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渡部昇一の 国民のコモン・センスを守り育ててきた一生
2018/02/11
渡部昇一の 国民のコモン・センスを守り育ててきた一生
Japan On the Globe(1049)■■ 国際派日本人養成講座 ■■
人物探訪:渡部昇一
〜 国民のコモン・センスを守り育ててきた一生
「素人の知」で専門家の暴走を批判し、国民の「共有された思慮分別」を守り育ててきた一生。
■転送歓迎■ H30.02.11 ■ 51,593 Copies ■ 4,456,629Views■

■1.“素人の人”

 渡部昇一氏が亡くなって、もうすぐ1年経つ。渡部氏の編集者として20余年にわたって20点以上の著書の編集を行ってきた松崎之貞(ゆきさだ)氏は、「連峰」のような「知の巨人」だった、と評する。

 渡部氏は英文法専攻として出発したが、「和歌の前の平等」という国文学での卓見を発表し[a]、文部省が教科書検定で「侵略」を「進出」に書き換えさせたという新聞報道を誤報であると指摘して沈静化させ、さらには「南京事件」や「従軍慰安婦」での歴史戦争の最前線で戦ってきた[b]。

 これら以外にも人間学、知的生活などの分野でも多くの著書を残しており、まさに「連峰」型の知の巨人である。ただここで注意すべきは、英文法以外のすべての分野で渡部氏は「素人」だった、という事である。松崎氏は、この点を次のように論評している。

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 渡部昇一は“素人の人”である。

 何事であろうと、素人として疑問を感じると、相手が大家であれ、斯界の権威であれ、その疑問をぶつけるからだ。「素人が口を出すな」といわれようと、おかしいと思ったらそれを口にする。あるいは文章にして発表する。ジャーナリスト・立花隆との論戦に発展した「角栄裁判」のケースなど、その格好のケース例である。[1, p191]
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「角栄裁判」のケースでは、元首相・田中角栄がロッキードから5億円を受けとったとして一審で有罪判決が出て、角栄側が控訴すると、元最高裁長官が「一審の判決に服すべきだ」と発言した。これに対して、一審に不服があれば、高裁、最高裁に上告できるというのは国民の権利ではないか、と渡部氏は批判したのである。

 元最高裁長官と言えば法学の最高権威である。それに英文法学者が法律の問題で立ち向かったのだから、ドン・キホーテ並みの突進もいいところだ。一方、この長官は「渡部氏は法律の専門家でもないから反論しなかった」と発言したと伝えられている。

 素人なのに最高権威にも立ち向かっていく渡部氏と、素人相手の議論はしない専門家と、姿勢の違いは鮮明である。


■2.素人の国民が言挙げするのが民主主義の基本原理

 たとえば英文法というような特殊な学問分野なら、専門家が素人とは議論しないというのはあっても良いだろうが、こと国政上の問題に関して「素人とは議論しない」という姿勢は、民主主義政治の根幹を否定する姿勢である。

 そもそも民主主義とは、一般国民が政治上の決定権を持つ制度である。政治家は自らの主張を国民に訴え、国民がその賛否を選挙における投票で示す。同様に最高裁判所の裁判官に関しても、国民審査の投票によって、その職責にふさわしくない者は解任される。したがって、裁判官もその判決について一般国民に判りやすいように説明する責任がある。

 一般国民とはほとんどの国政上の問題に関して素人であり、政治家や裁判官は専門家である(はずだ)。したがって、政治や裁判の問題に関して、専門家が素人とは議論しないと言ったら、それは国民の主権を無視した姿勢である、ということになる。

 民主主義社会では、素人の国民が政治や裁判でおかしいと思ったことは、どしどし言挙げをするというのが基本原理である。それを徹底的に行ったのが渡部氏であった。


■3.身の危険も顧みずに

 もっとも床屋談義で素人があれこれ言いたいことを言うのは簡単だが、渡部氏の場合は公の場で発言したり、文章で発表する。この「角栄裁判」のケースでは、雑誌『諸君』昭和59(1984)年1月号に「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」と題して、60枚もの文章を発表しているのである。

 しかも当時の左翼が敵視していた田中角栄を弁護するだけに、その中に間違いでもあれば、集中砲火を浴びるリスクも大きかった。実際にジャーナリストの立花隆は「あまりにお粗末な議論」などと罵倒し、「朝日ジャーナル」で「ロッキード裁判批判を斬る〜幕間(まくあい)のピエロたち」という連載で渡部氏批判を始めた。

 立花は法律の専門家ではないが、膨大な『ロッキード裁判傍聴記』を書き続けており、この裁判に関しては詳細を知り尽くした専門家である。その「渡部昇一の『知的煽動の方法』」「渡部昇一の『探偵ごっこ』」などと揶揄調の論法に対して、渡部氏は「立花隆氏にあえて借問す」と真剣な議論を挑んだ。


■4.憲法違反の判例が固定化されたら、わが国はどうなるのか

 渡部氏があえて「暗黒裁判」と呼んだのは、検察側がロッキード社側の証人に刑事免責を与えて証言を得ており、弁護側の反対尋問を許さない点にあった。これは「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ」という憲法第三十七条に違反する所為であった。

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 刑事被告人が検事側証人に対して反対尋問するという、現憲法に明記されている重大な権利を否定するという判例をそのままにしておいてよいのか。[1, p195]
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 こんな憲法違反の判例が固定化されたら、わが国はどうなるのか、という危機感が渡部氏を突き動かしていた。渡部氏の主張が正しい事は、後の最高裁判決でも追認された。

「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」への取り組みでもそうだが、渡部氏が敢えて素人ながら専門外の問題に果敢に挑んだのは、その道の専門家たちの暴走が国の行く末を危うくすると思われた時だった。国の将来を危うくする問題に関しては、その道の専門家に対しても、自らのリスクなど考えずに挑戦していったのである。


■5.「素人としての知」をどう身につけるか

 国の前途を憂う渡部氏の危機感が専門外での多様な著作群をもたらし、それによって多くの国民が啓蒙された。この危機感が氏の豊穣な知的生産の原動力だったのだが、我々一般国民として、もう一つ学ぶべきなのは、多くの分野の専門家にも屈しない「素人としての知」を渡部氏がどのように身につけたのか、という点である。

 この「素人としての知」は、国民が素人として様々な分野の専門家を使っていかねばならない民主国家の欠くべからざる基礎である。この「素人としての知」がなければ、国民は政治家、裁判官、ジャーナリストなどの専門家に操られる愚民に過ぎなくなる。

「素人としての知」を育てる秘訣を、渡部氏自身が若い頃に学んだと思われる逸話が残っている。

 渡部氏の両親は貧しくて、小学校の卒業証書も持っていなかった。その母親・八重野が、戦後まもなくの頃、東大経済学部教授・大内兵衛の「鉄、石炭といった重要な物資は私企業に任せると格差が生じるから、国家が管理して公平に配分すべきだ」という趣旨の主張を小耳に挟んで、こう言ったという。

「それは配給にしろということじゃないの。勝手に商売させないような政治はどんなに立派なことをいってもダメよ」と。小学校も出ていない母親が、東大教授の論をばっさり切り捨てたのである。

 渡部氏は後年、ノーベル経済学賞を受賞するフリードリヒ・フォン・ハイエクが何度も来日講演をした時に通訳を務めた。そしてハイエクから学んだ事を次のように要約している。

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 ハイエクがいいたかったのは(中略)自由市場に政府が干渉すると結局人間の自由が根こそぎ失われるということなのである。[1, p101]
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 自由市場経済を否定する共産主義や全体主義が独裁国家と化し、多くの国民を虐殺・虐待した事が20世紀の人類の経験した巨大な悲劇であった。その悲劇がなぜ生まれるのか、を分析したのがハイエクの学問だったのだが、小学校も卒業していない母親が、ノーベル賞を受賞した経済学者と同じ事を言っていたのである。


■6.現実の経験か、机上の空論か

 なぜ無学の母親がノーベル賞経済学者と同じ指摘ができたのか。この点は「それは配給にしろということじゃないの」という言葉が明らかにしている。戦時中の国家総動員体制で行われた配給制度は、一種の計画経済であった。それに真面目に従う人はひどい目に遭い、ずる賢い人は闇市で儲けたという経験を母親は味わっていたのだろう。

 いくら東大教授が崇高な理想と合理的な理論を持って説いても、それが配給の失敗という現実の経験に基づいていなければ、机上の空論である。実際の経験よりも机上の理論を重視するというのは、多くの専門家が陥りやすい陥穽である。

 フランス革命もロシア革命もシナ革命も、机上の空論を強行し、人類全体で1億人とも言われる犠牲者を出した。「人間はそれほど賢くない。我々が知らないことは沢山ある。だから一歩ずつ、闇夜を手探りで前進していこう」というのが、健全な保守主義者の姿勢なのである。

 この闇夜の例を使えば、計画経済でやっていこうというのは、頭で考えだした地図に基づいて、闇の中を突っ走るようなものだ。地図に書かれていない岩でもあれば、躓いて大怪我をしてしまう。

 そして専門家ほど自分の専門分野に自信を持っているので、闇夜の岩に躓きやすいのである。現実世界でどこにも成功したことのない共産主義にあれほど多くの知識人が惑わされた原因もここにある。


■7.「本当に分かる」ということ

 現実の経験に基づいて自分の頭で考えるという姿勢が、渡部氏の場合は常人離れして徹底していた。それを教えてくれたのが、旧制山形県立鶴岡中学校で渡部氏が出会って生涯の師と仰いだ老英語教師・佐藤順太だった。

 佐藤先生は17世紀のイギリスの哲学者フランシス・ベーコンのエッセイ「学問について」を取り上げ、文法から単語の意味まで精しく吟味していく。1時間に1行しか進まない時も何回もあった。渡部氏には、それがゾクゾクするほど面白かった。

 ある時、佐藤先生から「"nowadays"(近ごろ)という単語にはなぜsがついているのか?」と問われた。「s」が複数形を作るということを覚えていただけでは、説明にはならない。ほかの英文科の先生たちに聞いて回ったが、誰も答えられない。

 それが分かったのは2年後、渡部氏が大学に入って、英文法の本を読んでいたときだった。Sには副詞を作るという強力な働きがある。夏休みに帰省して、佐藤先生にこの発見を伝えると、にっこりとして「そういう疑問を一つでも自分で解くと、うんと力が伸びるものだ」と言われた。

「本当に分かる」とはどういう事が分かると、渡部氏は「わからない」と言うことを怖れなくなった。大学の英文科ではむずかしい話をわかったように偉そうに言うのが普通であったが、渡部氏は英詩の大部分は不自然でわからない、と公言して憚らなかった。

 後にアメリカの大学に招聘されて一年間を過ごした時に、日本語の講談や捕物帖はゾクゾクするほど面白く読めるのに、なぜ英語の小説は面白く読めないのか、と考え、「自分の英語は本物ではない」と結論づけた。それからアメリカの通俗小説を読み続け、ついには身体がゾクゾクするほど面白く読めるようになった。

 このように「分からない」という事を恐れないから、「角栄裁判」にしろ「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」にしろ、自分が本当に分かるまで追求していく。

 特に左翼の専門家は、マルクスが大英帝国図書館の机上で壮大な理論をでっちあげたDNAを継承しているせいか、事実無視の思い込み、知ったかぶりが多いから、事実を丹念に調べて、自分が本当に分かるまで追求していく、という渡部氏の姿勢にはひとたまりもなく虚構が暴かれてしまうのである。


■8.共同体の中で「共有された思慮分別」

 こうした渡部氏の「素人の知」を大切にした姿勢を辿ってみると、"Common Sense"という言葉がしきりに思い浮かぶ。"Common"とは共同体の中で「共有された」という意味で、たとえばボストン・コモンと言えば、もともとボストンの市民が牛の放牧で共有して使っていた土地である。"Sense"は日本語で言えば「思慮分別」という言葉がぴったりする。

 したがって"Common Sense"と言えば、「共有された思慮分別」となる。一部の専門家だけが持っている知識や理論ではない。良き国民であれば、同様の思慮分別を共有しているはずだ、という前提がその背後にはある。しかも、この「共有された思慮分別」は共同体に属する人々が、代々の歴史的経験から蓄積してきたものである。

「素人の知」と言えば、いかにも「専門家の知」に比べて低級に感じられるが、それは共同体の中で蓄積され、共有されてきた思慮分別なのである。たとえば、戦時下の配給制度のひどさを体験した人々は、渡部氏の小学校も出ていない母親が「勝手に商売させないような政治はどんなに立派なことをいってもダメよ」という言葉に共感しただろう。

 こうした"common sense"で結ばれた共同体としての国民が、専門家としての議員や行政官を選んで使うのが民主主義の原理である。

 渡部氏が生涯を通じて追求してきたのは、徹底した素人の、すなわち一般国民の立場から、歴史家やジャーナリスト、裁判官など専門家の暴走を批判し、それによって国民の"Common Sense"を守り、深めてきたことではなかったか。とすれば、渡部氏の生き様を天才として敬して遠ざけるのは、氏の本望ではないだろう。

 国民一人ひとりが自身の体験をもとに「本当に分かる」まで、物事を突き詰めて考える、それによって心中の「共有された思慮分別」の根っこを太く深く伸ばしていく。それが自由民主主義国家としての日本を強くし、ひいては日本国民をより幸福にしていく道なのである。我々が渡部氏から学ぶべきは、この道だろう。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(702) 日本語が育てる情緒と思考
 情緒を養う大和言葉の上に、論理的思考を支える外来語を移入して、我が国は独自の文明を発展させてきた。
http://blog.jog-net.jp/201106/article_2.html

b. JOG(913) 「歴史戦争」を斬り返す 〜 渡部昇一『歴史の授業』から
「我々の子孫にそんな思いをさせては、いかんのですよ」との思いで、85歳の老碩学が「歴史戦争」を戦っている。
http://blog.jog-net.jp/201508/article_5.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 松崎之貞『「知の巨人」の人間学 -評伝 渡部昇一』★★★、ビジネス社、H29
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4828419845/japanontheg01-22/

日本てどんな国?
2018/01/28

Japan On the Globe(1047)■国際派日本人養成講座■H30.01.28

Common Sense: 「日本て、どんな国?」と聞かれたら
 外国人に日本を説明するとっておきの方法。
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■拙著 第5弾『日本人として知っておきたい 皇室の祈り』
 1/29発売、アマゾンにて予約受付中。
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594079032/japanontheg01-22/

万民の幸せを願う皇室の祈りこそ、日本人の利他心の源泉。
弊紙の過去の記事を増補改訂。

著者による紹介ビデオ
http://www.ikuhosha.co.jp/public/introduction07903.html
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■1.「日本て、どんな国?」

 最近、ある大学で非常勤講師として日本文化論の講義を担当させていただくようになった。文化論を理屈として講義しても面白くないだろうから、なるべく学生諸君に課題を与えて考えてもらうように心がけた。そこで講義の冒頭に「皆さんが外国に行ったり、日本で外国人旅行者と出会って、日本てどんな国?、と聞かれたら、どう答えますか?」と質問した。

 40人ほどのクラスで、留学生も7,8人いた。答えとして、「安全な国」「清潔な国」「皆が親切」などと肯定的な評価がほとんどだったのは嬉しく聞いた。しかし日本に来たばかりの韓国客や、まだ日本を見たことも無い人々に対して、このように感覚的、定性的な答えを出しても、あまりパンチは効かないだろう。

 それよりは、なるべく定量的な、かつ聞いた人が自国と比べられるような答えの方がインパクトがある。例えば、私が最初にイタリアに赴任した時に、日本で習ったイタリア語がどれだけ通じるかのテストを兼ねて、運転手に「日本の天皇は125代目だ」と語った。

 運転士は大変驚いて、「マンマ、ミーア!」と言った。「私のお母さん」という語義だが、日本語に訳せば「ひぇー」というところか。これは10秒で日本の凄さを言い表す殺し文句なのである。


■2.先入観の裏をかく

 最近、扶桑社から出版された『英語対訳で学ぶ日本 歴史と文化の1111項目』[1]は、外国人に日本を伝えるための好書である。今回はその中から、「日本て、どんな国?」という質問に答えるための面白いトピックスをいくつか紹介しよう。

 日本というと小綺麗に盛り付けされた日本料理など、細やかな美的イメージでとらえる外国人が多いが、その先入観の裏をかいて、スケールの大きな建造物などの話をするのも、ご愛敬だろう。たとえばこの本では仁徳天皇陵について次のように説明している。

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 仁徳天皇陵(大仙古墳)は、全長486m、高さ35m、三重の濠を含めた総面積は約46万m2という巨大な前方後円墳である。面積では、秦の始皇帝陵およびエジプトのクフ王のピラミッドを凌ぐ世界最大である。[1, p30]
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 約46万平方メートルと言っても、ピンとこないだろうから、例えばヨーロッパ最大のサッカースタジアム、約10万人を収容できるスペインのカンプ・ノウと比べるてみよう。カンプ・ノウは敷地面積5万5千平方メートルというから、その8倍以上である。欧州最大のサッカースタジアム8個分の面積と言えば、その巨大さが想像できよう。


■3.英語学習に適した英訳

 この部分の、英訳も見ておこう。

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The tomb of Emperor Nintoku (Daisen Kofun) is a giant keyhole-shaped burial mound, 486m in total length, 35m in height, and 460,000m2 in overall area including the triple moat around the outside.
In area, Emperor Nintoku's tomb is the largest in the world,surpassing Qin Shihuangdi's tomb and the pyramid for the pharaoh Khufu in Egypt.[1, p31]
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 前方後円墳を「a keyhole-shaped burial mound」というのは初めて知ったが、「鍵穴の形をした墳墓」と言う意味で、英語国民には簡単に理解できるだろう。そのほか、やや難しい単語には「moat (モ’ウト:堀)」などと注釈もついている。

 このような聞き慣れない専門用語や固有名詞はあるものの、英文としては平明な文体で、そのまま暗記してしまえば、英作文の力がつく。英語で自分の考えを主張するには、短い言い回しをオウムのように繰り返すよりも、このような中身のある論理的な文章を丸暗記した方が効果的である。


■4.始皇帝陵と仁徳天皇陵の違い

 大きさよりも大事なのは、この墳墓がどのように造られたかだ。秦の始皇帝は巨大な墓や万里の長城の建設に人民を酷使し、それが原因の一つとなって、秦王朝はわずか15年で滅亡してしまった。仁徳天皇陵は全く異なる。

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 この墓は、土の総量だけでも10トントラック25万台分といわれ、1日2000人が働いたとしても、約16年間を要する大土木工事だった。『古事記』『日本書紀』によると、仁徳天皇が善政を行ったため民から慕われ、工事に当たっては老いも若きも力を合わせた。

 仁徳天皇は村々の疲弊を憂慮し、これを救済するため3年間徴税をやめ、その結果自身の生活が困窮しつつも、民の暮らしが回復したことを喜んだという伝承がある。後の天皇は御製で仁徳天皇をたたえた。[1, p30]
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 人民を独裁権力で酷使して造った墳墓と、人民が君主を慕って力を合わせて造った墳墓と、性格がまるで違うのである。中国の皇帝は人民を自分の「私有財産」と考えて搾取するから、その反乱にあって国が長続きしない。長続きしても数百年毎には、大規模な内乱が起こって王朝が交替する。

 中国5千年と言うが、現在の中華人民共和国は70年足らずの歴史しかない。その前の清朝も3百年足らず、しかも満洲族の王朝で、漢民族はその下で植民地支配を受けていたに過ぎない。


■5.高さ96mの高層木造建築

 もう一つ、日本の国柄を物語る巨大建築物が出雲大社である。古代日本の優れた土木建築技術を窺うこともできる。

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 平安時代の出雲には高床式の建物が聳(そび)え立っていた。その高さは48m(地面から床までの高さ30m)、加えて、前面に長さ
109mの長大な階段があった。それが出雲大社の本殿である。

 出雲大社の祭祀を代々掌(つかさど)ってきた家に伝わる史料によれば、出雲大社の神殿は、上古は約96m、中古は約48m、現在は約24mとあり、一番細い柱でも約3mの太さだという。[1, p56]
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 96mと言えば、現代のビルでも20数階に相当する。それほどの高層木造建築が、はるか神話の時代に建てられていたのである。そして、その由来にも日本の国柄がうかがわれる。

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 この巨大な本殿は、神話に見える神々の約束に由来する。日本の国土を開発した大国主(おおくにぬし)の命が、天照大神を中心とした神々に臣従する前提としてつくられたのが出雲大社であり、その約束に従って、大国主命は皇室と国家の繁栄と安泰を祈る役割を引き受けたのである。[1, p56]
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 日本国の統一に際して、国土開発に功のあった大国主の命が皇室に「国譲り」をし、皇室の先祖は大国主のために出雲大社を創建された。以来、大国主の命はそこから皇室と国家の繁栄と安泰を祈ってきたのだった。このような平和的な国家統合がわが国の特徴であった。

 こうして唯一の王朝のもとで、平和と繁栄を享受してきたからこそ、わが国は巨大な古墳や神殿を数多く作り、それらを維持できたのである。この点は、いくら国が大きくとも、数百年ごとに王朝の交代に伴う内乱を繰り返してきた中国とは大きな違いがある。


■6.「身分や地域を超えた国民的歌集」

 世界最大と言えば、「万葉集」も世界最大の歌集と言えるようだ。しかも、7、8世紀の歌を集めた、世界最古の歌集とも言われる。最古、最大というだけでなく、その性格がまた日本の国柄を表している。

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 歌の作者は、天皇から農民や防人(さきもり)、貧しい人々にまでおよぶ。年齢や地域も様々であり、男女の差別もない。
内容も、国を見渡すようなものから、恋の歌や日々の生活を述べたものまであり、当時では世界に類例を見ないほど多彩である。身分や地域を超えた国民的歌集が完成していたということは、そのころの人々が、共通の言葉を使い、感動を共有することができたことを示している。[1, p50]
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 日本以外の国では、詩は専門詩人が作り、国民の中のごく一部の教養階級がそれを味わうものだ。ところが日本では、農民や兵士に至るまで、和歌を作っている。そして良い和歌を作るには、作歌の技術よりも良き真心が大切だ、と考えられていた。

 良い歌なら身分や貧富、男女を問わず集めたという事は、人間の外形的な違いよりも、真心を重視する、という文化的伝統の現れなのである。

 これに続いて、同書ではもう一つ大事な点を指摘している。

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 すぐれた歌をつくれば、立場に関係なく歌集に採用されるという伝統は、今日にも引き継がれている。たとえば、毎年、新年に皇居で行われる「歌会始(うたかいはじめ)の儀 」には、すぐれた歌をつくった中学生や高校生が招待されることも珍しくない。[1, p50]
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 皇室が125代も続いているのと同様、国民の歌を通じて真心を通わせるという伝統は、万葉集以来、今も歌会始で続いている。この伝統の継続性は、世界でも類を見ないものであろう。


■7.「古くからのものと新しいものがたくみに共存」

 伝統の継続性のもう一つの表れは、老舗企業が多いということだ。

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 日本には創業200年以上の企業が3500社ほどあると言われている。この数は2位以下のドイツ、フランス、イギリスなどを大きく引き離している。創業100年以上の企業となると、製造業だけでも4万5000社ほどあり、さらに創業1000年以上の会社もある。これほど老舗の多い国は他にはない。[1, p218]
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 この点も、なぜかと問えば、わが国の国柄に行き着く。

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 これは日本人が、外部環境の変化に対する柔軟な適応力と進取の気性を発揮して、歴史の荒波を乗り越えてきたことの証(あかし)ともいえる。内乱や外国との戦争もあったが、異なる民族が入り乱れての動乱は起こらなかった。日本は、外国の植民地になったこともない。日本人の精神のありかたが今日まで変わることなく続いている。

 老舗に限らず、日本は古くからのものと新しいものがたくみに共存している。古いものが否定されることなく、新しいものとたくみに融合しているのが、わが国の歴史の特色ということができる。[1, p218]
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 最先端の現代文明が、神話地代からの伝統文化と共存している事は、世界でも珍しい現象であって、これに魅了される外国人訪問客も少なくない。世界の多くの国々は、現代文明と伝統文化の両立をいかに図るかという難題に苦しんでいる。日本社会は、それが不可能でない事を示しているのである。


■8.なぜ天皇は125代も続いてきたのか

 伝統の継続性の根幹は、やはり皇室に行き着く。同書は「日本人と天皇」の項で、次のように述べる。

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 現在、君主制を敷く20数か国のうちで、日本はその歴史が最も古い。天皇をさかのぼれば神話に行き着く。実年代は今も不明だが、始まったのはおよそ2000年前と言われている。19世紀には「エンペラー」(emperor) と呼ばれる統治者が世界に10人ほどいたが、次々に失われ、現在は日本の天皇ただ一人となった。[1, p232]
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 人類史上の奇跡とも言うべき事実だが、同書はその理由を次のように簡潔に説明している。

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 しかし天皇は歴史上、強大な権力を誇ったのは一時期のことで、そのほとんどは権力を持たず、権威のみを有してきた。実力を有した貴族や武将たちが天皇に取って代わることはかつて一度もなく、彼らは天皇から統治の正統性を与えられる地位を選んできた。

 このような立場で天皇が存続し得たのは、存続を願う多くの国民によって支えられてきたからである。天皇は自ら神々を祭り、常に民の幸福と国家の平安を祈ることを務めとしてきた。その結果、人々の尊敬を失うことなく古代から現代にまで至ったのである。[1, p232]
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「天皇は自ら神々を祭り、常に民の幸福と国家の平安を祈ることを務めとしてきた」という点は、拙著第5弾『日本人として知っておきたい 皇室の祈り』[a]で、歴代天皇の事績を踏まえて論じているので、参照いただきたい。

 皇室が125代も続いてきたこと、言い換えれば代々の国民が皇室を護持してきたこと。その史実自体が日本の伝統の継続性の象徴であるとともに、巨大古墳や寺社、万葉集などの、世界にも稀な文化遺産を築き、守ってきた原動力でもあるのである。

 この点を踏まえれば、「日本でどんな国?」との質問に対する答えは やはり一つしかない。「125代の天皇が続いてきた国」である。もうすぐ126代となるが。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■
a. 伊勢雅臣『日本人として知っておきたい 皇室の祈り』、育鵬社、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594079032/japanontheg01-22/
■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 麗澤大学「学び伝えよう日本」プロジェクト (著), 中山理 (監修)『英語対訳で学ぶ日本 歴史と文化の111項目』★★★、扶桑社、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594078842/japanontheg01-22/

発句
2018/01/22
正月や命もいらず名もいらず  ゆ

事大と内紛の韓国近代小史
2018/01/14
Japan On the Globe(1045) 国際派日本人養成講座■H30.01.14より転載
地球史探訪:事大と内紛の韓国近代小史
   福澤諭吉曰く「違約背信は彼らの持前」。

■1.「違約背信は彼らの持前(もちまえ、本性)」

「違約背信は彼らの持前(もちまえ、本性)」「朝鮮人を相手の約束ならば最初より無効のものと覚悟して」などと、今日ならヘイトスピーチと言われそうな発言が120年前の新聞紙上でなされた。福澤諭吉が明治30(1897)年に『時事新報』に書いた論説である。[1, p130]

 現在の慰安婦問題に関する文在寅政権の迷走ぶりを見たら、福澤は草場の陰でため息をついているだろう。「120年経っても朝鮮人は変わらない」と。

 2年前に「最終的かつ不可逆的に」解決したという合意がなされ、韓国は日本政府から元慰安婦への支援金10億円を受け取ったが、ソウル日本大使館前の慰安婦像はそのまま、他地域での慰安婦像建立も続いている。

 文在寅政権は、交渉過程を一方的に公表し、なおかつ「当事者(元慰安婦の女性)と国民を排除した政治的な合意」と非難した。日本政府が厳しく反発すると、今度は「再交渉は求めない」と後退したが、韓国政府が10億円を拠出するという意味不明の方針を表明し、「被害者が望んでいるのは自発的かつ心からの謝罪だ」などと注文をつけた。

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合意成立時点でこの件は「韓国の国内問題」(政府高官)である。今さら文氏が、騒ごうがどうしようが「ホント何言っているんだって感じだ」(外務省幹部)と突き放している。
「韓国は放っておくということだ。まあ別に、こんな表明をしても、国際社会から笑われるだけだから」[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 というのも、当然の反応だろう。この感想は福澤の発言とよく通じている。アジア経済を専門としてきた渡辺利夫・拓殖大学前総長の最新刊『決定版 脱亜論』[2]は日本と中国・朝鮮との近代国交史をふり返りつつ、福澤諭吉のその時々の考えを辿っていく。現代日本人が深く共感する体験を、我々の先人もしてきた事が判る。


■2.「隣家の焼亡豈(あに)恐れざる可(べ)けんや」

 福澤諭吉は当初、朝鮮の近代化のために多くの朝鮮人青年たちを支援した。明治14(1881)年、李朝の国王高宗は明治維新に関心を寄せ、62名からなる「紳士遊覧団」を日本に派遣した。そのうちの2名を福澤は自邸に寄宿させ、慶應義塾に通わせた。これがきっかけとなり、その後多くの朝鮮人が福澤を訪れるようになった。

「紳士遊覧団」から、日本の文明開花の様子を聞いた開化派のリーダー金玉均は強い感銘を受けて、自らも訪日の決意を固め、国王の内命を受けた。明治15(1882)年、来日して、福澤の別邸に寄宿し、福澤に紹介された朝野の中心人物と議論を重ねた。

 朝鮮近代化支援の動機を、当時の福澤は次のように語っている。

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 西人東に迫るの勢は火の蔓延するがごとし。隣家の焼亡豈(あに)恐れざる可(べ)けんや。
(西洋人が東洋に迫る勢いは火事が広がるようなものである。隣家の火事をどうして恐れないでいられようか。)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 朝鮮が近代化に背を向けていれば、欧米の侵略の餌食となってしまい、日本の独立も危うくなる。この切迫した危機感から福澤は朝鮮開化派を支援したのであった。


■3.大院君のクーデター

 日本滞在が3ヶ月を過ぎた明治15年7月、壬午(じんご)事変の報を聞き、金玉均は急いで帰国した。高宗の実父、大院君は今まで政権から遠ざけられていたが、権力を握っていた高宗の王妃・閔妃(みんび)一族に対してクーデターを起こしたのである。

 大院君は軍政近代化で罷免された兵士たちを扇動して王宮に乱入させ、閔妃一派の重臣を殺害させた。乱兵は近代化を後押しする日本公使館をも焼き討ちし、多数の日本人を虐殺した。閔妃は危うい所で王宮を逃れ、高宗を操って清国軍の派遣を要請させた。大義名分の立った清国は5千の兵を送って乱兵を鎮圧し、事変の首魁である大院君を清国に拉致・拘束した。

 朝鮮政府は、日本政府に対し乱徒の行動を謝罪・補償し、同年10月に再び使節団を送った。金玉均も同行し、福澤諭吉による指導と支援を受けた。この頃から朝鮮留学生の数が増え、福澤は彼らの大半を陸軍戸山学校に在学させ、軍事教練も受けさせた。

 さらに福澤は門下生を朝鮮に送り、近代化を助けようとした。朝鮮最初の新聞『漢城旬報』を創刊し、文明開花の必要性を説いた。さらにこれをハングル版の大衆紙として、開化派の拠り所とした。福澤は暗号電信で金玉均への指示を行い、時々調達した武器などを送ったりした。

 しかしこの時期、権勢を張る閔妃一族のもとで開化派は押さえつけられていた。閔妃一族は清への服属を確認し、日本式改革を捨てた。事変後も清は3千の軍隊の韓国駐留を続け、韓国の軍隊もその清国司令官の統括下におかれた。大国に事(つか)える事大主義そのものである。


■4.金玉均のクーデター

 明治17(1884)年12月、清仏戦争で清が敗れた機に乗じて、金玉均以下、開化派同志40数名、日本兵、日本人壮士30名で守旧派の6大官僚を殺害し、翌日、国王の裁可を得て、開化派官僚が中心となった新政府を樹立した。

 しかしすぐに袁世凱率いる清軍600人が王宮に侵入し、抵抗する日本兵を全滅させた。金玉均らは日本大使館に逃げ込んだ。袁世凱の命令を受けた守旧派官僚は高宗の自由を拘束した上で、臨時政府を樹立し、日本公使館に金玉均らの身柄引き渡しを迫った。

 日本公使館はこれを拒否し、金玉均らを船に乗せて日本に送った。福澤邸に現れた金玉均らに対して福澤は「よく生きていた」と迎えた。その後、清国と朝鮮は金玉均を逆賊として何度も引き渡しを要求したが、日本政府はこれに応じず、金は日本で10年余の亡命生活を送った。


■5.「我は心においてアジア東方の悪友を謝絶するものなり」

 明治27(1894)年、駐日清国公使は金玉均に、ロシアの東方攻略が活発化しており、これに対抗するために日清連携が不可避であること、それに伴い朝鮮宮廷の革新の相談のために、上海に来られたい、との李鴻章の意を伝えた。

 金玉均は、これが罠だと直感したが、万が一でも開化派再興の可能性が開かれるのであれば、それに賭けて上海に行こうと決意した。福澤は翻意を促したが、彼の覚悟は動かなかった。

 金玉均は長崎から上海にわたり、そこで朝鮮から送られた刺客に頭を撃ち抜かれた。李鴻章は暗殺の成功について、国王に祝電を送ったという。金玉均の遺体は韓国に送られ、 首と両手両足を切断され、それぞれ各地の路傍に晒され、鳥や犬の食うがままにされた。古くから伝わる中国式の残虐きわまる極刑である。

 母と妹はすでにクーデター失敗の直後に毒を煽って自裁しており、弟は獄死。獄中で生きていた実父は遺体の到着と同時に、銃殺刑に処せられた。

 暗殺の手口と刑の残虐さに、日本人の清・韓両国への反感は沸騰した。浅草東本願寺別院で行われた金玉均の法要には千数百人が集まり、有力新聞社15社は金玉均の死を悼む社説を掲載し、連名で追悼義金の募集に当たった。

 福澤が「脱亜論」を書いたのは、この直後である。「隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの余裕あるべからず」(隣国が開明するまで待ってからアジアを興すだけの余裕はない)と清・韓の近代化の望みを捨て、「悪友を親しむ者は共に悪名を免れるべからず」(悪友と親しいものは共に悪友とみなされてしまうのは致し方ない)として、次の有名な一節で結ぶ。

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我は心においてアジア東方の悪友を謝絶するものなり。
(私は少なくとも心中においてはアジア東方の悪友とは交友を絶ちたいと考えている)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 現実政治においては隣国のことゆえ、完全に縁切りとはいかないが、少なくとも「心において」絶交する、という。母国のために命をかけて尽くそうとしてきた金玉均らに、これほど卑怯で酷い仕打ちをする清・韓両国への絶望と怒りの声であった。

■6.三国干渉の途端、ロシアへの事大

 しかし、日本政府はまだ、韓国を清国支配から切り離して自主独立の国としようという考えを捨てなかった。それに対して、朝鮮をあくまでも服属国とする清国との対決は不可避であった。こうして日清戦争が始まった。

 日清戦争が日本の勝利で終わり、日清講和条約が結ばれたが、その第一条は「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す」であった。日本は親日派・金弘集を首班とする内閣を組織させ、日本主導の改革を開始しようとした。

 しかし、ロシアを中心とする三国干渉に日本が屈すると、朝鮮政府内ではまた事大主義が頭をもたげ、親露派がにわかに勢いを増した。ロシア公使カール・ウェーバーもこれを好機とみて、閔妃一族に取り入った。閔妃はロシアの言うことを聞いて、内閣から開化派を駆逐し、日本が始めようとしていた改革を退けた。

 追放された開化派は日本と組み、閔妃の排除を企図した。駐韓公使・三浦梧楼(ごろう)が擁立した大院君は、開化派官僚、朝鮮訓練隊、日本人壮士を引き連れて王宮に侵入し、その混乱の中で閔妃は殺害された。ウェーバーは国王・高宗をロシア公使館に移し、開化派官僚を左遷。さらに総理・金弘集を処刑し、屍を市街地に晒すと言う残忍さを見せつけた。

 日清戦争を戦って日本はようやく韓国を清の服属国から離脱させた途端に、韓国は事実上、ロシアの属国になってしまったのである。これが日露戦争の遠因となる。

 こうして、朝鮮が近代化どころか、内紛と事大に流されていくのを見て、福澤の挫折感は一段と大きくなった。それが冒頭で紹介した「背信違約は彼らの持前」「朝鮮人を相手の約束ならば最初より無効のものと覚悟して」という憤懣(ふんまん)の声につながる。


■7.国際社会から相手にされなかったハーグ密使

 日露戦争もまた朝鮮半島をロシアの勢力圏に入れまいとする所から起こった。宣戦の詔勅には「韓国の存亡は実に帝国安危の繋がる所」という一節があった。何とか日露戦争に勝って結んだポーツマス講和条約では「日本帝国政府が韓国に於て必要と認むる指導・保護及監理の措置を執る」事にロシア政府は干渉しない、という一項が含まれた。

 日本が韓国を保護国化することは、米英も賛成した。ポーツマス講和会議のあとで、ルーズベルト大統領は小村全権代表に、「将来の禍根を絶滅させるには保護化あるのみ。それが韓国の安寧と東洋平和のため最良の策なるべし」と言った。

 イギリスのランズダウン外務大臣も「英国は日本の対韓措置に異議なきのみならず、却って欣然その成就を希望する」とまで言い切った。韓国の変転常無き事大と内紛が、日清日露の二大戦役を引き起こしたと言う歴史認識からであろう。

 韓国の保護国化が進む過程で起きたのが、明治40(1907)年6月のハーグ密使事件であった。オランダのハーグで開催された第2回万国平和会議にて、国王高宗の親書と信任状を持った三名の使者が会議の席上で、日本の横暴を訴え、保護国化から逃れようとしたのである。

 国王の親書と信任状は会議の主催者であるロシア皇帝ニコライ2世あてのものだった。日本と戦ったロシアなら助けてくれるのでは、と期待したのかもしれない。しかしロシアは日本の天皇陛下宛ての招聘状を持参しなければ参加を許すことはできないと断った。三名は主催国オランダの外務大臣、議長のオランダ政府代表からも参加を断られた。

 招聘された各国代表からも、韓国の使者を参加させようという意見は全く出なかった。この挙が、いかに当時の国際常識を無視していたかが窺える。

 韓国統監・伊藤博文は、この事件を日韓協約の明らかな侵犯として、その責任は国王高宗にあり、としたが、国王は事件への関与を否定した。日本の国論の激しさに驚愕した韓国の宮廷は、国王に譲位を求めたが、高宗はこれを拒否。

 宮廷は伊藤に、国王に譲位を説得するよう依頼までした。伊藤は、かかる事は韓国皇室の決すべきことである、と突き放した。こういう依頼をすること自体が事大主義の伝統だろう。高宗はついに皇太子に譲位した。


■8.事大と内紛の歴史を踏まえれば

 ハーグ密使事件は、韓国の外交体質をよくあらわしている、という点で、現在の慰安婦合意違反とよく似ている。両方とも国際常識を全く弁えず、国際社会から見放された行為であること。しかも、表向きに交わした二国間の合意を平然と破っていること。

 福澤の「朝鮮人を相手の約束ならば最初より無効のものと覚悟して」という言葉が真実をついていることがよくわかる。この言葉の後で福澤は「事実上に自ら実を収むるの外なきのみ」と結ぶ。これは「相手が約束を守ってくれるなどとは期待せずに、日本が自ら国益を守っていくしかない」という事だろう。

 とすれば、韓国や北朝鮮との話し合いなどは無駄だと諦めて、韓国の慰安婦合意違反に対しては制裁をもって、合意を守った方が身のためだと覚らせ、北朝鮮の核武装に対しても、圧力を続けて、このまま核開発を続ければ国が潰れる、という事を判らせるべきだろう。

 国として約束を守る、というのは、独立自尊の精神があって初めて可能となる。事大と内紛で、先行きどうなるか自分でも判らないという国柄では、約束を守る事はできない。そういう国とは「あくまで話し合いで」というアプローチは意味が無い。約束を守らない国とは話し合っても、欺されるだけだ。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG Step 韓国問題−歴史編
 弊誌の過去の記事を選び、週1〜2回、メール配信し、体系的にその分野を学べるコースです。
 近年の韓国の異常な反日活動を考える上でも、日本と朝鮮半島の間の歴史を、史実や人物の足跡を通じてよく理解しておく必要があります。そこから、韓国側の主張がいかに史実から遠いものか、分かるでしょう。
http://blog.jog-net.jp/201402/article_5.html

b. テーマ「韓国」の記事
No.1014 慰安婦プロパガンダには国際法で反撃できる
No.1003 半島有事に邦人救出はできるのか?
Wing(2618) 嘘の文明、誠の文明
Wing(2591) 日本人の「事なかれ主義」につけ込む韓国外交
No.965 不当不作為の在日行政・見て見ぬふりの日本国民、等々
http://blog.jog-net.jp/theme/193483dca8.html

あけましておめでとうございます
2018/01/01
本年もよろしくお願いします。

韓国はヘイト大国なのか
2017/12/26
【エンタメよもやま話】韓国は「ヘイト大国」なのか、在ソウル外国人95%が「差別体験」 産経新聞より、

 内閣府が12月2日「人権擁護に関する世論調査」の結果を発表しました。
 今回、初めて、特定の人種や民族への差別を繰り返す「ヘイトスピーチ(憎悪表現)」に関し、複数回答でその受け止め方を尋ねたのですが、「ヘイトスピーチを伴うデモ、集会、街宣活動を知っているか」との問いに全体の57・4%が「知っている」と回答。
 そして「知っている」と答えた人にその感想を聞くと、半数近い47・4%が「日本に対する印象が悪くなる」と答え、「不愉快で許せない」との回答も45・5%にのぼるなど、否定的な答えが多くを占めました。
 その一方、17・0%の人が「『表現の自由』の範囲内だと思った」と答え、「ヘイトスピーチをされる側に問題がある」との回答も10・6%あるなど、一定の容認論もありました。
「ヘイトスピーチ」が許されないことは言うまでもなく、こうしたことをなくすため、官民一体となって努力を続けることが求められていることは言うまでもないと思います。
 さらに、これからは観光客だけでなく、日本に住もうとする外国人が増えるのは間違いないですから、在日外国人全般に対する差別的な言動を許さない世の中が求められています。
 というわけで、そうした問題に関する話題を本コラムでご紹介しようと、いつものように海外メディアのサイトを巡回していたところ、驚きの記事にたどりつきました。慰安婦問題をはじめ「ヘイトスピーチ」の問題でも厳しく日本を糾弾(きゅうだん)する韓国が、実は外国人に対して極めて差別的なお国柄であることが分かったのです。
■韓国を国連が問題視…実態を調査
 12月10日付の香港の英字紙「サウスチャイナ・モーニング・ポスト」(SCMP、電子版)。この記事によると、韓国は朝鮮民族が全体の96%を占める最も多様性のない国のひとつで、海外に行くことなしに少数民族と交わる機会は殆(ほとん)どないといい、そのためか、在韓外国人に対し、より直接的な差別があると明言します。
 その例として、ソウルにある仏教系の私立大学、東国大学校(とんぐうだいがっこう)で教べんを取る黒人女性、カニカ・コープランドさん(41)は、数カ月前、白人を含む友人たちとバーで楽しんでいたとき、こんな目に遭ったと振り返ります。
 「何人かの韓国人男性が白人の友だちのところにやってきて“どうして君は黒人の女(black girl)と一緒にいるんだ”と訪ねたんです」
 いまや欧米では、黒人にblackという表現を使うことはまずありません。日本人でも「黒」という単語は出さないでしょう。
 こうした出来事は珍しいことだと彼女は言いますが、それは「韓国人と交わるのを制限しているからに過ぎない」からだと冷静に分析します。
 にもかかわらず、彼女はこう付け加えました。
 「私は友人たちに、ここに引っ越すか、少なくとも訪問することを勧めました。この国は非常に人種差別的ですが、それは(米国などとは)異なる種類の人種差別です。米国に存在する人種差別と違って、深く根を張っておらず、定住するに値しないような(ひどい)ものではありません」
 とはいえ、韓国人の在韓外国人に対する人種差別は、より広まりを見せています。
 実際、世界の人々の社会文化や道徳、宗教、政治的な価値観を各国の社会学者たちが調査する国際的なプロジェクト「世界価値観調査」(1981年からスタート)の2010年〜14年分の結果によると、「外国人の隣に住みたくない」という回答は、米国人5・6%、香港人18・8%に対し、韓国人は34・1%。
 さらに、ソウルにある公的シンクタンク「ザ・ソウル・インスティテュート」の2015年の調査によると、ソウルに住む外国人の94・5%が人種差別を経験したと答えていたのです。一方、日本では、今年の法務省の調べで、人種差別を経験したと答えた在日外国人は全体の30%でした。
 こうした数字が示すように、韓国における在韓外国人に対する人種差別問題は日々、深刻化しているのですが、韓国人が他国に比べて外国人を露骨に差別するのは今に始まったことではありません。
■国連「韓国は“人種差別禁止法”を制定せよ」
 実際、2014年には、人種差別に関する国連(UN)の特別報告官、ムタマ・ルテレ氏が韓国における人種差別や外国人排斥の実態について調査。その結果、韓国に対し、人種差別を禁止する法律を制定するよう促(うなが)したのです。
 どういうことかといいますと、韓国では2014年当時、顔を黒く塗って黒人の真似をしたパフォーマーがテレビに登場したり、ニュース番組の司会者(ニュースアンカー)と記者の服装姿のチンパンジーが「ディス・アフリカ」というタバコの新ブランドの広告に登場するなど、人種問題に無頓着(むとんちゃく)過ぎる事例が続発。
 さらに、低賃金かつ未熟練の単純労働のために雇われた移民労働者たちは、はっきり差別されており、調査したルテレ氏は、厳しい労働や生活状況に苦しむ農業・漁業分野の移民労働者の窮状(きゅうじょう)や、移民労働者が韓国人の労働者よりも長時間かつ低賃金労働を強いられているといった実態を強調したのでした(2014年10月6日付フランス通信=AFP=など)。
 それだけではありません。在韓外国人への差別は移民労働者といった人たちだけに向けられたものではないのです。
 例えば、フィリピン系韓国人の女優ジャスミン・リーさんは2012年、外国系として初の国会議員になったのですが、彼女が当選した際には、ネット上に「フィリピンに帰れ!」「わが国の政治に外国人の居場所はない」といった人種差別丸出しの非難の声が噴出。彼女は韓国で最も嫌われる女性のひとりになったのでした(2015年5月11日付米リベラル系オンラインメディア、ハフポスト)
 ちなみに、この一件について、フィリピンを代表する放送局、ABS−CBNニュースは2012年4月17日付で、リー氏に対する批判のいくつかは、彼女がフィリピン出身だったからかもしれないと前置きし、韓国の大手英字紙、コリア・タイムズの一部をこう引用しました。
 <ひとりのツイッター・ユーザーは、東南アジア人に対する韓国人の偏見を指摘し、こう投稿した。「もし、リー氏が米、英、仏、独、または他の西欧諸国からの移民なら、同じような態度で話すだろうか?」>
 まさしく、これが韓国人の本音でしょう。西洋人には負けるけど、東南アジアの連中よりは、俺たちは上、ってことなんでしょうかね…。
 呆れてモノが言えませんな。国連が問題視して実態調査に入るだけのことはありますね。
 そして、国連から人種差別を禁止する法律を制定するよう促(うなが)されてから約3年経過したにもかかわらず、いまだに動きなし…。
 しかし、文在寅(ムン・ジェイン)大統領は、大統領選に初出馬し、落選(当選したのは朴槿恵=パク・クネ=氏)した2012年、包括的な差別禁止法を可決すると宣言しています。
 彼が大統領に当選した今年の5月以降、この問題は討議されていませんが、今後、問題が大きくなれば具体化に向けて動き出す可能性があると前述のSCMPは指摘しますが、一方で「これまでのところ、人種差別は韓国社会にとって大きな問題ではない」「韓国は比較的、(民族が)同質であり、米国や欧州諸国のような(人種差別)問題はない」と明言するソウル大学のリー・サン−ウォン教授(刑法・訴訟手続)と明言する法学者も少なくなく、先行きは不透明です。
 本コラムでは何度も言及していますが、ベトナム戦争(1960年代後半から70年代初め)時、米の同盟軍としてこの戦争に参戦した韓国軍が13歳から14歳の少女を含む数千人のベトナム女性に対し激しい強姦または性的暴行を行った揚げ句、慰安婦にしたり( http://www.sankei.com/west/news/171124/wst1711240004-n1.html )、非武装の民間人を虐殺した事実について、ベトナム政府に謝罪するどころか、完全無視するのは、いまだに続く東南アジアの人々に対するこうした根深い差別意識が原因なのでしょうか…。   (岡田敏一)
【プロフィル】岡田敏一(おかだ・としかず) 1988年入社。社会部、経済部、京都総局、ロサンゼルス支局長、東京文化部、編集企画室SANKEI EXPRESS(サンケイエクスプレス)担当を経て大阪文化部編集委員。ロック音楽とハリウッド映画の専門家。京都市在住。

歴史教科書読み比べ(45) 占領下の戦い
2017/12/25

Japan On the Globe(1042)■国際派日本人養成講座■H29.12.24より転載

歴史教科書読み比べ(45) 占領下の戦い

 占領行政は日本の「民主化」か、「無力化」か。

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■中学歴史教科書の評価アンケートにご協力ください■

国際派日本人の育成にはそれにふさわしい歴史教育が不可欠です。
そのために中学校の歴史教科書の比較研究を行っています。
授業で歴史を学んでいる中学生にお答えをお願いします。
3問だけの簡単なアンケートです。
https://t.co/kqI9kAxDwh
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■1.「日本がふたたび連合国の脅威にならないよう」

 大東亜戦争という未曾有の大戦争は終わりを告げ、わが国は歴史上、初めて外国軍による占領下におかれた。これに関する東京書籍(東書)版の記述は、次のような淡々としたものである。

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 GHQ(JOG注: 連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策の基本方針は,日本が再び連合国の脅威にならないよう,徹底的に非軍事化することでした。軍隊を解散させ,戦争犯罪人(戦犯)と見なした軍や政府などの指導者を極東国際軍事裁判(東京裁判)にかけ,戦争中に重要な地位にあった人々を公職から追放しました。[1, p243]
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 育鵬社版は治安維持法の廃止、財閥解体、労働組合法、農地改革などの改革を記述したあと、GHQの狙いをこう述べる。

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 一方でGHQは,日本がふたたび連合国の脅威にならないよう,国のあり方を変えようとしました。過去の日本の歴史教育や政策は誤っていたという宣伝を日本側に行わせ,報道や出版を秘密裏に検閲して占領政策や連合国への批判を禁じました。[2, p254]
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「過去の日本の歴史教育や政策は誤っていたという宣伝」は、"War Guilt Information Program"(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)と名付けられたプロパガンダである[a]。今日でも、戦前の日本は「軍国主義」だった、という先入観が根強いが、その淵源がここにあった。

 同時にわが国ではかつてなかった大規模な検閲が実施され、日本人5千余人を含む検閲隊が、月4百万通ほどの私信を検閲していた。国内で発行される新聞、雑誌、図書から、ラジオ、選挙演説まで事前の検閲を受け、内容の修正を命じられたり、時には発行禁止処分を受けた。検閲を受けた当時の手紙には、次のような一節があった。[b]

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 言論の自由や思想の自由が声高に叫ばれていますが、現実には言論も思想も戦時中以上に制限されているのです。・・・ニュースも情報も、日本の過去の罪業が連合軍の非の打ち所のない所業と比較され、特筆大書されたのちでなければ、掲載できぬ仕組みになっているのです。[a]
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 東書版の言う「徹底的に非軍事化すること」とは軍隊の解散、東京裁判、公職追放などの目に見える施策のみならず、精神面でも贖罪意識を植え付けるプロパガンダ活動を伴っていたのである。


■2.東京裁判をどう語るか

 GHQによる贖罪意識植え付けの主要な柱の一つが、極東国際軍事裁判(東京裁判)だが、東書版での記述は前節で引用した部分のみである。これでは「戦争犯罪人(戦犯)と見なした軍や政府などの指導者」を裁判にかけたというだけで、この裁判自体の問題は何も語られていない。

 育鵬社版は「歴史ズームイン 東京裁判」と題した、まるまる1ページのコラムで、この裁判について詳しく述べている。例えば次のような一節がある。

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 裁判は,戦争指導にたずさわった政治家や軍人を侵略戦争を行った「平和に対する罪」で裁こうとするものでした。弁護団は,この罪は新しく導入された考え方であり,過去の戦争にさかのぼらせて適用することは不当であると異議を申し立てましたが却下されたまま裁判は始まりました。[1, p256]
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 たとえば、制限速度60キロを守って走っていた車を警察が捕まえて、「この道路の制限速度は40キロと今変えたが、適用は過去に遡(さかのぼ)る。だからあなたはスピード違反だ」と言ったら、法律の素人でもおかしいと思うだろう。「法の不遡及(ふそきゅう)」という近代法の基本原則が、あからさまに破られたのである。

 さらに育鵬社版は、アメリカの東京大空襲や原爆投下、ソ連の満州侵攻での日本人への暴行、日本軍将兵のシベリア抑留など、「当時の国際法から見て戦争犯罪とされるものでも,罪に問われることはありませんでした」と指摘する。

 そして、インド代表のパール判事が「復讐の欲望を満たすために、単に法律的な手続きを踏んだに過ぎないようなやり方は、国際政治の観念とはおよそ縁遠い」として、全被告を無罪とした事実を挙げている。

 育鵬社版は、このコラムの結論として「一方では,世界平和に向けて国際法の新しい発展を示した裁判として,積極的に肯定する意見もあり,その評価は現在でも定まっていません」と述べているが、現時点の歴史教育としてはこの両論併記の形が望ましいだろう。

 東京裁判をどう捉えるかは、我国の歴史観での一大分岐点であり、両論とも言及しない東書版の記述は極めて不十分である。


■3.「民主化の中心は,憲法の改正でした」

 GHQのもう一つの「非軍事化」の手段が憲法改訂だった。東書版は、その経緯を次のように説明している。

__________
[日本国憲法の制定] 民主化の中心は,憲法の改正でした。日本政府は初めにGHQの指示をうけて改正案を作成しましたが、大日本帝国憲法を手直ししたものに過ぎませんでした。そこで、徹底した民主化を目指すGHQは、日本の民間団体の案も参考にしながら,自ら草案をまとめました。
日本政府は,GHQの草案を受け入れ,それをもとに改正案を作成しました。そして,帝国議会の審議を経て,1946(昭和21)年11月3日に日本国憲法が公布され,翌年の5月3日から施行されました。[1, p245]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この選定プロセスを、育鵬社版は次のように記述している。

__________
日本国憲法の制定 GHQは,日本に対し憲法の改正を要求しました。日本側は,大日本帝国憲法は近代立憲主義に基づいたものであり,部分的な修正で十分と考えました。しかし,GHQは日本側の改正案を拒否し,自ら全面的な改正案を作成して,これを受け入れるよう日本側に強く迫りました。
 天皇の地位に影響がおよぶことをおそれた政府は,これを受け入れ,日本語に翻訳された改正案(6)を,政府提案として帝国議会で審議しました。議会審議では.細かな点までGHQとの協議が必要であり,議員はGHQの意向に反対の声をあげることができず,ほとんど無修正のまま採択されました。[2, p255]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「改正案」(6)の則注として「この憲法の改正案がGHQの手によるものであることを公表するのはかたく禁止された」と追記されている。


■4.ソ連の陰の圧力

 東書版の記述では、日本政府の改正案では民主化が不徹底なので、GHQが自ら草案を作り、日本政府はそれを受け入れた、という筋書きとなっている。まるでGHQが民主化の先生であり、日本政府は出来の悪い生徒のようだ。

 育鵬社版が描くGHQの振る舞いは全く違う。GHQは自らの改正案を受け入れるよう「強く迫りました」。「天皇の地位に影響がおよぶことをおそれた政府」という表現からは、もし日本政府がこれを受け入れなければ、天皇の地位がどうなるか分からない、という圧力を受けていたことが窺われる。

 ちょうどソ連の工作員たちによって日本が日米戦争に追い込まれ、かつ降伏も引き延ばされたように、GHQに潜んだ工作員たちは日本を共産革命に近づけるために皇室制度を弱体化させようとしていた。[c]

 またGHQをチェックする機関として、ソ連も含めた極東委員会が発足する予定となっており、ソ連は天皇を東京裁判の被告にすることを強硬に主張していた。そんなことになれば日本全土で反乱が起こり、GHQの占領行政も頓挫してしまう。それを恐れたマッカーサーが、極東委員会発足前に天皇の地位を認めたままでの民主的な憲法を制定してしまおうと考えた。[d]

 日本政府もそのようなソ連による陰の圧力の下で、GHQ草案を受け入れざるを得なかった。

 育鵬社版が側注で「この憲法の改正案がGHQの手によるものであることを公表するのはかたく禁止された」と述べている点は、日本国憲法の成立過程の異常さを示すポイントだ。

 禁止の理由は何か? まず、日米ともに批准しているハーグ陸戦条約において「占領者は絶対的な支障がない限り、占領地の現行法律を尊重して」という条項があり、占領中の憲法改訂要求はこの国際法違反ととられる恐れがあった。

 もう一つの理由は、占領軍が作り、押し付けた憲法であると広く知られれば、日本国民の拒絶反応が起こり、これがまた占領行政をつまずかせる恐れもあった。日本国憲法はこのような国際政治の虚々実々の駆け引きの過程から生まれたのである。


■5.昭和天皇の果たされた役割

 東京裁判と日本国憲法制定をめぐる駆け引きの中で皇室制度は危機に瀕していたのであるが、昭和天皇はそれには全く関せず、ひたすら国民を守るために立ち上がっていた。育鵬社版は「人物クローズアップ 国民とともに歩んだ昭和天皇」という1ページのコラムを設け、開戦時の苦悩から、終戦の決断、戦後の全国ご巡幸までを御製を通じて描いている。

 そのうちの「敗戦と昭和天皇」の項では次のように述べている。

__________
 ・・・9月,天皇は連合国軍の最高司令官であるマッカーサーを訪問します。マッカーサーは天皇が命乞いに来たと思いました。
 ところが,天皇の言葉は,私の身はどうなろうとかまわないから,国民を救ってほしいというものでした。マッカーサーは驚きます。「この勇気に満ちた態度は,私の骨のズイまでもゆり動かした」(「マッカーサー回想記』)。彼は,天皇がいなくなれば日本は分裂し占領は不可能になる,という考えを強めました。
 身はいかに なるともいくさ とどめけり
 ただたふれゆく 民をおもひて
 これは終戦を決断したときの御製ですが,ここにも天皇の覚悟が見てとれます。国民を励まそうと,戦後すぐに始められた天皇の巡幸は, 1954(昭和29)年まで続けられました。日本国憲法により「国民統合の象徴」となった天皇に対する国民の敬愛は以前と変わらず,天皇は全国各地で国民から熱烈な歓迎を受けました。[2, p257]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 天皇との会見で、マッカーサーは「天皇がいなくなれば日本は分裂し占領は不可能になる」との考えを強めた。そうなっては日本の共産革命を狙うソ連の思うつぼであったろう。天皇の国民を思う純粋なお気持ちがマッカーサーの心をうち、さらなる悲劇を防いだのである。

 さらに昭和天皇は終戦直後の混乱の中で、「全国を隈なく歩いて、国民を慰さめ、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ」とのお考えのもと、約8年半をかけて、沖縄以外の全都道府県、お立ち寄り箇所1411、行程3万3千キロを回られた。

 その光景は、拙著『世界が称賛する 日本人の知らない日本』[e]でも描いたが、これが国民を戦後復興に立ち上がらせた原動力となった。このように昭和天皇は終戦の決断から、占領下の混乱回避、復興への激励と歴史的な役割を果たされた。これらの史実について東書版は一言も語っていない。


■6.「日本の領土をめぐる問題とその歴史」

 一方、東書版にも出色の記述がある。竹島、北方領土、尖閣諸島の3つの領土問題の歴史的経緯をまとめた「歴史にアクセス 日本の領土をめぐる問題とその歴史」と題した2ページのコラムである。

 竹島については、江戸時代から鳥取藩の商人が漁業を行ってきており、明治38(1905)年に島根県に編入されたことを述べた後で、次のように語る。

__________
 ところが戦後,韓国は,1952年にサンフランシスコ平和条約が発効する直前,当時の韓国の大統領の名前から「李承晩ライン」と呼ばれる線を公海上に−方的に引き,その韓国側に竹島を取りこんで,領有権を主張しました。日本政府は厳重に抗議しましたが,1954年から韓国は竹島に警備隊を駐留させました。[1, p252]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この後、「現在もなお韓国による不法占拠が続いています」としているが、現在の領土問題を理解するためには、このように歴史的背景を知ることが不可欠である。

 一つ欲を言えば、竹島の軍事占拠においては、「韓国軍はライン越境を理由に日本漁船328隻を拿捕し、日本人44人を死傷(死亡者数は不明)させ、3,929人を抑留した」[3]との史実を付加すると、韓国の違法行為に苦しんだ当時の国民の胸中が窺えるだろう。


■7.歴史プロパガンダか、歴史教育か

 GHQの占領行政は、日本の「民主化」プロセスだったのか、それとも言論・報道の自由を抑圧して、日本罪悪史観を国民に刷り込み、憲法までも自由に変えてしまう非民主的な「無力化」プロセスだったのか。

 東書版の描く歴史は前者であり、それはそもそもGHQが日本人に刷り込もうとした歴史観である。それでは歴史教育というより、歴史プロパガンダの引き継ぎに過ぎない。

 史実を丹念に見ていけば、GHQの占領行政に苦しめられた国民がおり、その国民を我が身に代えても守ろうとされた昭和天皇がいた。そうした先人の生き様を共感をもって辿ること、そこにこそ歴史教育の真の眼目がある、と筆者は考える。


■リンク■

a. JOG(835) 日本「軍国主義」というプロパガンダの創作者たち
 70年前に米占領軍が創作したプロパガンダを、今も中朝韓や偏向マスコミが使っている。
http://blog.jog-net.jp/201402/article_3.html

b. JOG(098) 忘れさせられた事
 戦後、占領軍によって日本史上最大の言論検閲が行われた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_2/jog098.html

c. JOG(949) 日本国憲法に埋め込まれたソ連の「仕掛け」
 日本国憲法には、ソ連の秘密工作によって「日本国民の意識」の「深部からの革命」を狙った「仕掛け」が埋め込まれている。
http://blog.jog-net.jp/201604/article_7.html

d. JOG(141) 仮設憲法、急造成功
 今週末までに、新憲法の概案を作れ、、、マッカーサーは、なぜそんなに急がせたのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog141.html

e.伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー1位(H28/6/30調べ) 総合19位(H28/5/29調べ)


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 『新編新しい社会歴史 [平成28年度採用]』★、東京書籍、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4487122325/japanontheg01-22/

2.伊藤隆・川上和久ほか『新編 新しい日本の歴史』★★★、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4905382475/japanontheg01-22/

3.Wikipedia contributors. "竹島 (島根県)." Wikipedia. Wikipedia, 7 Dec. 2017. Web. 7 Dec. 2017.


■拙著『世界が称賛する 日本人の知らない日本』へアマゾン・カストマー・レビュー

■★★★★★ 外資系会社員必読の書(街道Walkerさん、ベスト1000レビュアー)

 外資系にいると英語だけは堪能な「なんちゃってアメリカ人」が社内にちらほらいます。その言動に違和感を感じていましたが、日本人としての「根っこ」を持っていないことにメルマガで気づかされました。それでは努力しても二流アメリカ人にしかなれないわけですから、アメリカ人の上司からすると使い勝手はよくても、尊敬は受けられません。

 本書の冒頭に、外国人と接する業務に就く場合、英語を流ちょうに話せるようになるよりも、個人としてのナショナルアイデンティティをしっかり持つことの重要性が説かれており、とても勇気づけられました。

 日本は大東亜戦争の敗戦によって、戦勝国の歴史観を「木に竹を接ぐ」ように植え付けらえて今日に至っています。その結果、世界各国の人々が当たり前に持っている”愛国心”が戦後このかた長年タブー視されてきました。

 母国の自然・環境を愛し、歴史とそれらを紡いできた多くの先人たちに思いをはせるとき、しっかりとした根っこに支えられた日本人となります。

”地球市民”なんてありもしない幻想を一気に実現させようとするサヨクの、うわついたリアリティの無さとは対極のポジションです。


■伊勢雅臣より

「根っこ」を持たない日本人は、国際社会でも尊敬されません。その「根っこ」を太く深く伸ばすのが、真の歴史教育でしょう。

伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー1位(H28/6/30調べ) 総合19位(H28/5/29調べ)

歴史教科書読み比べ(46)  冷戦とアジア独立
2017/12/24
Japan On the Globe(1043)■ 国際派日本人養成講座 ■H29.12.24 ■より転載
歴史教科書読み比べ(46) 冷戦とアジア独立

 共産主義下の人々の苦しみ、アジアの人々の独立への志。そうした過去の人々への共感を生み出す歴史教育とは。

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■中学歴史教科書の評価アンケートにご協力ください■

国際派日本人の育成にはそれにふさわしい歴史教育が不可欠です。
そのために中学校の歴史教科書の比較研究を行っています。
授業で歴史を学んでいる中学生にお答えをお願いします。
3問だけの簡単なアンケートです。
https://t.co/kqI9kAxDwh
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■1.朝鮮統一か、ソ連勢力圏拡大か

 戦後の日本と世界の転機は朝鮮戦争だった。東京書籍(東書)版はこう記述する。

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1950年には,北朝鮮が武力による統一を目指して韓国に侵攻し,朝鮮戦争が始まりました。アメリカ中心の国連軍が韓国を,中国の義勇軍が北朝鮮を支援して長期化し,1953年に休戦しました。[1, p247]
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 これに相当する部分の育鵬社版の記述は、以下の通りである。

__________
1950年ソ連の支援を受けた北朝鮮は朝鮮統一をはかって韓国に侵攻し,朝鮮戦争が始まりました。アメリカ軍を中心とする国連軍は韓国を支援して反撃し,これに対し中国が義勇軍を送って北朝鮮を支援するなど戦いは長期化し, 1953年にようやく休戦となりました。[2, p259]
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 両教科書の記述は微妙に異なる。東書版の「北朝鮮が武力による統一を目指して」では国家統一のための闘いと読めるが、育鵬社版の「ソ連の支援を受けた北朝鮮」では、ソ連の勢力圏拡大のための戦いとなる。その後の世界全体を覆った冷戦をみれば、どちらが実態に近いかが明らかとなる。


■2.冷戦が悪い?

 東書版は冷戦を、あたかも喧嘩両成敗のように描いている。冷戦を記述するページの冒頭で、北極を中心としてアメリカとソ連が対峙している世界地図を描き、「東西の対立 ヨーロッパから始まった冷戦は、世界を2つの陣営に引き裂きました」と説明する。そして、冷戦の象徴、ベルリンの壁についてこう記述する。

__________
ベルリンに造られる壁 西ベルリンは,東ドイツに囲まれた西側陣営の飛び地でした。1961年,東ドイツは,西ベルリンを取り囲むように壁を築き市民が自由に行き来できないようにしました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 冷戦によって壁ができ、市民の自由な「行き来」ができなくなった、と言う。

 また冷戦終結後には「ベルリンの壁の崩壊を喜ぶドイツ市民」と題した写真を載せ、「冷戦の象徴であったベルリンの壁は,建設開始から28年後,市民によって取り壊されました」と注釈する。こちらも冷戦が終わって、市民がようやく自由な交流ができることを喜んでいるかのようだ。

 しかし冷戦が悪いというだけでは、喧嘩は良くない、というのと同じで、喧嘩を防ぐ知恵にはならない。歴史教育としては、なぜ冷戦が起こったのかに踏み込む必要がある。


■3.「東ドイツ側住民の西ドイツへの逃亡を防ぐため」

 育鵬社版は「冷戦の進行」の項で次のように書く。

__________
 1956年,ハンガリーでソ連の支配に反対する暴動がおこると, ソ連は軍隊で弾圧しました(ハンガリー動乱)。また,東西に分断されたドイツでは, 1961年,東西ベルリンを隔てるベルリンの壁が築れました。これは.東ドイツ側住民の西ドイツへの逃亡を防ぐためのものでした。[2, pt260]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 育鵬社版は「冷戦の終結」という1ページのコラムで、さらにベルリンの壁について詳しく説明している。

__________
1950年代末に,東ドイツで農業集団化が行われると,東ベルリンから西側に脱出する人が増えたため, 61年東西ベルリンの境界に壁が築かれました。[2,p266]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 またこのコラム内で「ベルリンの壁の開放を喜ぶ市民」の写真を掲示し、その説明で次のように述べている。

__________
ドイツのベルリンは,壁によって1961年から28年間,東西に分断されていた。この間南北約45kmにわたって築かれた壁を越えようとして200人近くの死傷者と約3000人の逮捕者が出た。[2, p266]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ベルリンの壁を作ったのは冷戦ではない。共産主義の抑圧から脱出しようとする東独国民を閉じ込めておくために、ソ連が作ったものである。

 ベルリンの壁が崩壊して、人々が喜んだのは冷戦が終わったからではない。共産陣営から解放されたからである。共産主義下の人々の苦しみを描かなければ、壁が崩壊して喜ぶ人々への共感も起こらない。


■4.キューバ危機

 ソ連の勢力拡張によって、アメリカとの核戦争一歩手前まで行ったのがキューバ危機であった。この冷戦のクライマックスを、東書版はミサイルを運ぶ船の写真付きで次のように説明する。

__________
 キューバでは,1959年に革命が起こり,アメリカに協力的な政権がたおされました。ソ連が,キューバに核ミサイル基地を建設し,写真のようにミサイルを運び込むと,アメリカは海上封鎖にふみ切り,核兵器による全面戦争の瀬戸際にまで至りました。[1, p250]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 そして本文では、「1962年,キューバ危機が米ソ間の核戦争が起こる寸前で解決されると,緊張緩和が本格化しました」とある。

 東書版は「アメリカに協力的な政権がたおされました」と書くが、倒したフィデル・カストロは共産主義者で、武力革命で政権を奪い、すぐに旧政権の要人600人を処刑した[3]。そして国民の大半が信ずるカトリックを弾圧し、教会を取り壊し、教徒を矯正キャンプに送ったのである[4]。

 こうした共産党による人権弾圧を嫌ってカストロ政権下の50年間で、100万人近いキューバ国民がアメリカに逃れたとされている。[5]

 カストロ政権はアメリカ資本の農園やホテルなどを接収し、国有化を押し進めたために、アメリカはキューバと断交した。そこに目をつけたソ連がキューバに大量の経済・軍事援助をし、さらに核ミサイル基地をも作り始めた。

 東書版は「アメリカは海上封鎖にふみ切り、核兵器による全面戦争の瀬戸際にまで至りました」と書くが、これでは海上封鎖が核戦争の危機をもたらしたかのようである。


■5.「喉元にあいくちを突きつけられた」

 一方、育鵬社版はキューバ危機を次のように記述する。

__________
 中南米のキューバで革命がおこり,社会主義政権が成立すると,1962年にソ連はキューバにミサイル基地を建設しました。これに対しアメリカは,基地の撤去を求めてキューバを海上封鎖し,米ソの核戦争の危機がせまりました(キューバ危機)。
この危機は,アメリ力の抗議でソ連がミサイルを撤去したことにより回避され,この事件をきっかけに,米ソの関係は改善されていきました。[2, p260]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 「海上封鎖」は「基地の撤去を求めて」の事であった。そもそもキューバからフロリダ半島まではわずか145km。そんなところに核ミサイル基地を造られたら、喉元にあいくちを突きつけられたも同然である。

「この危機は,アメリ力の抗議でソ連がミサイルを撤去したことにより回避され」とは、ソ連があいくちを引き上げたので、危機が回避されたと言うことである。

 キューバ危機を引き起こしたのはソ連であった。アメリカが核戦争も辞さない構えでミサイル撤去を要求し、ソ連がそれに屈したので、危機が回避されたのである。


■6.「日本を西側陣営の強力な一員に」

 この冷戦構造の中で、日本のアメリカおよび世界に対する地位も変わっていった。この点を東書版はこう描く。

__________
 冷戦が激しくなると,アメリカは,東側陣営に対抗するため,日本を西側陣営の強力な一員にしようと考えました。GHQの占領政策は,非軍事化と民主化よりも経済の復興を重視する方向に転換され,労働運動の抑制や,商品の価格などの統制の撤廃が行われました。[1, p248]
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 前号でも述べたように「非軍事化」とは、日本を再びアメリカに対する脅威とならないように「無力化」することであり、「民主化」とはGHQ内部に潜んだソ連工作員たちが日本を共産革命に近づけようとした工作であった。この表現では、アメリカが日本を西側陣営に加えたことで、「軍事化」と「非民主化」の逆コースに進みはじめたように思ってしまう。

 アメリカ国内では、冷戦によってようやく共産主義の脅威が広く認識され、マッカーシズムがソ連工作員の摘発を進めていた。ルーズベルト以来の容共政策を修正し、ソ連との対決姿勢をとれば、日本を西側陣営の最前線に位置づけるというのは当然の外交政策であった。戦前から共産主義の脅威に晒されていた日本にとっても、米国との同盟は当然の国策であった。


■7.「アジアの国々の多くとの間では講和が実現しませんでした」

 この過程で、日本はサンフランシスコ平和条約により、独立を回復して、国際社会に復帰した。この点を東書版は次のように説明する。

__________
 1951年,吉田茂内閣はアメリカなど48か国とサンフランシスコ平和条約を結びました。しかし,東側陣営の国々や,日本が侵略したアジアの国々の多くとの間では講和が実現しませんでした。(1)

側注(1)この講和会議に中国は招かれず,インドやビルマ(ミャンマー)は出席を拒否し、ソ連などは出席したものの,条約に調印しませんでした。また,東南アジアには,日本が経済上の理由から賠償を軽減されたことに不満を持ち,調印した条約の承認をおくらせた国や,承認を行わなかった国もありました。[1, p249]
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 中国が招かれなかったのは、当時、国共内戦が続いており、さらに中国共産党は朝鮮戦争に参戦して国連軍と戦っていたからである。ソ連が調印しなかったのも、日本を自由主義陣営の一員として迎えよとする平和条約なのだから当然であろう。

 インドが参加しなかったのは、平和条約の中に一部領土の割譲などの項目があり、他国と同様の名誉と自由が与えられてないから、という日本に同情的な立場からであった。そしてほぼ同時期に、すべての賠償請求権を放棄して、個別の平和条約を結んでいる。

「日本が侵略した」フィリピン、ベトナム、ラオスは署名と批准を済ませており、インドネシアは署名はしたが批准はせず、そのかわりに5年後に個別の平和条約を結んでいる。[6]「日本が侵略したアジアの国々の多くとの間では講和が実現しませんでした」との一文は、朝日新聞並みの確信犯的偏向記述である。


■8.「日本が第二次大戦を戦ってくれたお蔭で」

 戦後、この冷戦構造の狭間で、多くのアジアの国々が独立した。育鵬社版はこう述べる。

__________
 大戦後,アジアやアフリカでは多くの独立国が生まれ,インドネシア(5)のように独立戦争によって独立を勝ち取った国もありました。1955(昭和30)年,この地域の,日本も含めた29か国がインドネシアのバンドンに集まって会議を開き(アジア・アフリカ会議),反植民地主義・平和共存などの平和十原則を決議しました。

側注(5) インドネシアやベトナムの独立戦争では,太平洋戦争(大東亜戦争)終結後も現地に残った旧日本軍将兵の中に独立のために戦った者も少なくなかった。[2, p259]
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 インドネシア・バンドンでのアジア・アフリカ(AA)会議に日本政府代表として出席した加瀬俊一氏は、その時のことをこう書いている。

__________
 AA会議には、当時、時めいていた、ネール、スカルノ、エジプトのナセル、周恩来、ガーナのエンクルマなどの新興勢力の指導者たちが集まった。スカルノをはじめとする第三世界のリーダーたちが、「日本が第二次大戦を戦ってくれたお蔭で、西洋の植民地支配から独立することができた」といって、口を揃えて感謝してくれたのが、印象的だった。[7, p31]
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 アジアの指導者の日本への感謝の言葉を聞けば、インドネシアやベトナムの独立戦争に命を捧げた日本の英霊もさぞ泉下で喜んでいるだろう。歴史教育はそのような共感を得る場であって欲しい。

 東西冷戦をさも喧嘩両成敗のように描き、アジア諸国が日本を恨んでいるかのように書くのは、日本の安全を脅かす敵は誰か、友邦はどこかを目眩ますプロパガンダである。そんなプロパガンダでは歴史教育が与えるべき先人たちへの共感は抜け落ち、その空隙を先人への侮蔑に満ちた先入観が満たすのみだ。

 それは中学生たちの若々しい心に対する精神的な暴力ではないか。
(文責 伊勢雅臣)

__________
(伊勢雅臣) 中学歴史教科書読み比べシリーズは、この第46回で終了といたします。第1回が平成25(2013)年2月でしたので、ほぼ5年かかりました。歴史教科書の正常化に少しでも貢献すべく、これまでの連載内容を大幅改訂の上、来年の春までには出版したいと考えています。その節はまたよろしくお願いします。

 来年からは、中学公民教科書読み比べシリーズを開始いたします。ご期待ください。

 本年の発信は本号で最終とし、新年は1月7日(日)より再開します。本年1年間の御受講、ありがとうございました。良いお年をお迎えください。
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■リンク■

a. JOG(206) サンフランシスコ講和条約
「和解と信頼の講和」に基づき、日本は戦後処理に誠実に取り組み、再び国際社会に迎えられた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog206.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 『新編新しい社会歴史 [平成28年度採用]』★、東京書籍、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4487122325/japanontheg01-22/

2.伊藤隆・川上和久ほか『新編 新しい日本の歴史』★★★、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4905382475/japanontheg01-22/

3.Wikipedia contributors. "キューバ危機." Wikipedia. Wikipedia, 4 Dec. 2017. Web. 4 Dec. 2017.

4.Wikipedia contributors. "フィデル・カストロ." Wikipedia. Wikipedia, 22 Dec. 2017. Web. 22 Dec. 2017.

5.「キューバ、移民と亡命」、キューバ研究室
http://estudio-cuba.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-2672.html

6. Wikipedia contributors. "日本国との平和条約." Wikipedia. Wikipedia, 9 Nov. 2017. Web. 9 Nov. 2017.


■伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』へのアマゾン・カストマー・レビュー

■★★★★★世界に誇れる日本人(じゃぐぁさん、ベスト1000レビュアー)

ノーベル賞受賞者の数あるエピソードの中で、大村智教授のものは本当に感動するものの一つでした。
そのエピソードを改めて振り返るところから本書は始まります。

そして先の大戦で敗れた後も立派な態度だった今村均将軍のエピソードは、人の上に立つ日本人であれば、だれもが心に刻むべきものでしょう。

さらに日本陸軍からは、ユダヤ人を救った樋口李一郎少将も登場します。第5方面軍の最後の指揮官として、8月17日以降の占守島の戦いを指導したことをソ連に恨まれますが、同盟国ドイツを無視してユダヤ人を救ったことでユダヤ人が恩返しに助命活動をしてくれたようです。人権を守る本当に近代人とは彼のような人なのでしょう。

また、オーストラリアで散った海軍兵の母の態度も立派すぎて涙が出ます。電車の中で泣きそうになりました。

軍事だけではありません。化学者の高峰譲吉、降伏調印文書に署名した重光葵など、本当に立派な人が多く書かれています。

中学生の読書の友として、子供や孫に送ってみるのは如何でしょうか。学校で日○組の歴史教育で深刻なダメージを受けた若者を救うのは、このような本なのだと思います。

伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594075681/japanontheg01-22/
アマゾン「日本史一般」カテゴリー1位 総合61位(H28/9/13調べ)

■伊勢雅臣より
 先人の生き様への共感を抜きにして、歴史教育はありえない、と思います。

終戦を遅らせたソ連の秘密工作
2017/12/10
Japan On the Globe(1040)■ 国際派日本人養成講座 ■
地球史探訪:終戦を遅らせたソ連の秘密工作
〜 江崎道朗『日本は誰と戦ったのか』から
 今こそ「日本は誰と戦っているのか」を問わなければならない。
■転送歓迎■ H29.12.10 ■ 51,225 Copies ■ 4,434,465Views■
無料購読申込・取消: http://blog.jog-net.jp/

■1.ソ連の工作員が終戦を遅らせた

 昭和16(1941)年、ソ連の工作員がアメリカのルーズベルト政権と日本の近衛文麿内閣に潜り込んで、日米を戦争に引きずりこんだことは、弊誌で何度か取り上げた[a]。

 しかし、同じくソ連の工作員たちが、日米の講和を妨害した事はあまり知られていない。その結果、終戦が何ヶ月も遅れ、硫黄島や沖縄での激戦で日米双方での多数の軍民が犠牲になった事、さらに空襲や原爆投下、そしてソ連侵攻による満洲・北朝鮮での民間人暴行、将兵のシベリアへの拉致、北方領土侵略など、戦争末期の被害がもたらされた。

 このあたりを、江崎道朗氏の最新刊『日本は誰と戦ったのか』[1]がアメリカでの近年の歴史研究成果に基づいて明らかにしているので、本号ではその一部を紹介して、この好著への誘いとしたい。


■2.「ずっと黙っていた。口を開けば的外れなことを言った」

 話は終戦の6か月前、昭和20(1945)年2月4日から11日にかけて、クリミア半島南端、黒海に臨むヤルタで行われた米英ソの首脳会談、ヤルタ会談に遡(さかのぼ)る。

 当時、ルーズベルト大統領は心臓疾患による極度の高血圧で、ほとんど執務不可能の状態となっていた。ヤルタへの長旅と時差は、さらなる負担となっただろう。

 ヤルタ会談では英国外務次官アレクサンダー・カドガンは、ルーズヴェルトは「会議を主宰するよう呼ばれても掌握も先導もできず、ずっと黙っていた。口を開けば的外れなことを言った」と述べている。ルーズベルトはこの会談の2か月後、高血圧性脳出血で死去している。スターリンはこういう状態のルーズベルトを相手に、交渉したのである。


■3.「背中に鏡を置いたままポーカーの試合をする」

 さらにルーズベルトが連れて行った国務長官ステティニアスは外交に関しては全く素人で、しかも国務長官に就任してわずか二か月しか経っていなかった。

 元駐日大使で国務次官ジョゼフ・グルーや、モスクワでの代理大使を務めたジョージ・ケナンなどは連れて行かなかった。グルーは早期の対日講和を主張しており、ケナンは後にソ連封じ込め政策を立案する人物で、ソ連にとっては好ましい人物ではなかった。

 そのかわりにルーズベルトが指名したのは、無名の一官僚アルジャー・ヒスだった。ヒスは戦後、ソ連のためにスパイ行為を働いたとして、告発された人物である。スパイ行為については有罪にはならなかったが、ソ連のスパイとの関係があったのに嘘の証言をしたとして、偽証罪で禁固5年の有罪となっている。

 ステティニアスはヒスに頼りきりで、発言はほとんどヒスが主導した。しかもヒスはアメリカ側のすべての最高機密ファイルを見られる立場にいた。

 ソ連のスパイであった疑いの濃厚なヒスが、病人のルーズベルトと素人のステティニアスをリードしていた。ルーズベェルトは「背中に鏡を置いたままポーカーの試合をする」状況に置かれたようなものだと、戦後、ヤルタ会談の実態を知って怒った共和党のウィリアム・ノーランド上院議員は述べている。


■4.ヤルタ密約

 その「鏡を背にしたポーカー」の結果、ヤルタ密約が結ばれた。その原案はソ連側が作成した。ドイツ降伏から2,3か月後にソ連が対日参戦することと引き換えに、多くの領土と権益を与えるという内容だった。日本の領土に関する部分だけを列挙すると:

・千島列島のソ連への引き渡し(南千島(現在、北方領土と呼ばれる北方四島)は1855(安政元)年の日露和親通好条約で日本領土と確認された。明治8(1875)年の樺太・千島交換条約で、日露混住の樺太をロシア領とし、千島列島全体が日本領となった。)

・樺太の南部のソ連返還(樺太南部は、日露戦争の結果、日本に割譲された)

 当時、アメリカの国務省はソ連との交渉を念頭に、千島列島に関して次のようなレポートをまとめていた。

__________
 南部の諸島に対するソヴィエトの権利を正当化する要因は、ほとんどないように思われる。ソヴィエト連邦へのこのような譲渡は、将来の日本が永久の解決としては受入れ難い事態を造り出すことになろう。それは、歴史的にも民族的にも日本のものである島々と、漁業的価値のある海域を、日本から奪うことになる。
南部の諸島は、もし要塞化されるならば、日本に対して絶えず脅威となるであろう。[1, 2579]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 現在の日本が抱える北方領土問題を正確に予言している。このレポートはルーズベルトに宛てて提出されたが、ヤルタ会談のための準備資料には含まれていなかった。資料を統括をしていたヒスが外したと推測されている。

 そしてルーズベルトはスターリンとの交渉で「サハリンの南半分と千島列島が戦後、ソビエトに行くことについては何らの困難もないと思う」と発言したと記録されている。

 ヤルタ密約では、このほかに満鉄と旅順・大連の運営権をソ連に与える事がとり決められた。ヤルタ密約はルーズベルトとスターリンによって署名され、イギリスのチャーチルは同席せず、後に形式的に署名した。文書は一切公表されず、存在そのものが隠蔽された。

 アメリカでは外国との条約締結は上院の3分の2以上の賛成による承認が必要である。ヤルタ密約はルーズベルトの越権行為であり、戦後、アメリカ政府から条約としての効力を持つものではないと否定されている。


■5.日本の降伏を遅らせよ

 ヤルタ会談で満足な結果を挙げたスターリンにとっての最大のリスクは、ソ連参戦前に日本が降伏してしまうことであった。そうなれば何も得られない。ヤルタ会談の時点では、ソ連はドイツとの激戦を続けており、アジアで日本との戦いに入るためには、もう数ヶ月必要だった。

 なんとか日本の降伏を引き延ばしたいスターリンの援軍となったのが、ルーズベルトの無条件降伏要求だった。条件付き講和の道を閉ざされれば、敗色濃厚となっても日本は簡単には降伏できない。ルーズベルトはこの無条件降伏要求を、1943年1月の連合国首脳とのカサブランカ会談で打ち上げた。

 自国の国務省に相談することもなく、チャーチルの反対を押し切って、ルーズベルトはあたかも連合国首脳の総意であるかのように発表したのである。

 ルーズベルトがヤルタ会談に向けて出発する2日前、マッカーサーからの急報がルーズベルトに届いた。日本側が講和案を5つのルートで打診してきており、アメリカはこの提案を受け入れるべきだと進言するものだった。日本は天皇の安全以外何も求めておらず、これは最終的に日本が受諾した降伏条件と同じものであった。

 しかしルーズベルトは「マッカーサーは最も素晴らしい将軍だが、ダメな政治家だ」とこの進言を却下した。

 陸軍のマッカーサーだけでなく、ウィリアム・リーヒ、チェスター・ニッミツの2人の海軍元帥も、1945(昭和20)年2月のヤルタ会談の時点では戦争の勝負はついており、ソ連軍の参戦は不必要、かつ望ましくないと考えていた。

 これらの陸海軍トップの意見は無視され、逆に「アメリカ陸軍はソ連の対日参戦を必要としている」という全く逆の意見が、あたかも軍の総意であるかのように吹聴された。ジョージ・マーシャル参謀総長の仕業で、この人物は後に国共内戦においてアメリカの蒋介石側への支援を遅らせ、シナ大陸を共産党の手に渡した人物である。[b]


■6.終戦遅延工作による被害者65万人超

 ヤルタ会談以降の日米戦争による被害を挙げてみれば、スターリンの終戦遅延工作の影響の大きさを窺うことができる。主なものだけでも以下のようになる。数字は戦死・行方不明者数である。

2月19日〜 硫黄島の戦い 日本軍1万8千、米軍7千
3月10日〜 東京大空襲 以降、各地の空襲により、20〜30万
3月26日〜 沖縄戦、日本軍民約19万、米軍2万
8月6日  広島への原爆攻撃 9〜12万
8月9日  長崎への原爆攻撃 7万
8月9日〜 満洲、南樺太、千島列島へのソ連軍侵攻 日本軍2〜8万、民間人犠牲者多数
8月9日〜 シベリア抑留 6万以上

 少なめの推定数字だけで合計しても、約65万人規模となる。米軍も2万7千人の被害を蒙っている。スターリンの謀略工作によって、これだけの人命が失われたのである。

 人的被害だけではなく、東アジアにソ連と共産主義勢力が入り込んだことによって、シナ大陸や北朝鮮、北ベトナムが共産陣営に取り込まれてしまった。その後の朝鮮戦争、ベトナム戦争、現在の北朝鮮問題、尖閣問題、南シナ海問題など、現代世界で東アジアが最も危険な地域の一つになってしまったのは、ヤルタ密約に源を発するのである。


■7.手玉にとられた日本

 日本にとって、まことに迂闊(うかつ)だったのは、このソ連に和平仲介の依頼をしていることだ。事の次第はこうである。

 5月2日のベルリン陥落後、鈴木貫太郎内閣は連合国に対して和平を求めることを決め、仲介役としてソ連が選ばれた。交渉役としなった広田元首相は6月3、4日、箱根にてマリク駐日大使と極秘会談を持った。広田はこの会談は友好裡に行われ、ソ連側の受け方も良好で、交渉の前途は有望と東郷外相に報告した。

 ところが、その後、いつまで経ってもマリクからの音沙汰がない。昭和天皇からも「なるべく速かに戦争を終結するように取り運べ」とのお言葉があった。6月29日にマリクから日本側の意向について再確認があり、広田が説明したところ、「本国政府に取り次ぎ、回答があり次第、会談を進める」という返答だった。

 その後、いくら督促してもマリクは病気と称して出てこない。やむなく、日本政府は近衛文麿侯爵・元首相を特使としてモスクワに派遣することを打診したが、ソ連側はモトロフ外相が多忙との理由で、回答は遅延するだろうとの事だった。この時点では7月17日からのポツダム会談が迫っていたのである。

 結局、ソ連はヤルタ会談で対日参戦を約束し、日本からの和平仲介の依頼をあしらって対日作戦準備の時間を稼ぎ、終戦の6日前に日ソ中立条約を破って、対日侵攻を始めたのである。まさにスターリンは見事に日本を手玉にとったのである。


■8.「日本は誰と戦っているのか」

 江崎氏は次のように結論づける。

__________
 国際政治の世界では、騙された方が悪いのです。そして先の大戦で日本はインテリジェンスの戦いで「敗北」したのです。[1, 3390]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 過去に欺された事への恨みつらみを語っても、仕方が無い。それよりも大事なことは二度と欺されないことである。そのためには、前回、どのように欺されたのかをよく調べて、日本に何が欠けていたかを分析することだろう。

 わが国の弱点は、あまりにも相手の分析が足りないことである。ソ連に和平の仲介を依頼するなどは、その典型である。

 またアメリカの国情をよく分析すれば、ルーズベルトやソ連の工作員たちのように、無条件降伏をテコに日本の降伏を遅らせようという一派ばかりではなく、グルーや陸海軍の上層部のように、妥当な条件で日本との早期講和を図ろうとする一派もいたことが、分かったはずだ。

 たとえば、日本を対米開戦に追いこんだのは、最後通牒ともいうべきハル・ノートであった。そしてこのハル・ノートは米国内でも秘密にされていた。日本軍の真珠湾攻撃後、米国共和党リーダーのハミルトン・フィッシュは対日開戦に賛成する演説をしたのだが、戦後、ハル・ノートを知って、こう語っている。

__________
 今日私は、ルーズベルトが日本に対し、恥ずべき戦争最後通牒を送り、日本の指導者に開戦を強要したということを知っており、この演説を恥ずかしく思う。[c]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 したがって日本政府がハル・ノートを世界に公開していれば、間違いなくルーズベルトは共和党や国民の批判にあって、日本を追い詰める姿勢を続けられなかったであろう。

 敵の分析が弱いということは、現代日本についても言える。慰安婦問題で世界に反日世論を巻き起こそうとしてるのは、一体どこの国が、どのような狙いでやってる事なのか。沖縄の米軍基地反対は誰の差し金か。朝鮮危機の最中、一部野党が「もりかけ」問題で国会を空転させ、内閣の足を引っ張っているのは、何のためにやっているのか。

 我々は本当の敵を見極めなければならない。『日本は誰と戦ったのか』とは、江崎氏の著書の卓抜なタイトルであるが、今我々は問わなければならない。「日本は誰と戦っているのか」と。

■リンク■

a. テーマ「大東亜戦争:開戦への罠」のブログ記事
http://blog.jog-net.jp/theme/b532556537.html

b. JOG(441) 中国をスターリンに献上した男
 なぜ米国は、やすやすと中国を共産党の手に渡 してしまったのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h18/jog441.ht

c. JOG(096) ルーズベルトの愚行
 対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_2/jog096.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 江崎道朗『日本は誰と戦ったのか』(Kindle版)★★★、ベストセラーズ、H29
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/458413829X/japanontheg01-22/

現代史は日本人が学ぶべき最重要科目
2017/12/08
太平洋戦争「開戦の日」に考えてほしいこと 現代史は日本人が学ぶべき最重要科目である
東洋経済オンライン 丹羽 宇一郎6

© 東洋経済オンライン 米国及英国ニ対スル宣戦ノ件・御署名原本・昭和十六年・詔書十二月八日(写真:国立公文書館)

 「物事には始めがあって終わりがある。日本人にとって12月8日(開戦の日)は8月15日(終戦の日)と並ぶ大事な日であるはず」と語る元伊藤忠商事社長、元中国大使の丹羽宇一郎氏に、日本が二度と戦争をしないために、日本人が学ぶべき現代史について語ってもらった。
終わりだけを知って始まりを知らない日本人
 今日12月8日は、1941年(昭和16年)に日本がアメリカとイギリスに宣戦を布告した「開戦の日」、いわゆる太平洋戦争の開戦日である。当時、2歳だった私にはこの日の記憶はない。
 同日、発表された開戦の詔書では、宣戦布告の相手はアメリカ、イギリスの2カ国であった。一方、終戦の8月15日に玉音放送で流れた終戦の詔書ではアメリカ、イギリス、中華民国、ソ連の4カ国が当事国である。中国とは1937年(昭和12年)の支那事変からすでに戦争状態にあり、ソ連は1945年(昭和20年)8月8日に日本に宣戦布告しているので、開戦の詔書と終戦の詔書では当事国の数が異なるのだ。
 終戦記念日である8月15日は、毎年、日本中でさまざまな式典があるため、ほとんどの日本人が知っている。それに対して、開戦の日である12月8日は、アメリカでは12月7日「Remember Pearl Harbor」で、私がアメリカ駐在のころ、日本人はおとなしく早帰りしていたが、日本では特に大きなイベントもなく、メディアもあまり取り上げることがないので、単なる師走の1日にすぎない扱われ方となっている。しかし、物事には始めがあって終わりがある。日本人にとって12月8日は8月15日と並ぶ大事な日であるはずだ。
 私が今年の8月に出した『戦争の大問題』の中でも紹介しているが、開戦時の日本の指導者たちは、勝ち目のないことを承知で出口なき戦いへ突入していった。『昭和16年夏の敗戦』(猪瀬直樹著、中公文庫)という本がある。昭和16年の8月、陸海軍および各省、それに民間から選ばれた30代の若手エリートたちが日本の兵力、経済力、国際関係など、あらゆる観点から日米戦を分析した。
 研究会の報告は、「開戦初期には勝利が見込めるものの、長期戦になることは必至であり、日本の国力では、資源不足と生産力不足によって戦力の低下は避けられない。戦局が決定的に悪化すれば、最終局面で必ずソ連は参戦し日本は敗れる」という、ほぼ実際の日米戦をトレースする精度の高いものだった。日本必敗である。
 しかし、この報告を聞いた東條英機陸相は、「これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君達が考えているようなものではない」と論評、戦争はやってみなければ勝利はどっちに転ぶかわからない、と研究会の報告を握りつぶした。その一方で、東条陸相は「この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬ」と口止めすることは忘れなかった。
 このシミュレーションの持つ意味の大きさは、十分に理解していたことがうかがわれる。すなわち、口が裂けても言えないが内心では日本が負けることはわかっていたのだ。過去の指導者の判断を論評するのは、歴史の結果を見てからなら誰でも言えるなどという批判は当たらない。それ以前の問題だ。

自己の面目ばかりを考える軍エリートと熱狂する国民
 実際に戦争を遂行する軍部でも、国民を戦争へ駆り立てる一方で、次のような動きがあった。軍事ジャーナリストの田岡俊次氏によれば、開戦間近となった1941(昭和16)年10月、陸軍軍務局長から、内閣書記官長を通じて海軍の軍務局長に対し「海軍から日米戦を欲しないと表明してくれないか」という申し出があったという。しかし、海軍幹部は「海軍はずっとアメリカを仮想敵国として予算をいただいてきた。いまさらアメリカと戦わないとは言えません」と答えたという。
 中国で戦争している陸軍にとって、アメリカまで相手にすれば、ますます戦況が不利になることは明白、とはいえいまさら非戦とは陸軍から言い出しにくいので海軍に頼んだ。だが、海軍は海軍で日露戦争以後アメリカを仮想敵国として予算を獲得してきた経緯がある。
 このようなご都合主義の結果、300万人を大きく超える犠牲者を出すことになる戦争へと突入していったのである。
 では一般の国民は、アメリカとの戦争に対してどのように考えていたのだろうか。緒戦で勝ったこともあり、日本人の多くは熱狂した。著名な作家たちが残した当時の日記などにもその気配が表れている。
 中国文学者の竹内好は「支那事変に何か気まずい、うしろめたい気持ちがあったのも、今度は払拭された」と記した。アメリカとの戦争は、白人の第一級者に挑戦する戦いであるからわだかまりがない戦争という心境をつづっている。作家・文芸評論家の伊藤整は、「12月8日宣戦の大詔が下った日、日本国民の決意は一つに燃えた。爽やかな気持ちであった」と『太平洋戦争日記』の中で述べている。詩人高村光太郎の感想も、「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた」と随筆「十二月八日の記」にある。
 彼らの文章からは、戦争が手段ではなく、何か崇高な目的のようになっていることがうかがわれる。これがおそらく当時の日本社会を覆っていた空気であろう。
 こうした空気の中、わずかに戦争に疑問を呈する発言もあった。経済ジャーナリストの石橋湛山は「可憐なる我が一般国民は、軍艦さえあれば、兵隊さえ備わらば、戦争は出来るものと思っている。彼らは、その軍艦を動かす石油がどこから来るか、また戦争が長引く時、その軍艦兵器を補充する工業力が、わが国に幾ばくあるかを知らないのである」と、日本とアメリカの国力の違いを示し、暗に戦争の無謀さを批判した。
 また、作家の菊池寛は日米開戦の4年前、1937年9月(支那事変の後)に「話の屑籠」に「いかに日本の武力をもってしても、あの大国と4億の民衆とを徹底的に屈服させることは不可能であろう。生殺しに叩きつけても10〜20年経つと国力を回復して向かってくるだろう。その度に叩きつけなければならないとすると、日本にとって負担となるであろう」と、出口なき日本の軍事行動に疑問を投げかけている。
 外交ジャーナリストであった清沢洌は、開戦の直後に「なぜに高い理想のために戦うことができないのか。世界民族に訴えてその理性をとらうる如き」〈『暗黒日記』(岩波文庫)〉と国民全体が熱狂の渦中にある中、ひとり領土、権益のために開戦に踏み切った日本を嘆いていた。
 しかし、このような冷静な議論はごく一部であって、日本人は大きな熱狂の渦に巻き込まれていく。国民の熱狂は1941年12月8日にピークとなり、その後、惨憺(さんたん)たる思いをしながら1945年8月15日を迎える。

歴史は自国中心の文脈でつくられる
 歴史(History)とは勝者の物語(Story)である。歴史はただ事実を時系列に並べただけのものととらえるのは、あまりにもナイーブだ。同じ出来事でも国によって解釈が異なる。その解釈が「歴史」なのである。事実を勝者にとって都合よく意味づけ、勝者を正当化したものが歴史だ。
 歴史が勝者の物語である以上、敗者である日本には語るべき現代史がない。日本の現代史は敗者の物語だからだ。
 中国の現代史とは、中国共産党の勝利の物語である。共産党が、いかに正しかったかを書いているのが中国の現代史だ。勝者を正当化するためのものが歴史である以上、戦前の日本を徹底的に否定するのは、中国共産党を正当化するうえで欠くことができない。中国の現代史では、日本軍は侵略者であり、敗者だ。
 日本を一方的に悪とするこの中国の「歴史」を、日本人としては素直に受け入れがたい。しかし、中国史学者の岡田英弘氏(東京外国語大学名誉教授)は著書『歴史とは何か』(文春新書)の中で、いかなる歴史も主観によってつくられたものであると述べている。
 主観は個人によって異なる。まして違う国となれば、お互いの主観でつくられた国の歴史が一致することはありえない。歴史とはそういうものだ。
 歴史は自国中心の文脈でつくられる。したがって、中国の歴史認識に日本人の多くが反感を覚えるのは、同じ日本人として無理からぬことかとも思う。しかし、中国が中国中心の文脈で歴史を形作るのと同様、日本も、また自国中心の文脈で歴史を見ていることに気づくべきである。
 しかし、歴史とは未来永劫にわたって固定されるものではない。過去の事実は固定化されても、歴史認識は時代によって変わりうるものだ。
 歴史学者の村井章介氏(東京大学名誉教授・立正大学教授)は『中世日本の内と外』(ちくま学芸文庫)で、固有の領土という意識は近代になってようやく生まれたものであり、それ以前にはなかった。歴史を1本の線としてとらえれば、「歴史認識」とは期間限定の「常識」であり、未来にはまた新しい概念でとらえられると述べている。
 いまわれわれの知っている歴史は、未来の人々にとっては、また別の意味でとらえられる可能性は大いにある。

アメリカ人女性の勇気ある一冊
 アメリカは勝者の物語を持つ代表的な国である。だが、そのアメリカでも自国中心の歴史認識の誤謬(ごびゅう)を訴える学者がいた。ヘレン・ミアーズは終戦直後にGHQの一員として日本へやって来た日本研究者である。彼女は帰国後に『Mirror for Americans:JAPAN』(邦題『アメリカの鏡・日本』(角川ソフィア文庫))という本を著す。
 ミアーズは戦時中にアメリカ人が抱いた日本人観と、自分の目で見て調べた日本人の実像との違いを指摘し、アメリカ政府の行きすぎたプロパガンダ政策に警鐘を鳴らした。戦前から戦時中に、アメリカ人が思い込んでいた日本人像とは、ファナティックで好戦的、世界征服の野望を持った危険な国民というものだったが、ミアーズは、日本人は欧米人に比べても戦いを好まない、文化的な国民であることをこの本でつぶさに述べている。
 ミアーズは、戦前の日本がやった中国をはじめとする対アジア諸国政策は、間違ってはいるが、欧米列強のやってきたことを倣ったにすぎない。また、日本人が天皇を崇拝するのは、アメリカ人が星条旗に忠誠を誓うのと何ら変わらないと主張する。
 ミアーズの本はマッカーサーによって日本で翻訳出版することを禁じられ、母国でも学者として評価されないまま終わった。それでもミアーズは、われわれにいくつかの貴重な示唆を与えてくれている。
 1つは、自己中心の物語を持つ国アメリカでも、国の行きすぎたプロパガンダ政策を冷静に批評する学者はいたということ。もう1つは、実際の日本人が当時のアメリカ人が考えたようなファナティックで、好戦的で、危険な人間ではなかったように、今日、われわれがファナティックで危険な国民と思い込んでいる北朝鮮のような国の人々も、実際には文化的で平和的な人々であるかもしれないのだ。

勇気をもって敗者の現代史を学べ
 われわれ日本人には勝者の現代史はない。あるのは敗者の物語だ。だが、勝者の歴史は勝者を正当化するため、過去の出来事を脚色し、勝者の正当化を図る。一方、敗者の歴史は過去の事実を粉飾する必要はなく、歪曲することも求められない。
 勝者の歴史は、過去から現代までで終わるが、敗者の歴史は過去の事実から学んだことを未来のために生かす。敗者である日本の現代史は、未来志向の歴史なのである。
 日本の現代史は敗者の物語であるが、日本人はあえて敗者の現代史を、勇気を持って学ぶべきである。そして、学ぶべき眼目で最大のものが、戦争をしない、戦争に近づかないための知恵である。
 戦争は国民を犠牲にする。戦争で得する人はいない。結局みんなが損をする。特に弱い立場の人ほど犠牲になる。日本は二度と戦争をしてはいけない。これは敗者の歴史からしか学べないことだ。だから日本人は現代史を学ぶべきなのである。
 戦争を実際に知っている人がいなくなっている今日、日本人は文献や記録からだけでも戦争を知らなくてはいけない。現代史は日本人が学ぶべき最重要科目である。
 私は「あの戦争は正しかった」という発言があってもよいと考えている。問題は正しかったか、間違っていたかではないからだ。
 アメリカは広島、長崎への原爆投下を正しかったとしている。しかし、原爆投下の判断がどんなに正しかろうとも、原爆がもたらした惨状を肯定できるはずがない。正しかろうと、正しくなかろうと、人々を不幸のどん底に突き落とす戦争をしてはいけない。戦争が引き起こす悲惨さを、戦争なのだから仕方がないで済ませるようであれば、世界は日本国民を歴史から学ぶことを忘れた愚か者と言うだろう。
 戦争に近づいてはいけない。これを日本のみならず、世界各国の共通の歴史認識としていくことが、日本国民の叫びであり、われわれが現代史を学ぶ意味とすべきだ。これが開戦の日である今日12月8日に私が言いたいことである。

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