生も変化があった方が人格成長に役立つだろうと読めるので、これが随句となります。

ここで、
 陽へ病む  裸木は、3節でないと来たものだ。

第一に隗師は、名句は3節で考えると分かり易く、感動を素直に表現するには、感動というものが”何がどうして何だ”という3つの要素から成り立つ事を発見したと言っています。裸木の句の”へ”を”に”にしたら感動がどう変わるかなどを見れば、3節=3つの要素という意味が分かるはずです。

第一、裸木の句が名句だとは私には思えません。普通の人にこの句の感動点が見えるのでしょうか。感動が伝わらない句を名句とは私には思えません。

頭で作っている人にも、この3節=3つの要素が感動の最短最適のポイントであることくらい分かりそうなものです。
あほだと自称している私には素直に分ったのに、これが判らないのは、詩は頭ではつくらない、心に浮かんだ感動を句にするとき、おのずと3つの要素から成り立っていると分かってない人です。その感動が素直に心に浮かんだ通りに表現するから、読み手に感動が伝わるのです。簡単にいい句を作るには、3節を学んで身に着け、さらに自分の眼差しを身に着ければよいと思うのです。

 地から生えるガウディの家振り返ればもう一軒

の句は1点句でしたので、作者はどうすればよいのかと尋ねると、ベテランは要素が多すぎてもったいない、絞るべきだと言いますが、具体性のない指摘なので、彼には具体的に何をすればよいのかが分からないようでした。

私は初心者には、最初のうちはそのイメージについて自分だったらこう表現すると例示するようにしています。雰囲気を理解するのに例示するのは勉強の基本と思うのです。

この句の場合、子どもが見ればこのように言うはずです。
 ガウディにょきにょき生えている

何がどうして何となる、”ガウディ”が”ニョキニョキ””生えている“と感動点だけで表現するはずです。

数学者でもないのですから、3節と言ったら、定規を当てて3つに切るのだと思うのが不思議でたまりりません。もっと柔軟な心を持ちたいものです。心を開放しなければ、美しい感動は心の中にスッと入らないのではないでしょうか。

これ分からないのは、あほな私よりあふぉだと思ってしまいます。失礼。
2月17日 ( No.66 )
日時: 2011/02/17 17:13
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

前のガウディの句が勿体ないという話で、この句が少なくとも2つの焦点があるので、もう一句作れます。

 びっくりすれば後ろにもガウディ
 のけぞれば後ろにもガウディ

こんなところでしょうか。
2月17日 ( No.67 )
日時: 2011/02/17 18:32
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

卒業したころ世は不況であり、就職先は合理化運動が盛んで、日本生産性運動というものを知りました。職場の係長が読んだらと勧めてくれた、ケプナー&トリゴーの「管理者の判断力」という本、私、はまりました。それをきっかけに、問題解決論や創造力関連や経営・管理者論の本を読み漁り、その財産が、私の社会生活を支えてくれたことは確かです。その元係長と40年ぶりに先日お会いして僭越ながら昼食を接待させていただきました。これは些細な気持ちに過ぎませんが、私は恩義を忘れることを恥だと思っているので、やっとこれで心おきなく死ねる気がして一安心です。

この勉強が10人以上の経営者から、洞察力があると言われるまでになりました。中には最初私の能力が見えなかったケースもありましたが、成果を出すことで皆に認めていただけることになりました。経営者として間違った判断に対して意見をする私に反発する経営者もいましたが、結果が私の言った通りになるので、信頼を得ることになりました。

ですから、上司や経営者がバカなことを言っても気にはしません。またバカしていると思うだけです。

私が東京自由律俳句会やぎんなんへ参加した時、あれこれ言っていましたし、俳誌の原稿を書くとき、定型俳句誌に協力する気はないと言いますが、「草原」の存在を世に示すのに、ただ「草原」を発行したり、ホームページを開設したりするだけで、自説が世に理解され広まるでしょうか。俳誌に載せることで、広く自説が世に問えるとどうして考えられないのでしょうか、私には思いつきません。

貞門俳句や談林俳句の遊戯性を排して、発句を文学に高めた芭蕉のように、近時の自由律俳句に文学性を持たせる、頭でなく心で作るという“ひらめき“や”3節”という俳句を単なる美辞麗句の説明文句ではなく、感動を独自の眼差しで表現する方向を示した「草原」は、俳句の文学革命を起こそうとするもので、まさに定型俳句への木鐸ではないでしょうか。お遊戯俳句やお遊び自由律を、作るだけの後世に伝えるだけの価値のある作品として残せる道に導こうという志はないのでしょうか。「草原」を草奔掘起の筵旗として掲げる気概がないのでしょうか。

句集や「草原」を漫然と発行して、この志を世に認められるなら苦労などしません。倒産する中小企業や商店は今までのやり方から抜け出ることができないから、シャッターを閉めることになるのは明らかだと思うのですが。私が経営者から相談役にされてきた経験から、「草原」の経営を「草原」のためにと働くものを理解できないのは悲しいです。自分を思って動いている者に、思いが至らない人に読み手の心を動かす句ができるのでしょうか。

草原では視界が悪いです。遠くが見えないと思います。将来のために雲雀のように高みに昇って囀り鳥の目で物を見ることはできないのでしょうか。
2月20日 ( No.68 )
日時: 2011/02/20 15:49
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

ついさっきクロネコさんが来て、草原を持っていってくれました。

昨夕くうるさんが持って来てくれたので、とりかかったのですが、合同句会の写真を印刷して、来て下さった誌友でもあるぎんなんの人ばかりでなく、袖ないぎんなんの人やかもめのメンバーにも送りました。
その他にも会費が切れる会員や誌友へのお知らせや、領収書を入れるばかりでなく、今回誌友の冊子代を値上げすることについてご意見をいただきたいメモを入れたりと、私の頭脳のキャパを超える作業だったのか、書いたはずの領収書が見当たらなくなり、ほかの人の「草原」に挟んだのかと、何回も見なおしましたが、遅くなりましたので寝て、今朝から探索を再開したのですが、きなこのような警察権にも劣る嗅覚なので、見当たらずあきらめてクロネコさんを呼びました。
どこかで見つかっても懸賞金は出ませんので、棄ててください。

今回の「草原」は版下を印刷屋さんに渡したのですが、レーザープリンターにしては字が太いので、メールでファイルを送ったので、きれいになっているはずですが、どんなものでしょうか。
私は、@などの○がはっきり出ていてさすがプロの仕事はきれいだと感心しています。
やってもらうのはありがたいので、きれいといって下さいね。
2月22日 ( No.69 )
日時: 2011/02/22 23:22
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

最後の選句が来たので、上位句が決まりました。

ウグイス色の角6封筒を1000枚楽天市場で買いました。1年ぶりです。カラー封筒は1枚5.31円で、クラフト封筒の3.63円より高く、年間約1000円の贅沢です。ただポストのなかで草原色は心がなごむので、とりあえず1年また草原色で行きます。

家計簿を楽天市場で探したら、もう廃番になったと思っていた「ひまわり」という見開き8列で、何も余計なことが書いていない家計簿で、ずっと愛用していたのですが、ネットで見つけて10冊も買ってしまいました。後10年に生きていなくてはなりません。

隗師に、「随句の基調」は発句を貞門や談林俳諧から文学に変えた芭蕉の蕉風開眼に匹敵する功績であり、草原の中に籠っている場合ではないのではないか。先生が俳句年鑑など買って協力しているのに、文学の森が自由律を取り上げないのはおかしいと怒りのブログでしたが、彼らとは好い関係を作って、自由律について書く機会があれば、ぜひ隗師の功績を残したいということで、翻意了解をいただきました。
攻撃は最大の防御です。コレちょっとニュアンス違いますね。W

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