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ぎんなんのわき道
日時: 2010/12/26 12:41
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

過去のぎんなんをアップしていて、また現在のぎんなんを観ていて感じることを考えてみました。
メンテ

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深読みについて ( No.1 )
日時: 2010/12/26 13:22
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

ぎんなん8号に放哉句について句評論がされていたので、愚見を述べてみます。

 御祭りの夜明けの提灯へたへたとたたまれる    放哉

まず、私は句評の前に”鑑賞”があるべきだと考えています。

句会で、選句理由として、表現がうまいからと言われたことがあったので、この句はどういうイメージを表現したものと考えますかと訊ねたことがあります。

詩を読むときには、まず何をその詩から感じるか、伝わる感動は何かを考えるべきではないでしょうか。

Yさんは、深読みは好ましくないと考えておられます。

深読みとは何か?
作者が思っても見ない感動を、読み手が読み取ることだろうと思います。

これは句の個性とも関係がありますが、一人ひとりのバックグランドは違います。同じものをみて感じることは、人類として生き物としての共感以外に、その人の生れつきの感性に加えて過去の経験や学習からくる感性があって、その眼で、ものを観察し感じるものだろうと思います。

また、俳句は、詠み手と読み手の共同文学とも言われるように、読み手が自分のバックグランドを背景にしたイメージを読み取るからこそ、その作品の深さや広がりがあるので、他人の読みを”深読み”とするとき、かえって自分の読みが浅かったり、狭かったりすることは、大いにあるのではないでしょうか。

なぜ普通の人は山頭火や放哉になれないのでしょうか、彼らのような句ができないのでしょうか。それは彼らの人生を心底から味わえないからです。遠くから望遠鏡で眺めて、火星には人が住んでいるとか思うようなものではないでしょうか。

句は自分の句しかできませんし、自分の鑑賞しかできません。

よく子供が、親には自分のことは分からないと反発しますが、ではお前は親のことが分かるのかと反論してみます。鑑賞には読み手のバックグランドの浅さや深さによる感性の浅さ深さがあることを、私は常に意識しています。

この意識がなければ、よそ様の句にコメントなどできるはずもありません。間違った意見をして、その作家のいい芽をつぶしてしまわないかとは、常々恐れていることです。

さて、山頭火や放哉に駄句はないと私は思っていません。彼らは神ではないと思っています。天才ピカソだって、下らない作品があるのですから。まして井泉水の校閲があっての、彼らの名句秀句だろうと思います。どなたでも、自分の内側だけで作っていると作句も鑑賞も自得的になると思います。

さて、挙げ句ですが、私は、句がギクシャクしていて真直ぐでないのが気になります。

 明け方の祭提灯へたへたたたまれる

等の方が素直だと思います。これは祭というものの感傷を詠ったののと鑑賞するのが最も近いと思いますので、自分がたたむとしては、その感傷が充分表現されるとは思えないからです。

先だっての句会で以下の句について、

 蟻の道案内で行き止まりは穴  滋人

この解釈に、特選で採った方の解釈は
@人の行き先は墓穴という意味が込められていると。
私はA熊谷守一の絵のように、蟻の行く先をたどっていったら終点は蟻の穴だったヨと思いました。

どういう読みがお気持ちに添っていたのか参考までにお教えくださいと作者の滋人さんにお尋ねしました。

お返事は、
句の解釈、まったく大兄の通りです。熊谷守一の他に、ファーブルのように昆虫を観察し、細密画を描いた人がいましたね、熊田千佳慕さんというような、その人のことをイメージしたものです。

鑑賞はまず素直にその句から自分がどんなイメージをハートに浮かべるかだろうと思います。

その時表現がぎくしゃくしていると感じた時は、詠み手が頭で作っているのだと私は思います。

何を浮かべるかは、自分の心が素直に感じたものですから、詠み手や他の方がどう感じようとそれはそれで大切と思います。
決して、技巧や思惑で鑑賞すべきではないと思うのですが。
メンテ
3節と4格調 ( No.2 )
日時: 2011/06/13 00:18
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

2月の秦野万葉の湯での「草原」と「ぎんなん」の合同句会の懇親会で、北田先生と佐瀬さんの議論があって、「三節」に対して「四節」論があるという話でした。
後で先生にその件を伺うと、「皆さんはちゃんと三節を分かって貰えた」とのことでしたが、彼らの後での反応は、分かっているようには見えませんでした。
そこで、佐瀬さんに4節の根拠である秋山秋紅蓼の「俳句表現論」をお借りしました。
本の中で核心の「俳句四格調の説」「四格調再論」をとりあえず読んでみましたが、二格調は偶数形式であるために安定感がある。三格調には、さすがに17音系統の調子が感じられるが、発想が自由律的であるために固定的観念はない。四格調となると、格調が安定していると同時に抑揚がある。五格調となれば俳句的格調とは異質な方向に進展して、格調と言うよりは、単にリズム的なものとなっている。だがリズム表現は、旧い俳句的格調から離れて、新しく自由律の開拓した表現手法である。
以上が四格調の特徴とみなしていますが、サイコロは四角で、安定や抑制と言うより、転がるからサイコロですし、三角形のピラミッドは5千年も転がりもせず安定です。
秋紅蓼の四格調は主観的で、説得力を感じません。こういう主張があることは結構ですが、もっと客観的論が欲しいところです。
彼の例句を観ると、確かに四節に区切っています。

 雲を出た月が 松にかゝり 昔のような 夜である  秋紅蓼

しかし、この句意、あるいは感動点は、

 雲を出て松にかかった 月が 昔のような夜だった

”どういう ものが どうだ”という三つの要素です。
切ると考えると、バカみたいに、ここで切れるとか、あそこも切れるとか、切り裂きジャックみたいな意見が出てきます。

句は、何が発見かの眼差しの独自性でしょう。
だから、三つの要素が、本来日本人の心の底に植え込まれている三つの要素が内在律に響くのではないかという私の意見を「ぎんなん」の句会の最後に時間を貰って説明させていただきました。

それに対する意見。

1.感動だけでなく、ふと気が付いた心の動きも句になるのだから、感動だけではないのではないか?
心が少しでも動くなら、それを感動と言ってもいいと私は思っています。

2.隗師の三節論の「随句の基調」は、最初に始める人には有用なガイドブックだというもの。
これの意味が、「随句の基調」が随句のハウツー本のようなものと言う意味であれば、ちょっと困ります。随句の最低限あるべき姿であるという意味ならば、うれしいのですが。

3.この本は参考になる。しかし、上達するには、いい句を沢山読むことだと思うけどというもの。
隗師は、いい随句を研究していて、いい随句の姿は「随句の基調」で示せると言われるように、単にいい句を眺めるだけでは会得のできるものではないはずです。
自分は、山頭火・放哉・顕信の句の文庫本の句集を買って、一句づつ鑑賞し、顕信のように一句づつにおいて、作句時の作家の感動の眼差しを感じ、自分だったらその情景ではどういう句にするかを、連れ句と言う形で書き込みました。放哉と顕信は1冊を書きつぶしてぼろぼろにし、2冊目もかなり汚しました。さすがに山頭火の句集は高いので、2冊目は買っていません。その他にも広く随句作家については、研究していて、例えば何人かについては、自分のHPにスレッド立てています。
第一、鑑賞眼が未熟な人が“良い句を読む”といっても、良い悪いをどうやって見分けるというのでしょうか。また鑑賞と読むとは違うはずです。山頭火の句をみて、同じような句を詠みたいという思いで始めた方は多いのですが、単なる真似句に止まっているのが実情ではないでしょうか。

4.まだ「俳句表現論」を読みこんでいないので、私の四節論の理解は、良し悪しを言える訳もないと、かなり、ご機嫌が悪い様子でした。
確かに、読み込んではいないので、先輩の言うとおり、読み込んでからもう一度チャレンジしたいです。
しかし、私の意見を採用するしないは別として、先生のお考えだけは理解してもらいたいのです。私が「4節論”理解していない」と言う根拠を教えてもらえると論議が進み、とても助かるのですが。
まして、未熟な論に固執する前に、句作に専念するべきと言われると。悩んでしまいます。
私は何かをやるときは何時ももそうですが、随句についても、文学としての随句を極めるために徹底的にやることに意味があると考えていて、単なる句作が趣味であるなら、全くやる気はないのですから。

ある結社では、ボスが随句を御理解されないままに、訳の分からないことを知ったかぶりに言うし、別の結社では、大ボスが、一度名刺交換したにもかかわらず、こちらが出会った時に挨拶しても、私の顔を物を観るようにしらっと見るばかりで返礼もしないし、噂では、権威主義的で、後輩が意見を言うと処罰するということで、自由律では、皆平等だというようなことを言う割に、後輩の意見は意見として、論議する風土がある結社って何処かにあるのでしょうか?

この道の先輩ってなんでしょうか?
年齢が高い?結社での入会年度が古い?
茶道や華道のような宗匠俳句なら、年功序列や看板料が利くのかも知れませんが、文芸なら、芥川賞などに見るように、若手でも、新人でも評価され受賞できます。

自分は、八年前に初めて、山頭火が、「日に10句くらい作るのがいい」と日記に書いてあったので、月に300句くらい、最後には600句を出句しました。今でも月150句は作っていますから、最低でも1万句はできているはずです。
他の結社の句誌を観ると一人10句以下ですから、句歴40年でも5000句くらいでしょうか。
どっちが先輩なのでしょうか?

文学では、作品の質が勝負で、それは才能とか努力次第ではないでしょうか。
学校でも社会でも、真剣に努力した者が、しないものよりいい結果を残せる確率は高いはずです。
先生とか責任者の経験がある方なら、当てずっぽうにやるのではなく、システマチックに正しい方向性を持って努力する方が、早く、無駄なく、いい句を作れる、鑑賞できる道だとお分かりだと思います。

随句では、年功だけでがいい作品と言うのは、当てはまらないと信じたいです。まして偉そうな態度をとるというのには、着いて行けません。女性や若い方がこの随句界に入ってくる気がしない大きな原因だと思います。
会費を経済的、コストパーフォーマンスに対応する努力をしないことも、問題があると思っています。

結社という井戸の中のえばった蛙に見えるのです。
メンテ
句は自然に湧いてくるもの ( No.3 )
日時: 2011/06/20 23:11
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

今日”ぎんなん95号の訂正”が来ました。

句会報告訂正があり、最高点句の萱沼さんの句が載った。

 歩くと身体が春に入れ替わる  良行

いい眼差しですね。深呼吸すると春の空気が胸の奥底まで行き渡る感じです。春にしかない句です。

改めて高点句を観ていて、最後のS氏のコメントが目に入りました。

句会の最後に「俳句は3節」の話があった。俳句を追求する上でこうした話は大切。しかし、それで不自由になっては、自由律のその本来の意味がなくなる。いつでも頭の隅におき追及する姿勢であることがあらまほしいことと小生は思った。

ここでS氏の言う”自由律のその本来の意味”とは何でしょう。彼は、その意味を本当に考えているのでしょうか。
よく親が子に当たるとき、子は反抗期で象徴される、親を超える宿命にあるので、親の干渉に反発します。
自分の”自由”を守りたいがためです。

 ビスマルクの言葉に中で私が最も有用で好きな言葉があります。

 賢者は歴史(他人の経験)に学び、愚者は己の体験に学ぶ  ビスマルク

人は社会的動物であるので、経験者の知恵を有効に利用することで、発展して来ました。親の経験の中には有用なことが多いのですが、バカ息子は自分で全てやって見て確かめたいという自尊心があります。
特に戦後教育で、肥大化した自我が、自由(気まま)を求めます。いいとこ取りする知恵がないのです。

句を観れば、その作家が頭で作っているかどうかは明白に分かります。
句を作ろうとする。いい句を作って皆に見せたいという気持ちで作った句を見れば、心が句を作るときに大切な感動から離れて、欲に囚われていて、なんて不自由なのだと思わざるを得ません。

隗師の「随句の基調」は日本人が自由な心で作ることの助言に満ちています。頭でなく心で、日本人の心に素直に感動を表現しろと言っているのです。

山頭火は句を拾うといい。放哉は句が降ってくると言います。これは句を作るときに作ろうと頭で考えるのではなく、自然に浮かんでくるようになれということです。

私は感動すると自然に心に浮かんだ句をメモにします。後で、これを見て、浮かんだ句で素直に感動を表現しているかという随句の基調と、独自の眼差しに心に響くものがあるかどうかで、選句するのです。

基本的に、「随句の基調」は山頭火や放哉のように、自然に心に浮かんだ句を素直に表現するポイントを指摘した本です。心を自由にする方法を磨くための本です。それが”自由律の本当の自由の意味です”
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解釈力 ( No.4 )
日時: 2011/08/14 22:21
名前:   <yusoneda@yahoo.co.jp>
参照: http://soneda.or.tv

第44回のぎんなん句会で、次句が最高点句の一つに選ばれました。

 もどれないあの日にレ点うつ

選んだ人の半数の解釈は、人生の中の好い日だった日を思い出すためのブックマークとして、その日にチェックマーク(レ)を付けるというものです。

その他の若手グループは、レ点を漢文の戻り点を付けて戻るものなら戻したいという気持ちを詠ったものだというものです。

さて、皆さんはどちらが作者の気持ちを表していると思うのでしょうか?

 行く春をあふみの人とをしみける  芭蕉

尚白が、近江は丹波にも、行く春は行く年でも良いのではないのですかと難詰したが、お前はどう思うかと聞かれたので、去来は「尚白の意見は見当違いです。湖水朦朧として春を惜しむ気持ちを表すのにはこれでいいと思います」と答えると、芭蕉は「そうだ、古人もこの近江の人の春を想う気持ちは、都人に劣ることはない」。去来は「この言葉を肝に銘じます。もし春に丹波におられたなら、この句の感動はない筈です。風光が人を感動させる力を持つとは本当のことですね」というと、芭蕉は「おまえは、風雅の心が私と同じくらいある」と悦んだという。

このように表現に揺れが生じること、他の言葉で代替できるような表現を、この頃の俳諧用語では、「ふる」または「動く」と言いました。去来の解釈は「即興感偶」の考えから来ています。しかし、芭蕉の言から決してこの句が眼前の景を見たママ詠んだものではなく、「近江」と「古人」のかかわりをイメージしながら詠んだものだというのです。
即ち、「近江」は単なる名勝ではなく、「歌枕」の地であったので、人口に膾炙している著名歌があって、そのイメージが喚起されるといった名勝だというのです。このことは、句中の「あふみの人」とは藤原良経や清原元輔などでもあるということです。

芭蕉は、「即興感偶」といってもママ句ではなく、「詠み手や読み手」の潜在意識にある経験感覚の深さも必要だというのです。(以上復本一郎著『芭蕉の言葉』から註約。

読み手の感覚が浅いと詠み手の句の深みまで感じることはできないと自分は思います。

苦労したことのない人と苦労して感性を磨いた人では、人の心やものの真を読む力は違うと自分は思います。経験があり、深く考える人は、深く詠み、深く読むことができるはずです。

この道に終点はありません。まして勉強をして、深く考えるものと努力しないものとは差がつくことを覚悟しなければならないと自分は思い、自戒としたいと思っています。

 詠み手のベランジェ昌子さんの心は、返り点とのことです。上句に「戻れない」とヒントがあるのですから、普通に読めば、漢文のレ点と読むのが自然だと自分は思います。

ユーミンの「あの日に帰りたい」は女性の気持ちですね。
メンテ

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