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自衛隊の使命 メディアの使命
2013/12/08
Japan On the Globe(82) ■国際派日本人養成講座 ■H25.12.08より転載

Media Watch: 自衛隊の使命、メディアの使命
    〜 ベストセラー小説『空飛ぶ広報室』から

 国民に安心安全を届けている自衛隊を、メディアはいかに伝えているのか。

■1.「だって戦闘機って人殺しのための機械でしょう?」

「何かお勧めの題材はありませんか。できれば画になるような」と帝都テレビのディレクター・稲葉リカが聞いた。所は東京・市ヶ谷の航空自衛隊の広報室である。

「じゃあ、いっそのこと戦闘機パイロットはいかがですか?」と、広報室に新人として配属された空井大祐(そらい・だいすけ)二尉が提案した。空井は小さい頃から憧れていたアクロバット飛行チーム・ブルーインパルスへの配属が内示された矢先に交通事故に巻き込まれて、その道を断念して、広報室に配属されたのだった。

 稲葉リカは険しい顔つきで、「興味ありません。だって戦闘機って人殺しのための機械でしょう? そんな願望がある人のドラマなんか、なんでわたしが」

 それを聞いた途端、空井の脳細胞が沸騰した。「人を殺したい、なんて、思ったこと、一度もありませんッ! 俺たちが人を殺したくて戦闘機に乗っているとでも」

 大きな声に、先輩が飛んできて「アホッ! お客様に何て口の利き方だ!」と、脳天にガツンとげんこつを落とされ、襟首を掴まれて、部屋から引きずり出された。

 後で、空井は広報室長から、こう諭された。「自衛官やってりゃ、なんでこんなこと言われなきゃならないんだと思うことはいくらでもある。だが、そんなことを言われるのは広報の努力が足りてないせいだ。」

 多くのマスコミが垂れ流す反自衛隊報道の偏見・偏向と戦い続けることが、自衛隊広報マンたちの孤独な任務だった。


■2.「津波が来る前に何機かでも飛ばすことはできなかったんでしょうか」

 この後、空井とリカは二人で力を合わせて、ある企画を成功させ、その過程で二人は心を通わせ合い、リカの左巻きも徐々に治っていく、というのが、テレビ化もされたベストセラー小説『空飛ぶ広報室』[1]の本筋なのだが、それは本を読んでのお楽しみとして、ここでは心に残るエピローグのみ紹介しよう。

 空井はその後、宮城県の航空自衛隊松島基地の広報担当に異動になり、そこで東日本大震災に出くわす。そして震災の10ヶ月後、リカが取材で松島基地を訪れ、二人は再会する、という設定だ。

 松島基地にも、人の背丈ほどの津波が押し寄せ、駐機場にあった戦闘機や救難ジェットがぷかぷか流されて、格納庫に突っ込んでしまった。

「津波が来る前に何機かでも飛ばすことはできなかったんでしょうか」とリカは聞いた。この質問自体がリカの変貌ぶりをよく表している。左巻きの頃だったら、「人殺しのための機械が使えなくなったって問題ないでしょ」などと言ったかも知れない。

 この質問には、空井の上司の広報班長が答えてくれた。余震が続き、しかもあれだけの大地震のあとは滑走路を総点検する必要があった。30分後と予想されていた津波には到底、間に合わない。

__________
 当時の基地司令が人命優先を即断して避難指示を出したからこそ、松島基地は勤務中の隊員に一人の犠牲者も出さずに済んだのです。その後、無事だった隊員を全投入して災害救助活動に乗り出しました。
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■3.「自分たちは自衛官に被災者の資格を認めていないのだ」

 その説明に、ふとよぎった違和感が、そのままリカの口を衝いて出た。「松島基地も被災しているのに、ですか」

 その質問に広報班長の口元が揺るんだ。「そこに気づいてくださる方は稀です」

 リカは思った。

__________
 松島基地の自衛官たちが被災者として扱われていた報道など今まであっただろうか。少なくとも帝都テレビのニュースでは見かけたことがない。F−2が流された、救援ジェットが流された、甚大な損害が出たとそちらばかりを宣伝していた。

 基地が完全に水没するような被害を受けてさえ、自分たちは自衛官である彼らに被災者の資格を認めていないのだ。
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「でも、、、隊員にもこちらに家族のある方がいるでしょう。心配じゃないんですか」

「もちろん心配です」と頷く広報班長に、リカは愚問だったと頬が火照(ほて)る。

__________
 ですが、自衛官はみんな妻や子に言い聞かせていると思いますよ。もし何かあっても俺は家にいないから何とかやってくれ、とね。それが自衛官と所帯を持つということです。

 だから、災害が起きたら真っ先に家族に連絡をとります。お互い無事だと分かったら憂いなく出動できますから。
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「もし、、、ご家族が無事じゃなかったら」

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 死亡や危篤なら隊の配慮があるでしょう。しかし、家族の死に目に立ち会えないことも、家族に看取ってもらえないことも誰もが覚悟はしています。そうでなければ、海外派遣などに志願することはできません。
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 税金で訓練するのだから当然だ、と言う者もいるだろう。しかし、いくら給料をもらっているとは言え、そこまで見知らぬ他人に尽くせるものだろうか。


■4.瓦礫の撤去や泥掻きが、なぜ「思いきった活動」なのか

 広報班長は、隊員の救助活動の写真を数枚、見せてくれた。市街地や田畑での瓦礫の撤去や泥掻きの様子が映っている。「これもかなり思いきった活動の一つで、、、」

 瓦礫の撤去や泥掻きが、なぜ「思いきった活動」なのか、リカには理解できなかった。

__________
 よく見て下さい。隊員が民家の敷地内に立ち入っているでしょう。田んぼや畑にも。自衛官は救助活動以外で私有地に立ち入ることを許可されていないんです。
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「そんな、、、じゃあどうやって街の復興を」

 起死回生の策を打ったのは、当時の基地司令だった。「基地から危険物や機密保持に関わる物品が近隣に流れ出している恐れがある」という名目で、私有地に入り込んでの救援活動を命じた。基地司令は、それが問題になっても自分一人で責任をとればいい、と決断したのだろう。

「そんな無理矢理な理屈付けをしないと田畑の泥掻きもできないなんて」と、リカは目眩(めまい)のような絶望を覚えた。

 報道関係者には、「報道の仕方で問題になったら、この活動は打ち切らざるを得ない」と説明した。その結果、マスコミ各社のほとんどが「流出物の捜索」という名目を添えた報道をしてくれたので、問題にはならなかった。リカは、ほっと胸をなで下ろした。報道の良心が少しでも信じられる結果であってくれたことに感謝した。

__________
 隊員たちはよく頑張ってくれたと思います。辛い光景もたくさん見たと思います。だけどあいつら、基地に戻って休んでも、すぐにまた出て行こうとするんですよ。
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 広報班長が俯(うつむ)いて、目頭を抑えた。「空井、後を頼む」と、ようやくそれだけ言って、部屋を出て行った。


■5.「あなたたちって人は」

「女性隊員にも会ってみますか?」との空井の言葉に、「ぜひ」とリカは答えた。

 空井の職場に居合わせたのは、リカと同年代の女性だった。「当日はどのような状態でしたか」と尋ねたリカに「揺れが収まってから真っ先に保育所に連絡を入れました」

「お子さんがいらっしゃるんですか。ご心配だったでしょうね。」

「幸いすぐに連絡が取れましたから。おかげさまで怪我一つなく、、、その日は保育所で預かってくれることになったので、子供を引き取りに行ったのは翌日です」

 保育所から引き取った後は、近所の実家に子供を預け、そのまま隊務に復帰したという。「何かあったとき、家にいないのが自衛官だ」という広報班長の言葉をリカは思い出した。それは子供を持つ女性自衛官にとっても例外ではないのだ。

「何か特に困ったことは」とのリカの質問に、「おむつが心配だった」と言う。「支援物資にはおむつは入ってなかったんですか?」と聞くと、

__________
 支援物資は被災者に届けるものですから。基本的に自衛官は受け取らないようにしてました。おむつは分けてもらわなきゃいけなくなるかもと思ったけど、差し入れが間に合ったし。
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「あなたたちだって被災者なのに」との言葉が喉までこみ上げたが、自衛隊員を被災者扱いしてこなかったマスコミの人間が言えるセリフではなかった。

「差し入れ」とは、全国の基地で隊員が自発的にカンパ物資を提供したものだった。自衛官が支援物資を受け取らないと分かっているからこそ、自然発生的にカンパが始まったのだろう。

 ただ、そのカンパ物資に中のお菓子は、地元の小学校を慰問してプレゼントしたという。

「あなたたちって人は」と言いかけたリカは、涙がこみ上げて慌ててそっぽを向いた。胸にこみ上げる思いが波打つ。

 あなたたちは一体、どこまで私たちに差し出したら気が済むんだろう、、、


■6.「自衛官をヒーローにしてほしくないな、と思います」

 夕方まで取材を続け、駅までは空井が車で送ってくれた。車の中で、リカは聞いた。「わたしがどんな特集を作ったら嬉しいですか?」

「そうですね、、、」 空井はしばらく考え込んでから言った。「自衛官をヒーローにしてほしくないな、と思います」

__________
 ときどき、自衛官は被災地でとても苦労してますって伝え方をされちゃうことがあるんです。家にもろくに帰れず、冷たい缶メシをかじりながら被災者のために頑張っています、って。
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「それ、何か問題があるんでしょうか?」 自衛官の献身を知らずに無責任に批判する声の多さを思えば、多少は自衛官びいきの報道をしたほうがバランスが取れるくらいだ。

__________
 もちろん、そのお気持ちはありがたいんです。でも、それは報道の皆さんが分かってくれてたら十分なんです。分かってくれてたら自然と報道が公正になるでしょう?
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■7.自衛官の使命、ジャーナリストの使命

「もう少し望んでもいいんじゃないですか」と聞くリカに、

__________
 もちろん望みはあります。僕たちに肩入れしれくれる代わりに、僕たちの活動が国民の安心になるように伝えてほしいんです。

 自衛官の冷たい缶メシを強調されて、国民は安心できますか? 被災者のごはんも同じように冷たいのかって心配しちゃうでしょう?自衛官の缶メシが冷たいのは、被災者の食事を温めるために燃料を節約しているからです。

 僕等が冷たい缶メシを食べていることをクローズアップするんじゃなくて、自衛隊がいたら被災者は暖かいごはんが食べられるということをクローズアップしてほしいんです。自衛隊は被災地に温かい食事を届ける能力があるって伝えてほしいんです。それはマスコミの皆さんにしかできないことです。
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 ヒーロー扱いされることは、自衛官たちの自尊心を満たすだろう。しかし、それは自己満足でしかない。

 自衛官の任務は、国民に安心安全を届けることだという、自らの自尊心までも捨て去った、無私の使命感がそこにあった。

 そして、それをマスコミにも手助けして欲しいという。気がつくと、リカの頬に涙が伝わっていた。

「ああ、ごめんなさい。責めているわけじゃないんです」と、慌てる空井に、「責められたなんて思っていません。ただ、、、」

 この言葉があれば、きっと一生大丈夫だ。ジャーナリストとして、迷っても、悩んでも、この言葉に立ち戻れば、正しい道が見える。

「ありがとうございます。一生の指針をいただきました。」

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(739) 気は優しくて力持ち 〜 自衛隊の人づくり
 自衛隊員たちは、被災地の過酷な環境の中で、なぜこんなに優しくできるのか。
http://blog.jog-net.jp/201203/article_2.html

b. JOG(699) 国柄は非常の時に現れる(上)〜 それぞれの「奉公」 自衛隊員、消防隊員は言うに及ばず、スーパーのおばさんから宅配便のおにいさんまで、それぞれの場で立派な「奉公」をしている。
http://blog.jog-net.jp/201105/article_4.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 有川浩『空飛ぶ広報室』★★★、幻冬舎、H24
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4344022173/japanontheg01-22/

封印された外務省の失敗
2013/11/18
Japan On the Globe(824) ■国際派日本人養成講座■H25.11.17より転載
Common Sense :日米開戦を防げず、逆に真珠湾「騙し討ち」の口実を与えた外務省の失敗。

■1.米国での慰安婦像設立に明確に反対しなかった外務省

 ロサンゼルスの北にある人口19万人のグレンデール市に、韓国系市民、議員らが中心となって、慰安婦像を設立した。韓国は同様の慰安婦像の設立を全米20カ所以上で進めようとしている。

 韓国側の国際「反日」広報活動に対して、本来なら外務省こそ先頭に立って、戦わなければならないはずだ。しかし一向にその姿が見えない、と思っていたら、事の真相を伝える記事が現れた。[1]

 市議会が開いた公聴会では、反対する100名以上の日系市民も集まる中で、慰安婦像設置の先頭に立つフランク・キンテロ議員(ヴェネズエラ系米人)が次のような発言をした。彼は韓国に2回も招かれて、日本大使館前の慰安婦像を訪問したり、元慰安婦に会ったりしている。

__________
 第一は、ロスの日本領事館にこの件について問い合わせたが、領事館からはまったく抗議の言葉はなかった。第二には、日本とメキシコにある姉妹都市にはすべて通知してあり、彼らの同意を得ている。[1]
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 ある日本人有志がロスの総領事に事情を問い合わせた。総領事はこの問題で市長に会いに行ったようであるが、何を話したのか、何も語らなかった。逆に「穏便に、韓国側の感情を逆撫でしないように」と注意されたという。これから察するに、「抗議の言葉はなかった」というキンテロ議員の発言は全くの嘘ではなかった。

 また、グレンデール市の姉妹都市・東大阪市はこの事業に反対する意思を外務省を通じて表明したが、その反対表明は外務省か総領事館で留め置かれ、グレンデール市には伝えられなかった。キンテロ議員は、東大阪市に通知をしたのに、反対の意思表示を受けていないので、「彼らの同意を得ている」と強弁できたのである。


■2.外務省の不作為

 像の設立後、グレンデール市のウィーバー市長はインタビューで「1千通を超す(抗議)メールを受けた」とし、「グレンデールが日本人の最も憎む都市になったことは残念だ」とも述べた。[2]

 実は、この市長は5人の市議会議員の中で、唯一、反対票を投じていた。もし、総領事館が事前に「こんな像を建てたら、グレンデール市は日本人の反発で受けるだろう」と明確に「抗議」し、また東大阪市の反対意見を伝えていれば、キンテロ議員の発言は防げた。市長はそれをテコにあと二人の市議を説得して、否決に持ち込めたかも知れない。

 相手の実情を探り、相手の中にも味方を見つけて、後押しするのは、外交の定石の一つだ。それがまったく成されていない日本外交には、二つの問題がある。

 一つは、韓国系団体が全米各地で慰安婦像を建てて、反日広報を展開しようとしている意思を認識しておかなければならない。その狙いが分かっていれば、いくらこちらが「穏便に」図っても、相手は「穏便に」は対応してくれない、と分かったはずである。

 もう一つはそもそも外交とは「穏便に」だけの事なかれ主義では済まない。主張すべき時に主張しないと、後で事が余計にややこしくなる。今回もグレンデール市に対して、強硬な反対を表明していれば、騒ぎは未然に防ぐ事ができ、さらに同様の慰安婦像建設を全米に広げようという韓国の策謀の芽を事前に摘めた可能性がある。

 外務省が、やるべき事をやらずに国益を害しているのは、まさに不作為の罪である。しかし、実は外務省は同様のパターンで、もっと巨大な歴史的不作為をしている。日米開戦時の外交である。


■3.ルーズベルト政権のペテンを暴露できなかった日本外交

 日米戦争が決定的になったのは、1941年11月26日にハル国務長官が日本側に全面的な中国撤退を求める『ハル・ノート』を提示した時である。これで日本政府はルーズベルト政府には和平意思がない事をようやく理解し、12月8日の真珠湾攻撃を決断する。

 しかし、このハル・ノートは実は米国内でも知らされていなかった。戦後、ハル・ノートの存在を知った当時の共和党下院リーダー・ハミルトン・フィッシュは後に自らの著書で、こう記している。

__________
 1941年11月26日、ルーズベルト大統領は、日本に対し最後通牒を送り、その中で日本軍のインドシナおよび中国(満洲)からの全面撤退を要求した。この最後通牒により、日本を開戦に追込んだ責任がルーズベルトにあると言うのは、歴史的事実である。[3,p33]
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 ルーズベルト大統領は、ハル・ノートを議会や国民には知らせず、日本に真珠湾攻撃に追い込み、それを「騙し討ち」として議会演説して、対日戦争に持ち込んだのである。

 そもそもルーズベルトはその一年前の大統領選挙で、次のように米国の不参戦を公約として当選していた。

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 私は、母であり、あるいは父であるあなたがたに話すにあたって、いま一つの保証を与える。私は以前にもこれを述べたことがあるが、今後何度でも繰り返し言うつもりである。「あなたがたの子供たちは、海外のいかなる戦争に送り込まれることもない」[3,p82]
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 この選挙公約がなされたのは、当時の世論調査でも米国民の97%が欧州での戦争参戦に反対していたからである。それを公約としてルーズベルトは大統領に当選していた。

 したがって、その公約の裏で日本にこのような「最後通牒」を送っていたことが暴露されたら、共和党が猛反発し、米国民もルーズベルトに騙されていたと激怒したであろう。

 実際に12月4日、ルーズベルトが密かに作っていた「戦争計画」が暴露され、ルーズベルトは大変な窮地に陥っていた。同時期にハル・ノートを公表していれば、ルーズベルトは、日米和解に動かざるをえなかったであろう。

 この程度の事は米国の新聞を読んでいれば、素人でも考える事だ。それがプロの外交官がしなかったというのであれば、まさに不作為の罪としか言い様がない。


■4.日露戦争での鮮やかな広報外交

 大東亜戦争開戦時の外務省の不作為ぶりに比べて、日露戦争時の日本外交は同じ国とは思えないほどの鮮やかな対照をなしている。

 日本政府から米国での世論工作に派遣された金子堅太郎は、セオドア・ルーズベルト大統領(日米開戦時の上記フランクリン・ルーズベルト大統領は従弟)とハーバード大学で同窓だったという縁を生かして米政府に日本の大義を説き、全米各地で英語による講演を行って日本支持の世論を喚起した。

 たとえば、金子はロシアのマカロフ海軍大将が日本海軍の敷設した機雷によって亡くなった時、その戦死を悼む発言をした。それは当時の米国民の抱いていた騎士道精神、キリスト教精神を強く刺激した。

 ロシア側の広報官ウフトムスキー公爵は「キリスト教徒 対 異教徒」という構図で、欧米での支持を求めたが、たとえば、ロシア寄りのスタンスをとっていた数少ない雑誌の一つ『ハーパーズ・ウィークリー』誌には、次のような読者からの投書が寄せられていた。

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 試しに、貴誌の読者諸賢にウフトムスキー公爵の論評と、ほぼ2、3日おきに新聞で報道される金子男爵の演説を比べてみてもらいたい。金子男爵の慎み深さと真にキリスト教的な奥床しさと、ウフトムスキー公爵の尊大な発言とを。結局、少なくとも論理的思考力、判断、演説という点において、ロシアは文明のレベルで決定的に日本に劣っている、と認めることになるだろう。[4,p164]
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 こうして米国の世論を日本びいきにしたことで、日本国債による戦費調達も可能となり、またルーズベルト大統領が頃合いを見計らって調停に乗り出した。金子の広報外交がなければ、日露戦争の勝利はおぼつかなかった。


■5.最後通告の手交遅れという大失態

 日米開戦時の外務省は、不作為というだけでなく、取り返しのつかない失態をしている。最後通告の手交を、真珠湾攻撃の30分前に行う予定だったのが、準備の不手際で1時間20分も遅れ、そのために「騙し討ち」との言い分をアメリカ側に与えてしまったのである。

 その遅れた理由が、当時の外務省の体質をよく表している。本省からは重要な文書を送るので、現地のタイピストを使わないように指示があった。この時、大使館の日本人でタイプを打てるのは奥村勝蔵という一等書記官一人しかおらず、それも一本指でポツポツと打てるだけ。しかも奥村書記官は大使館の送別会に出席し、その後もポーカーに興じていて、翻訳・タイプの着手が遅れた。

 本省側から指示された時間を、1時間20分も遅れて野村大使と来栖大使はハル国務長官に最後通告の文書を渡した。ハルは文書の内容は暗号解読によってすでに知っていたのだが、初めて読んだという演技をして、「騙し討ち」だと怒りを顕わにした。

 この致命的な失態には、外交官としての能力や判断力がいかに欠けていたか、が如実に表れている。

 そもそも当時の大使館で、タイプの打てる日本人が一人しかいなかった、という事からして驚くべきことだ。外交官として国費で留学や語学研修をしているのに、タイプもできないというのは、どうした事か。

 判断能力の面でも、そもそも日米が開戦するかどうかの瀬戸際で、本省から事前に「予メ万端ノ手配ヲ了シ置カレ度シ」との事前の指示があったにも関わらず、館務の責任者・井口貞夫参事官は緊急体制をとらず、主要な大使館員が送別会に出ていた。

 その後の対処についても、なっていない。ハルが回想録にこう書いている。野村は指定時刻の重要性を知っていたのだから、たとえ通告の最初の数行しかできていなかったとしても、あとはでき次第持ってくるように大使館員に指示して野村は一時きっかりに会いに来るべきだった、と。

 いずれにせよ、この程度の初歩的な失態で、日本は真珠湾の「騙し討ち」という歴史的な汚名を着せられたのである。


■6.「私はなぜ自殺しなければならないのか」

 野村大使と来栖大使がハルに追い返されて戻ると、大使館の前には人だかりができ始めていた。二人は建物の中に入って、初めて真珠湾攻撃の事実を知り、ようやく本省が手交の時刻を指定してきた理由が分かった。大使館には抗議の電話が殺到し、誰もが口汚く日本を罵った。多くの新聞記者が強硬にインタビューを求めた。

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 その彼らに真相を伝えておかなければならないとは、野村には思いもいたらなかったようだ。仮定の話だが、野村がそのことに気づき、大使館の前で説明し、さらには責任をとるため、門前でピストル自殺でもしていれば、日本が「騙し討ち」をする意図をもっていなかったことだけはアメリカの国民に伝えることができたかもしれない。[5,p65]
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 だが、あいにく野村にはそういう判断をするだけの能力も姿勢もなかったようだ。その晩、大使館では磯田三郎陸海武官やその他の武官・職員が、野村の寝室を交代で見張った。野村が自責の念にかられて自殺するかもしれない、との噂がながれていたからである。

 後に磯田が、そのことを野村につげると、彼は意外そうに言った。「私はなぜ自殺しなければならないのか。私は外交官である」

 手交が遅れた後でも、野村大使の対応によっては、その失態を多少なりともリカバリーする余地はあったが、何もしなかった。自分たちの失敗で、祖国に取り返しのつかない、しかも言われなき不名誉を与えた、という自覚がまるでなかったようだ。


■7.「反日」広報に手が打てないのは確信犯的不作為!?

 米政府は「騙し討ち」との言い分を最大限に活用して、国民を激高させ、日米開戦に踏み切った。また後に広島に対して原爆攻撃をした際にも、トルーマン大統領は、日本は真珠湾の「騙し討ち」の何倍もの報復をこうむった、との声明を発している。

 しかし、野村に限らず、外務省にこの失態の責任をとろうとする姿勢はなかった。最後通告の電文が到着した晩に懇親会で外出していた奥村勝蔵は戦後、外務次官にまでなっている。同じく、緊急体制をとらなかった井口貞夫参事官も外務次官となり、その後、アメリカ大使まで勤めている。野村大使自身も、戦後、参議院議員を2期、務めている。

 [5]の著者・杉原誠志郎氏は、これらは戦後、首相となった吉田茂が、自らの出身母体である外務省の失態を隠そうとしたための措置である、としている。吉田首相にその意図があったのかどうかはひとまず措くとしても、外務省はこの失態に関する資料も公開せず、反省も表明せず、国民に謝罪もしていない。

 外務省にとってみれば、占領軍が広めた「軍部が独走して日本を戦争に引きずり込んだ」という自虐史観は、外務省にとっても、自らの不作為と失態を糊塗するために好都合だったのだろう。

 [5]では、戦後、外務省が中国の教科書干渉、「従軍慰安婦」の河野談話、「新しい歴史教科書」つぶしにおいても、不作為、そして時には、中韓側に立って日本政府の足を引っ張っていた実態を紹介している。

 そう考えると、冒頭で紹介したグレンデール市の慰安婦像問題にしても、外務省が保身のために自虐史観に目をつぶっているという確信犯的な不作為なのでは、という疑いが生ずる。

 だとすれば、中韓による「反日」プロパガンダで、外務省がいっこうに有効な手を打ち得ないのも、能力の問題ではなく、姿勢の問題だと言うことになる。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(096) ルーズベルトの愚行
 対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog096.html

b. JOG(464) サムライ達の広報外交 〜 米国メディアにおける日露戦争
 彼らは卓越した英語力で、日本の立場を語り、 アメリカ国民を味方に引きつけた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog464.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)

1. 目良浩一「グレンデールに慰安婦像設立 立ち上がった在米日本人たち」、WiLL、2013年9月号

2. MSN産経ニュース、H25.10.12「『慰安婦像設置は間違っていた』米市長発言 韓国紙は『波紋広がる』と報道」

3. ハミルトン・フィッシュ、『日米・開戦の悲劇─誰が第二次大戦を招いたのか』★★★、PHP文庫、H4.12
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4569565166/japanontheg01-22/

4. 塩崎智『日露戦争 もう一つの戦い』祥伝社新書、H18
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4396110413/japanontheg01-22/

5. 杉原誠志郎『外務省の罪を問う』★★★、自由社、H25
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237761/japanontheg01-22/

Sea-Tacニューズレター vol.35 2013年11月19日配信
2013/11/18
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Contents ★マッコウクジラ★     
     ★イルカたち★
     ★イルカの継子★
     ★逞しい若ドリ★
     ★南島の利用制限★
     ★年末年始便★
     ★春の着発便★
     ★Tomocolumn 27「21年目へ」★
     ★配信停止のご連絡★


こんにちは、TOMOKOです。
夏が過ぎたと思ったら、今年の秋は足早なんてものではなく、ほんとうにさっと行ってしまいました。9月から10月にかけて台風が5つも来襲、おがさわら丸のスケジュールが三便続けて変更しました。こんなことは20年で初めてです。
とは言え、小笠原は暴風圏に入らずにすみ、大きな被害がなくてほっとしました。内地や大島での洪水や台風による被害には驚かされました。皆さまに影響はなかったでしょうか。
そして、すでに冬の風が吹き始めてる父島です。


★マッコウクジラ★
マッコウベストシーズンのはずの秋ですが、今年はなかなか外洋域に走れる穏やかな海況にはなりませんでした。
それでも、9月上旬には、マッコウツアーを数回催行できました。
水中にマイクを入れるまでもなく、クジラのブローを見つけることもしばしば。マッコウは、筋肉質な胴を水面に浮かせて、何度も何度も呼吸を繰り返します。オトナがフルークを上げて高く潜ったあとに、コドモだけが残ってせわしなく動き回ってます。
あっちにもこっちにもブローがいっぺんに見えるときもあれば、好奇心の強いマッコウが停まってる船に近付いてくるときもありました。船上から、その大きな体を間近に見られました。
マッコウチャンスが少なかった今シーズンですが、クジラたちが外洋にいるのは変わりません。また来年の遭遇を楽しみにしましょう。
ただ、今年多かった「ダイオウイカに会えますか?」というご質問には、イエスと答えられないのがツライところですけど。


★イルカたち★
今年は水温が上がるのが遅かった印象があります。でも、そのおかげで台風が発達しないし、サンゴの白化は起きないし、イイ点もありました。
夏のイルカとの出逢いは、いつも通りでした。とりわけ、ハシナガベビーの元気なことといったら!
ミナミハンドウイルカのベビーももちろん可愛いのですけど、ハシナガの、ちっこいクセに生意気に母さんといっしょにジャンプするさまには、さすがハシナガ!双葉より芳し!と拍手しちゃいます。
いっぽう、ミナミハンドウイルカは個体識別しやすいので、日を追ってその行動が変わっていくのがわかるのも楽しみです。
メッカと呼んでる片眼のイルカ、以前は見えない左側へヒトが近付くのを嫌いました。だから、左眼が見えないことに気付くのに時間がかかったほどです。
ところが、最近のメッカは、ヒトが右へ来ようが左へ回ろうが、全くへっちゃら。まるでどちらの目も見えてるかのように、よくヒトと遊んでくれます。こんな好奇心が強い性格だからこそ、何かの事故で目を失ったのでしょうか。
海でメッカを見つけると、また遊んでくれるかも!とわくわくしてしまう、最近の私たちです。


★イルカの継子★
某日、湾口でミナミハンドウイルカの群に出会いました。海に入ると、十数頭が浅い岩場をゆっくり泳いでるのがよく見えます。
でも、そのまま岩場を抜けてくるかと思いきや、Uターンしてしまいます。反対側へ回り込んで待ってても、また引き返してしまいます。
あれ?とよく見ると、群の向こうに小さな赤ちゃんの姿が見えました。なるほど、だから、群全体が神経質なのですね。
母さんイルカにぴったりくっついて泳いでる赤ちゃんイルカ、とっても小さいです。あれほど小さいのは、生まれたばかりだからかしら。
間に他のイルカたちが入っては邪魔するから、赤ちゃんの姿がはっきりとは見えないけど、とにかく小さいのはわかりました。
お客様には赤ちゃんに近付かないようにとご案内しつつ、囮役で近付いてくるオトナのイルカと泳いでました。
あとになって、実は、そのときの赤ちゃんがミナミハンドウではなくハシナガだったと聞いて、驚きました。
この群を撮ったダイバーが、やはりそのときは気付かなかったのだけど、あとから写真を拡大したらハシナガだったというのです。
道理で、極端に小さかったはず!
それにしても、ミナミハンドウがどうしてハシナガの子を連れていたのでしょう? たまたま近くにいたときミナミハンドウについて行っちゃったのでしょうか。それとも、迷子になったハシナガの子をミナミハンドウが保護した? 授乳はできないはずですよね? 果たして、無事に成長するのでしょうか? 疑問だらけです。
残念ながら、その後、この赤ちゃんは確認されていません。
いったいこの子に何が起きたのでしょうか。こんな例は他にもあるのでしょうか。疑問は残ったままです。


★逞しい若ドリ★
続けて来襲した台風は、ようやくオトナと同じ羽に生え替わったばかりのカツオドリたちにとってもさぞ厳しい試練だったことでしょう。
がっちりした巣があるわけでなし、穴の中に隠れこむわけでなし、あの南島の険しい岩壁にしがみついて強風をやり過ごしてるかと思うと、果たして何羽が生き延びるかとハラハラさせられました。
台風が通り過ぎてようやく数日ぶりにツアーに出られた日、南島あたりを走ってると、あらあら、いつものように若ドリが船を目指して飛んで来るではありませんか。きみたち、無事だったのね!
久しぶりの船が珍しいのか、真上にホバリングしては首を伸ばしてこちらを観察してます。
一羽、二羽、と数えていたら、まぁ、どんどん増えてきて、十羽どころか、二十羽近くにもなって、団体でボートウォッチしてます。
たまたま私たちがイルカを見つけて海に入ると、そのさまも珍しいらしく、今度は泳ぐ人の真上に付いていきます。
いつもと全く変わらないその姿に、こちらも安心するやら、頼もしいやら。
こんなに逞しいなら、これからの南への長旅も乗り越えてくれることでしょう。元気に旅立ってね。


★南島の利用制限★
11月5日から2月2日まで、植生回復のため、南島の自然観察路の利用は禁止されてます(但し、年末年始を除きます)。サメ池からの上陸はできません。でも、扇池からの上陸はできます。
Sea-Tacのツアーでは、海況さえ問題なければ、泳いで上陸し、砂浜をご案内します。ヒロベソカタマイマイの半化石を見ていただき、陰陽池まで歩きます。陰陽池では、渡り鳥も多く見られます。
ほとんどの船が上陸しないこの時期は、人影もほとんどありません。鳥の声を聞きながら歩くのは、とても気持ち良いです。
むしろ、今が南島の狙い目といえるかもしれませんね。


★年末年始便★
11月8日に、年末年始便の乗船券が一斉に販売されました。今年も大勢の人が海運の窓口に並んだことでしょう。父島の営業所でも、全く電話が通じない状態でした。
そして、Sea-Tacのツアーご予約も受け付け開始です。この時期は、ザトウクジラウォッチ&ドルフィンツアーを催行します。すでに、日によっては、満席となっています。
今年は観光船の来島がないので、街中は例年より空いてるかもしれませんね。父島では、例年同様、「カウントダウンイベント」と「日本一早い海開き」が行われます。
来島を計画されてるかた、手配はどうぞお早めに。


★春の着発便★
おがさわら丸は、3月5日東京発便から31日東京着便まで、父島着発となります。11時30分に父島に到着して、14時に出港です。今年の3月と同様、東京に2泊することもありますので、小笠原往復の日程が6日間か、7日間になります。
また、おがさわら丸以外にも、にっぽん丸とぱしふぃっくびぃなすも来島予定です。ぱしふぃっくびいなすは神戸からの予定ですので、関西のかたに便利でしょう。
おがさわら丸チケットは2ヵ月前から販売されます。と同時に、Sea-Tacのツアー受付も始まります。
まだ先のことではありますが、ザトウウォッチのベストシーズンです。ぜひ、ザトウに逢いにいらして下さいね。


★Tomocolumn 27「21年目へ」★
11月1日はSea-Tacの創立記念日でした。開業してから丸20年が過ぎ、21年目に入りました。
小笠原の父島で、大好きなクジラやイルカを皆さまにご案内したくてツアーを始めてから、あっという間の20年でした。でも、その月日の中で、いろいろな出会いがありました。
当時の小笠原では予想してなかったほど多くの種のクジライルカにも遭いました。思いがけない出会いのたびに、どれほど驚かせ、喜ばせてもらったことでしょう。クジラもイルカも、会えば会うほど、私たちを魅了してくれます。
これまで、大勢のお客様にツアーに参加していただきました。お客様の喜びの声が、私たちにとって何よりの励みとなりました。
繰り返し来島されて、今ではすっかりお友達付き合いとなってるかたもいらっしゃいます。Sea-Tacのツアーで知り合って結婚されたカップルもいれば、生まれたお子様を連れて来島されるかたも。
皆さまの人生の一部に、いつまでも小笠原への思い出が残っていると嬉しいのですが。そして、クジライルカたちへの愛情も。
Sea-Tacは、これからも皆さまに小笠原のクジライルカの魅力を伝えていきます。30年目を目指して(?)、どうぞよろしくお願いいたします。

「自己中」はサヨクの始まり
2013/11/03
「自己中」はサヨクの始まり
Japan On the Globe(822) ■国際派日本人養成講座■H25.11.03より転載

Media Watch:「自己中」はサヨクの始まり

 朝日新聞投稿者たちの、世間常識も他者への思いやりもない「自己中心主義」の世界

■1.『朝日新聞のトンデモ読者投稿』

 弊誌では従来から朝日新聞の報道ぶりを分析してきたが、最近、『朝日新聞のトンデモ読者投稿』[1]という本を読んで、読者も負けずに相当に「ユニーク」である事に驚かされた。たとえばこんな具合である。

__________
サービス3流懲りた新幹線
   主婦 佐藤安子(岐阜県 59歳)

 3月下旬、2泊3日の東京巡りをして、たくさんの楽しい思い出を胸に、東京発「ひかり」に飛び乗りました。空席が多かったので、荷物を右の座席に置いて腰を下ろしました。

 その時、車掌さんが検札に来ました。私の切符を見て、4千円余りを払って下さいとのことでした。グリーン車でした。財布の中には2千円少々しか残っていませんでした。

 自由席を3両歩きましたが、全部満席。疲れが出て、それ以上空席を探す気になれません。出入り口の近くにバッグを置いて腰掛け、足は対面の壁にくっつけて疲れを癒やしながら考えました。

 切符は、金券ショップの格安店3店を回って買った9300円のものです。車掌さんは横を通っても、声をかけるでもなく、むなしい1時間50分でした。

 180円の切符を買っても「ありがとうございます」と言葉をかけてくれる私鉄の駅員さんがいるかと思えば、JRは1万円近い切符でも空席の案内もありません。二度とJR新幹線は利用したくありません。サービスは三流です。[1,p44]
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■2.自己中読者の投書を掲載した意図は?

 まるでグリーン車とは知らずに座ってしまったとでも言いたいようだが、グリーン車と普通車とは座席も内装も違うので、幼稚園児でも区別できる。金券ショップを3軒も回って格安チケットを探すほどの人が、その区別を知らないはずはない。この人は知っていてグリーン車に勝手に座ったのである。確信犯だ。

 車掌は今まで座っていたことは大目に見て、差額を払えないのなら普通車の自由席に移るよう、穏便に注意したようだ。たいていの乗客ならこの段階で「すいません」と小さくなって、寛大な車掌に感謝しながら、普通車両に移るところだ。

 結局、空席が見つからずに、「出入り口の近くにバッグを置いて腰掛け、足は対面の壁につけて」とは、まるで不良中学生のような態度だ。60歳近いご婦人にしては異様である。

「空席の案内もありません」とは、また見事に自分勝手な言い分である。座りたかったら指定席をとるか、東京駅は始発駅なのだから並べば自由席に座れる。そうせずに混んでいる列車に勝手に飛び乗って座れなかった乗客には、車掌としてはどうしようもない。

 こういう自己中心的な考え方しかできない人を「自己中」と呼ぶ。「自己」中人間はどこにでもいるが、それよりも、こういう自己中の典型の投書を堂々と掲載する朝日新聞の意図が分からない。

 この本には他にもJR各社を攻撃した投書が載っている。かつての国鉄は分割民営化され、業績も回復し、サービスも格段に良くなったが、同時に国鉄に巣くっていた左翼の国労や動労は勢力を失った。そのことを朝日は今でも恨んでいるのだろうか。

 それでも、こんな投書ではJR批判にもなっていない。単に購読者の中にはこんな自己中人間もいることを示しているだけである。もし、朝日新聞の編集者が、これが説得力のある投書だと信じて掲載したのだとしたら、そちらの方が恐ろしい。編集者の頭の中も自己中になっている恐れがある。


■3.「隣の遠い国」壁超える日は

 もう一件、自己中読者の投書を紹介しよう。

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「隣の遠い国」壁超える日は
   会社員 佐々木佑子(新潟県白根市 54歳)

(前略) 10年ほど前に、会社の慰安旅行で、隣にある一番遠い国という印象だった韓国に行きました。初めての外国体験です。泊まったホテルのベルボーイの彼は、韓国特有のハンサムな男の子でした。彼は22歳、「兵役がまだなんです」と話していました。

 あまり可愛いので、強引に誘惑し同僚と3人で夜の散歩としゃれ込みました。お互いの通じない言葉とカタコトの英語であれこれ、楽しいひとときでした。

 帰国の空港で電話したら、電話口に出た父親が、日本語で言いました。「うちの息子は日本には行かない。電話にも出ない。友達にはなれない」。その怒りにも似た言葉に絶句しました。

 この秋から、市民大学講座で「東北アジアについて」を受講しています。高校卒業以来初めての勉強に夢中です。アジアについて、あまりにも知らされていない事実がたくさんあることに驚きの連続です。新聞には、いつも米国側から見るのではなく、同じアジアからの視点の記事を期待してやみません。[1,p32]
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 父親の言葉からは、ご婦人たちが青年に「日本に来ないか、友達になろう」などと誘った様子が窺える。この父親の方が、よほど常識的に見えるが、投稿者はその言葉に「絶句した」と述べるだけで、反省したのか、反発したのか、分からない。

「この秋から」という次の段落との脈絡が、これまた不明だ。自分の行為を反省して、アジアの視点を学ぼうとしているのなら、まだ救いようがあるが、ひょっとして韓国青年を誘惑することこそ「アジアからの視点」だと思っていたら、究極の自己中である。

 朝日新聞がこの自己中読者の投書を掲載する意図がまた分からない。「こんな事をしてはいけませんよ」という反面教師として取り上げたのか、あるいは、韓国青年を誘惑するほど、アジアに親近感を抱いている好例として取り上げたのか。「『隣の遠い国』壁超える日は」という肯定的なタイトルからは、どうも後者のようだ。

 しかし、こんな自己中おばさんたちが続々と「壁」を越えてやってきたら韓国も大変だ。今度は慰安「夫」騒動が起きるかも知れない。


■4.「僕たち、お隣の国の子に間違えられたんだよ。すごいでしょう。」

「隣の遠い国」との壁を超えるのが、朝日新聞の悲願のようで、こんな投書もある。

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子らが大合唱 アンニョーン
   主婦 小室早紀子(東京都国分寺市 34歳)

「アンニョーン、アンニョーン」と、米国イエローストーン国立公園の谷にこだました。見ると、レンタカー内の我が家の三歳と五歳の息子たちに向かって、大きく手を振っているおじさんがいた。ハングル文字のバスの前で、運転手が満面の笑顔で、こちらに手を振り続けていたのだ。

「何ていう英語なの」と尋ねる子供たちに、「こんにちはって言っているの。英語じゃないのよ。お隣の国の言葉なの。君たちのことを自分の国の子だと思っているのよ、きっと」と言うと、「わーい」と叫び、車の窓から身を乗り出して両手をいっぱいに広げ、「アンニョーン」と。あちらのバスの乗客も全員、車窓からこたえてくれて、大合唱となった。

 帰りの飛行機で、茶髪の短期留学の高校生に囲まれた席で、「僕たち、お隣の国の子に間違えられたんだよ。すごいでしょう。アンニョーン」と誇らしげな彼らに、二十一世紀を見たような気がした。[1,p12]
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 見ず知らずの子供たちを韓国人と決めつけて、大声で「アンニョーン」と手を振りつづけるバスの運転手。韓国人と間違えられたと教えられて、「ワーイ」と叫んで、車から身を乗り出して応える子供たち。極めつけは、「僕たち、お隣の国の子に間違えられたんだよ。すごいでしょう」と自慢するシーン。

 どうにも不自然な筋書きで、作り話っぽい。たとえ実話だとしても「いい話」と共感する人はいないだろう。そもそも、この子らが「お隣の国」に間違えられることに、なぜそんなに喜ぶのだろう。「お隣の国」はポケモンの国とでも思っているのだろうか。

 弊誌815号では、「お隣の国」はポケットモンスターどころか、本当のモンスター国家ではないかと論じた[a]。子供は現実の世界に触れて、当初抱いていた空想的世界観を徐々に修正していく。それが人間としての成長である。

 2児の母になっても、現実社会を客観的に知ろうとせず、「二十一世紀世界を見たような気がした」と思い込んでいるようでは、自己中そのものである。この投書を掲載した朝日の編集者も同類だ。


■5.「正直に生きる」

 青少年の読者も「自己中」ぶりでは負けてはいない。
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「悪法も法」か、正直に生きる
   高校生 福田哲弥(兵庫県三田市 17歳)

 私は、単車の免許を取らない、買わない、乗らないという「3ない運動」に違反して停学処分を受けました。しかし私は、人として悪いことをしたとは思っていません。

 高校生は危険な乗り方をすると決めつけ、信頼しようともせず、21年間続けてきたことに驚きさえ覚えました。交通ルールを守り、むちゃな乗り方をせず、命を大切にすると親に約束し、許可を得て取得した免許です。取得後も、親の運転する車の前を走り、カーブの曲がり方、スピードの出し方など注意を受けました。

 いままで悪いことを一度もしたことがないのが、私の自信の源です。先生は「悪法も法。従わねばならん」と申されました。私はそうは思いません。悪法に従えば、悪法と同じレベルの人間になると思います。・・・

 この精神は永遠に持ち続けたい。自分自身の信念とモラルのもとに公然と正直に生きていきます。罰せられても、私は私らしく生きてきたいです。
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 善悪をすべて自分で決め、それに矛盾する法はすべて悪法と切り捨てるのは自己中の典型である。自分の信念でルール破りが許されるなら、別の不良生徒が「人のモノは俺のモノ」という信念をかざして、この高校生を殴って、バイクを取り上げたとしても反論はできまい。朝日の理想とは、こういう「自己中」青少年を育てることなのか。


■6.「ミサイルだろうが靖国参拝だろうが」

 こういう自己中人間が政治を考えるとどんな事になるか、一例を見てみよう。

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どこか似ている北朝鮮と首相
   ケアマネジャー 香川博司(広島県福山市 54歳)

 ミサイルを発射したことについて、北朝鮮外務省報道官は「主権国家としての合法的な権利」で他国の批判は当たらず、「いかなる国際法や朝日平壌宣言、6者協議の共同声明などの二国間・多国間合意に拘束されない」と発言した。

 どこかで聞いたような言い方だなと思ったら、我が国首相の靖国参拝だ。中韓両国からの参拝批判に対する反論と、どこか似ているではないか。

 ミサイルだろうが靖国参拝だろうが、他国への不快や脅威を与えている点では同じではないか。自分や自国が何と言おうが、それが隣国や隣国に大きな影響を与えかねないことに留意し、配慮するのが最低限の礼儀であり品性である。

 両者に共通しているのは、他者とともに生きているという心の姿勢の欠如であろう。[1,p200]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「他国への不快や脅威を与えてはいけない」という一つ覚えの論理ですべての物事を判断する自己中読者の視点からは、靖国参拝も北朝鮮のミサイル発射と同じに見えるようだ。

 しかし、たとえばあなたが亡父の墓参りに行こうとしているのを、隣家が「あんたの親はうちの親に昔、大変な迷惑をかけた。そんな親の墓参りに行くことは、私たちを不快にするから止めてくれ」と言われたら、「他国への不快や脅威を与えてはいけない」という論理で、墓参りを止めるべきなのか。

 国際社会でも、我々の日常社会でも、快不快とは別に、国際的なルールや常識がある。たとえ自分が不快だと思っても、法律上、あるいはマナー上、黙って甘受しなければならない時もある。こういう常識も学ばずに、一つ覚えの論理だけを振り回すのは、自己中症状である。


■8.「自己中はサヨクの始まり」!?

 それにしても、前節の「悪法には従いません」と胸を張る高校生と、「ミサイルだろうが靖国参拝だろうが」と言い切る中年男性の、なんと似ていることか。

「自己中」高校生も、多くの場合、社会で世間常識や他者への思いやりを学んで、そこから脱却していくのだが、たまたまガラパゴス的に「自己中」のまま大人になってしまう人がいる。本稿で登場いただいた「自己中」読者はこの類いだろう。

 そして「自己中」学生の中でも一流大学を優秀な成績で卒業した「選良」が、朝日の記者や編集者になるのかも知れない。そうでない事を祈るが、本稿で紹介した「自己中」投書を堂々と掲載していることから考えると、そんな危惧を払拭できないのである。

 そしてそういう人たちが、靖国参拝はミサイルと同じ、などというサヨク的言辞を振りまいている。「自己中はサヨクの始まり」とでも言えるのではないか。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(815) 隣の国はモンスター!? 〜 『悪韓論』から
 データで明かされた韓国社会の異様な実態。
http://blog.jog-net.jp/201309/article_10.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1.朝南政昭、『朝日新聞のトンデモ読者投稿』 ★★、晋遊舎ムック、H19
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4883806162/japanontheg01-22/

佐久間艇長の遺書
2013/10/20
Japan On the Globe(820) ■国際派日本人養成講座■H25.10.20より転載

国柄探訪: 国史百景(6) 佐久間艇長の遺書

 乗組員全員が最期まで持ち場を離れずに職務を果たそうとしたこの事件は、欧米でも大きく報道された。

■1.持ち場を離れなかった第6潜水艇の乗組員たち

 沈没した第6潜水艇が発見されたのは明治43(1910)年4月16日午後3時38分、広島湾の沖合約2千メートル、水深約15メートルの海底だった。艇首を上げ、艇尾は泥の中だった。前日朝に出発してから、一日半が経っていた。

 引き揚げ作業は困難を極めた。2機の起重機で吊り下げたまま浅瀬に運び、翌17日明け方から、艇内の海水と漏洩ガソリンをポンプで排出し、換気の後、ようやく艇内に入ることができた。

 乗員はそれぞれの持ち場で倒れていた。佐久間艇長は司令塔の真下で、仰向けになっていた。艇首の魚雷発射管左右には、前後の扉を閉じて海水の浸入を止めようとしたのか、欲山一等兵曹と、遠藤一等水兵が倒れていた。

 原山機関中尉は、海水と電池の電液の混合による有毒ガスの発生を懸念したのだろう、二次電池の前で事切れていた。吉原一等水兵、河野三等機関水兵、堤二等兵曹、山本二等機関兵曹は手動ポンプの付近に集まって倒れていて、交代でのポンプ排水中に絶命したのだった。

 その他の乗員を含め14名全員がそれぞれの持ち場で、息絶えるまでなんとか潜水艇を浮上させようと努めていたのである。


■2.「この精神がため日本人は強きなり」

 当時は潜水艇開発の初期で、海外でも同様の事故が相次いでいた。イギリスでは1904年、1905年、フランスでも1905年に潜水艇が沈没。これらの事故では、いずれも乗組員がハッチに殺到し、折り重なるようにして死亡しており、ある例では先を争って殴り合いをした形跡まであった。

 それだけに、乗組員全員が最期まで持ち場を離れずに職務を果たそうとしたこの事件は欧米でも大きく報道され、各国から弔電や弔慰金が海軍省、海軍大臣に多数寄せられた。

 事件当時モスクワにいた日本大使館の駐在武官は、日本の海軍省に次のような報告を電文で送っている。

__________
 我潜水艇不幸に対するロ国人士の感想に関する件

 第六潜水艇の不幸はロイター通信のロンドン電報により直ちに当地に伝わり、各新聞これを掲載しかば一般にしれわたり、海軍軍人と否とに区別なく何れも口を極めて乗員最後の勇壮なる行為を賞賛し、中にはこの精神がため日本人は強きなりとまで語る紳士あり。[1,p110]
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 ロシアが日本と戦って敗れた日露戦争から、わずか5年後。憎き仇敵という感情が各層に残っていただろうが、第六潜水艇の乗員の「勇壮なる行為」はそのロシア人の胸を打ったのである。「この精神がため日本人は強きなり」とは、国家予算でわずか10分の一の小国日本が大国ロシアを倒した事を踏まえての実感だろう。


■3.「潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ」

 殉職した佐久間艇長以下の遺体は、4月17日午後に収容された。福井県小浜中学の後輩で、佐久間に憧れて、海軍入りした倉賀野明中尉は、その夜、遺品の整理中に佐久間の手帳を見つけた。

「艇長ほどの人、必ず何か最後に書き残しているはず」と思い、手帳を開くと、大きな字で書き殴ったようなメモが見つかった。有毒ガスがたまって、呼吸が苦しい中、司令塔ののぞき穴から漏れてくる、かすかな明かりを頼りに書いたものだった。

 それは次のような文章で始まっていた(スペースは改行を示す)。

__________
 佐久間艇長遺言

小官ノ不注意ニヨリ 陛下ノ艇ヲ沈メ部下 ヲ殺ス、誠ニ申訳
ナシ、サレド艇員一(ママ) 一同、死ニ至ルマデ 皆ヨクソノ職ヲ守
リ沈着ニ事ヲ処 セリ、我レ等ハ 国家ノ為メ職ニ
斃レシト雖モ唯々 遺憾トスル所ハ天 下ノ士ハ之ヲ誤リ以
テ将来潜水艇 ノ発展ニ打撃 ヲ与フルニ至ラザル
ヤヲ憂フルニアリ 希クハ諸君益々 勉励以テ此ノ
誤解ナク将来 潜水艇ノ発展 研究ニ全力ヲ
尽クサレン事ヲ

サスレバ我レ等 一モ遺憾トスル所ナシ、[1,p115]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


■4.潜水艇発展にかけた志

 日本海軍が最初に配備した潜水艇は、アメリカから購入した5隻だった。明治38(1905)年、この事故からわずか5年前のことである。これらが第1〜第5潜水艇と呼ばれた。

 当時の最新兵器であるだけに、乗組員は知識・技能ともに優秀な志望者から選ばれていた。佐久間は当初から、志願してこの世界に飛び込み、第1、第2、第3潜水艇の艇長を歴任していた。

 アメリカから購入した潜水艇を参考として、翌年、国産第1号として建造されたのが、この第6潜水艇だった。アメリカ製に比べて、小型で操縦も難しく、故障が多かった。海軍一の難艇で「ドン亀」と呼ばれていた第6艇を乗りこなすために、さらに選りすぐりが集められていた。その艇長に抜擢されたのが佐久間だった。

 機関長の原山政太郎中尉は幼少の頃から「神童」の誉れ高く、海軍機関学校を首席で卒業し、24歳にして機関中尉となっていた。鈴木新六上等機関兵曹は、第2、第4潜水艇の内燃機関の故障を完全修理したことから、「内燃機関の神様」の異名をとっており、上層部より特に請われて、第6潜水艇に配属となった。その他の乗員も同様に、海軍の中でも選りすぐった人材であった。

 佐久間艇長の遺書が、まず自分達の起こした事故が「潜水艇の発展に打撃を与ふるに至らざるよう」という事から始まっているのは、彼らの潜水艇発展にかけた志があったからである。

 そして、なんとしても潜水艇を浮上させようと、最後の最後まで死力を尽くしたのも、自らが助かりたい、という気持ちよりも、ここで事故を起こして日本の潜水艇技術の発展に打撃を与えてはならない、という使命感であったのだろう。


■5.最先端の航走法に挑戦した佐久間艇

 これら選りすぐりの乗員によって、4月11日から14日まで各種の訓練が行われていた。13日の「水雷発射訓練」では魚雷4回連続発射を実施し、全弾を標的に命中させるという見事な成績を上げた。14日は長距離潜行訓練で、約15キロ、2時間30分という第6潜水艇にとって過去最高の記録を達成した。

 15日に取り組んだのが「半潜航」だった。潜水艇は水上航走では通常の艦船と同様、ガソリン・エンジンで動く。水中に潜ると、ガソリン燃焼に必要な酸素を得られないので、蓄電池を電源としたモーターに切り替える。ところが当時のモーターは出力が弱く、蓄電量も少ない。速度を半分にしても航続距離は10分の1以下となってしまう。

 前日に出した最高記録でも潜水航走約15キロでは、よほど敵艦に近づいてから潜って攻撃せねばならず、仕損じて逃げても、電池がつきたら、水上航走で標的になるだけである。

 打開策と考えられていたのが半潜行だった。これは水面下3メートルほどに潜り、司令塔から突き出した通風塔から空気を取り入れて、ガソリンエンジンで長距離を航走する。しかし通風塔の開口部は海面上わずか1メートル弱しか出ていない。これでは潜水艇の前後左右のわずかの傾きにより、通風口から海水が浸入する。

 佐久間艇長の手帳では、詳細に事故の経過を報告しており、それをもとにした技術的検証で、通風口から海水が浸入し、それにより浮力を失って沈没、さらに通風口のバルブを閉めようとしたが、そのチェーンが外れるという事故が重なって沈没に至ったと結論づけられた。

 佐久間艇長以下は、世界でも最先端の航走法に挑戦したが、いまだ不十分であった設備技術の欠陥により沈没したのである。佐久間艇長の手帳に、事故の経過の詳細が記載されていたのも、この事故の原因を究明して、後進にさらに挑戦を続けて欲しいという願いからであった。


■6.「部下の遺族をして窮するもの無からしめ給はん事を」

 事故の詳細を報告した後、佐久間艇長は次の言葉で結んでいる。

__________
謹ンデ
陛下ニ 白ス、我部下ノ遺 族ヲシテ窮 スルモノ無カ 
ラシメ給ハラ ン事ヲ、我ガ 念頭ニ懸ルモ ノ之レアルノミ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 その間にも、「(気圧高マリ 鼓マクヲ 破ラルゝ如キ感アリ)」あるいは、「十二時三十分 呼吸非常ニクルシイ」と書き、最後に、「十二時四十分ナリ」と結んでいる。

「部下の遺族をして窮するもの無からしめ給はん事を」という佐久間艇長の願いは、多くの国民の心を揺り動かした。海軍のみならず、民間でも朝日新聞を中心とした寄付金募集が行われ、最終的に5万6千円(現在価値にして、推定2億円)が集められた。

 そのうち3万5千円が14人の遺族に等分して手渡され、残り2万1千円を資金として、呉市の鯛之宮神社に「第6潜水艇殉難慰霊碑」が建立された。


■7.「いまも悲しきものゝふの道」

 夏目漱石は、佐久間艇長の遺書の写真版で、その全文を読んで、「文芸とヒロイック(JOG注:英雄的行為)」という一文を書いた。
 当時の文学界は自然主義と称して、現実世界の苦悩を書く事が流行っており、そういう人々は英雄的行為を軽蔑したり、虚偽呼ばわりしがちであった。漱石は、それに対して言う。

__________
 余は近時潜航中に死せる佐久間艇長の遺書を読んで、此ヒロイックなる文字の、我等と時を同じくする日本の軍人によって、器械的の社会の中に赫(かく)として一時に燃焼せられたるを喜ぶものである。[1,p154]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 自然主義を、戦後の今日の「平和主義」に置き換えてみれば、漱石の主張は現代にも通ずる。そういう主義に凝り固まった人々には、佐久間艇長の「ヒロイック」な面は「軍国主義」としか見えないだろう。

 歌人・与謝野晶子は、この事故と佐久間艇長の遺書に触れて、「挽歌11首」を詠んでいる。そのうちの5首を紹介しよう。

 瓦斯(ガス)に酔ひ息ぐるしとも記(しる)しおく沈みし艇(ふね)の司令塔にて
 武夫(ものゝふ)のこゝろ放たず海底の船にありても事とりて死ぬ
 海底の水の明りにしたためし永き別れのますら男の文
 水漬きつゝ電燈きゑぬ真黒なる十尋の底の海の冷たさ
 海に入り帰りこぬ人十四人いまも悲しきものゝふの道

 与謝野晶子は、戦後の教科書では「反戦歌人」などと教えられているが、真実はこのように「悲しきものゝふの道」への万感の思いを歌い上げた歌人であった。


■8.「私たちの未来にもこの日本のよさを伝えていきたいです」

 「第6潜水艇殉難慰霊碑」が建立された呉市の鯛之宮神社では、毎年追悼式が行われている。平成23(2011)年に第100回を迎え、この年から小学6年生の「作文朗読」が始められた。

 呉市教育委員会の協力により、各小学校で先生が佐久間艇長と遺書のことを生徒に話し、感想文を書かせる。その中で優秀な作品を追悼式で本人が読む。

 その最初の年に選ばれた一人が、呉市立呉中央小学校6年の谷川舞さん。舞さんの父は潜水艦『ふゆしお』に乗務しており、まさに佐久間艇長の後継である。

 舞さんは、心に残ったこととして、「沈んでいく船の中で、自分の持ち場を離れずに、力を尽くしたこと」「自分のことだけを考えて行動しなかったこと」「みんなのことを思う佐久間艇長の思いやり」の3つを挙げ、最後に東日本大震災に関連して、こう結んでいる。

__________
 今、日本では、東日本大震災という、かつてない大きな地震によって、たくさんの方々が、大変な状況の中で生活をしておられます。その中でも、佐久間艇長さんのような方々がたくさんいることを思い出しました。

食料を譲り合い、自分が持っている物を分けたり、子どもや高齢の方を優先したり、自分も苦しいけれど、みんなのために譲り合う姿に、心を打たれました。

私がテレビで見た消防士の方は、津波が来るぎりぎりまで、車で声をかけて回ったそうです。結果、亡くなられましたが、最後まで人を思いやっていた方のことが、ずっと心に残っていました。

 第六潜水艇の学習をして、この事故は百年も前のことですが、今の日本にもその心は受け継がれていることを感じました。私たちの未来にもこの日本のよさを伝えていきたいです。そのためには、自分のことだけを考えるのではなく、みんなのことを考え責任をもって行動したいです。[1,p68]
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 100年後の子孫のこの朗読を、草葉の陰の佐久間艇長以下14人の英霊は、さぞや嬉しい想いで聞いていたに違いない。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(724) 福島の英雄たち
 自衛隊、消防庁、警視庁などの無数の英雄たちが、身を呈して福島第一原発事故の収拾にあたった。
http://blog.jog-net.jp/201111/article_3.html

b. JOG(699) 国柄は非常の時に現れる(上)〜 それぞれの「奉公」 自衛隊員、消防隊員は言うに及ばず、スーパーのおばさんから宅配便のおにいさんまで、それぞれの場で立派な「奉公」をしている。http://archive.mag2.com/0000000699/20110522080000000.html

c. JOG(700) 国柄は非常の時に現れる(下)〜「肉親の情」
 両陛下の「肉親の情」が、被災者たちに勇気と希望を与えた。
http://archive.mag2.com/0000000699/20110529080000000.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 足立倫行『死生天命 -佐久間艇長の遺書-』★★★、ウェッジ、H24
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4863100922/japanontheg01-22/

西村 一成個展 at 都庁
2013/10/16
西村 一成個展 at 都庁

TOKYOWONDERWALL 2013
2013年11月西村 一成 11月7日(木)〜28日(木)
トーキョーキョ―ワンダーウォール賞受賞作品他10点

都庁壁面を、これからの美術を担う新進気鋭作家の発表の場にと「トーキョーキョ―ワンダーウォール」は2000年に誕生しました。
「トーキョーキョ―ワンダーウォール公募2013」では、応募総数592名の中から選ばれた93点の入選作品が、東京都現代美術館を飾りました。平面作品部門で、トーキョーキョ―ワンダーウォール賞を受賞した12名の作家の作品を、「トーキョーキョ―ワンダーウォール都庁2013」として、10月から1年間、順次都庁の壁で展示します。また、立体・映像・インスタレーション部門で、トーキョーキョ―ワンダーウォール賞を受賞した2名の作家も都議会議事堂の都政ギャラリーにて作品を展示します。

トーキョーキョ―ワンダーウォール都庁2013
立体・映像・インスタレーション部門受賞作品展
2014年1月10日(金)〜21日(火)
開場時間:9:00-18:00(無休)
会場:都議会議事堂1階都政ギャラリー

隠れたマッジ・ギルか、第2の草間彌生か
2013/10/16
こばやしまなの個展

2013年10月22日(火)〜27日(日)
11:00〜20:00(最終日18:00)
会場:The Art complex Center of Yokyo
Tel:03-3341-3253
・丸ノ内線「四谷3丁目」駅【出口1】、徒歩7分
・JR総武線「信濃駅」、徒歩7分

隠れたマッジ・ギルか、第2の草間彌生か

カタログより
       「世界に向けて口から虹を吐く」
 銅版画のプリンセス、こばやしまなと申します。
プリンセスは銅版画をメインに、ペン画やデジタル画などを使って絵を描いています。
プリンセスのアーティストテーマは「世界に向けて口から虹を吐く」です。一体どういう意味かというと。。。
プリンセス作品が人と人、世界と世界とを結ぶ架け橋となる様なコミュニケーションツールになって欲しいと願っています。
作品を介して誰かと誰かが繋がった、作品を観ていると自分の世界観が大きくなったなど、感じて頂ければ幸いです。
そんな架け橋となる虹を口から発射できれば最強だと思い、自身のアーティストテーマにしました。
日本は世界中でディズニーランドの様な国です。
大学3年生の頃、カンボジア、タイ、ラオス、ベトナム、インドネシア、インドなどバックパックで放浪し、日本の恵まれた環境を知りました。毎日学校に通える事、ご飯が食べられる事は当たり前な事ではなくキセキ的な事なのですね。
だからといって何が出来る訳でもなく、、、非力ではありますが、出違った人、関わった人1人1人の方の人生が彩り豊かであり、虹色に包まれればいいなと思います。そんな思いを込め、作品を描いています。
プリンセス作品を飾った空間で生きる人の人生が、虹色で包まれたものでありますよーに。
by銅版画@プリンセス、こばやしまな

       こばやしまな

1985年東京生まれ
2011年多摩美術大学絵画学科版画専攻卒業
受賞歴
2010年
第9回三菱商事アートゲートプログラム入選
第6回世界堂絵画大賞展入選
ニッケピュアハートイラスト大賞入選
2011年
第13回三菱商事アートゲートプログラム入選
第7回世界堂絵画大賞展協賛賞受賞
第5回山本県版画大賞展入選
2012年
第15回三菱商事アートゲートプログラム入選
第8回大野城まどかぴあ版画展ビエンナーレ入選
第1回FEI PRINT AWARD入選
ポーランド蔵書票コンペティションAward nomination
2013年
第18、19回三菱商事アートゲートプログラム入選
ACTアート大賞展2013佳作入選
朝日新聞厚生文化事業団主催next art展推薦作品


展示歴
2010年
岡山県美作市作東美術館バレンタイン展参加
2011年
コピス吉祥寺にて展示販売、公開オークション参加
Galerie Hにて「こばやし まな個展」
2012年
ギャラリータマミジアム企画銅版画展参加
かさぎ画廊企画「いきもののいる情景展」参加
地球堂ギャラリーにて銅夢版画展参加
The Art complex Center of TokyoにてART&Design Fair2012参加
大野城まどかぴあ版画ビエンナーレ参加
The Art complex Center of Tokyoにて「いつもこんな感じの毎日よ。」個展
横浜創造都市センターYCCにて「日本とアルメニア外交樹立20周年記念展覧会」参加
FEIARTMUSEUMにて「第1回FEI PRINT AWARD入選展J参加
ギャラリータマミジアム「銅版画の魅力展V」参加
ポーランド蔵書票ビエンナーレ2012参加
2013年
朝日新聞東京本社本館コンコース、松屋銀座8Fにて「next art展」参加
麻布十番パレットギャラリーにて「山本冬彦と御子柴大三が選ぶ若手作家展」参加
銀座三越8Fギャラリーにて銀座三越が選ぶ期待の新星「コレクションファイル♯1」参加
みんなのギャラリーにて第1,3回展覧会参加
銀座一丁目ギャラリーにて「銅版画のプリンセス展」個展
伊勢丹浦和店にて「アールデビュタント展」参加
かさぎ画廊にて「第1回次世代アーティストイレブン展」参加

ドイツで日本と東アジアはどう報じられているか
2013/10/14
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」通巻第4043号 2013年10月14日より転載
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(書評特集)
川口マーン惠美『ドイツで、日本と東アジアはどう報じられているか?』(祥伝社新書)
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 ドイツ人は落ち着きを無くしてしまったようだ
   検証しないで嘘の日本報道を垂れ流す質の悪いジャーナリズム

 本書を読んで考え直したドイツ人のイメージとは、
「あんたたち、チョットあたまが悪いの?」
 従来、日本人が漠然と描いてきたドイツ人は「勤勉、知的、効率重視、技術力に富む、EUの優等生」という強い印象である。
 ところが本書を読むと、まったくイメージと現実が180度逆転しそうになる。
 第一にドイツ人ジャーナリストの質の悪さ、固定観念からぬけきれず先入観で日本のことを悪く悪く報道する。しかも「検証しない」。
ジャーナリストの初歩も知らないようである。所詮、ドイツからみれば中国が近くて大市場があり、日本は遠すぎる。
 第二はドイツ人が重厚な性格の傍らで、同時に重症とも言えるおっちょこちょいな性格をもつようである。
東日本大震災のおり、日本から逃げ出したのは中国人が圧倒的だったが、第二位はドイツ人だった。ほかに大阪に大使館を移した慌て者もいたが、逆にスリランカは大統領が在日同胞に呼びかけ「動かないで、焦らないで」と訴え、被災地にも大統領が飛んできた。

じつは震災から三日目だったか、たまたま日本にいた川口さんと評者(宮崎)は池袋で食事をして、それからワインを飲みに行ったとき「ドイツにいる主人から『何してる? 危険だから早く帰りなさい』と毎晩電話があるのです」と嘆かれていたことを思い出した。
ドイツのマスコミ報道が「検証なしに行われる」から嘘の垂れ流し状況がつづき、したがって殆どのドイツ人は「尖閣は中国のもの」と誤解し、日本に対して悪い印象を持っているというから始末が悪い。

著者の川口マーン惠美さんはドイツ在住の作家、ジャーナリストだが、いつも鋭角的な状況報告と炯々な問題提議で知られる。しかも観察が細かい。政治の事態を「作家の目」でも見ているからだろう。
だから言うのだ。「ドイツの報道は不公平で質が悪い」と。
そうした表現が随所にでている。
「ドイツと中国の関係は片思いではなく、互いに互いを必要としている冷静な利害関係にみえる。純粋な愛情で結ばれていなくても、理想的なパートナーシップは存在するのだ」。
したがってドイツは中国の人権侵害を無視しても平気、この感覚はフランスとは違う。

以前はドイツの町を歩いていると『日本人ですか』と声をかけられた著者も、最近は喫茶店にはいっても、ウェイターが得意そうにニーハオと挨拶してくるそうな。
著者と同じく30年以上もドイツにくらす或る日本人教授は「最近、あまりのも中国人と間違えられることが多いので、そのたびに、『東洋人が何人かわからないときは、中国人かと聞かずに、日本人かと尋ねなさい。中国人と間違えられて喜ぶアジア人はいないからね』と引導を渡している」そうである。

笑えない現実。ドイツの反日報道ぶりの偏向の裏側に中国の情報工作もあるに違いない。

歴史教科書読み比べ 天武持統天皇の国づくり
2013/10/06
Japan On the Globe(818) ■国際派日本人養成講座 ■H25.10.06より転載

歴史教科書読み比べ(11) :天武・持統天皇の国づくり 〜 共同体国家「日本」の誕生 聖徳太子の新政、大化の改新から続く国づくりが完成に近づいた。

■1.「国づくりが完成に近づいた」

 自由社版『新しい歴史教科書』では、「天武天皇と持統天皇の政治」の節を次のように結論づけている。

__________
 ここに、聖徳太子の新政以来の律令国家をめざす国づくりが完成に近づいた。日本という国号が用いられるようになったのも、このころである。
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「律令」の律は刑法、令は行政法。したがって「律令国家をめざす」とは、それまでの豪族が土地や人民を私有し、勝手な人治を行っていた部族社会を脱して、公地公民を国家が法で治める法治国家を目指すことだった。

 弊誌では、聖徳太子の17条憲法[a]から、天智天皇の大化の改新[b]と、律令国家を目指す努力を辿ってきたが、天武・持統天皇の時代にその「完成に近づいた」とする視点は、この時代の先人たちが継承してきた理想的な国づくりへの志を理解する上で重要である。

 この部分を東京書籍版『新しい社会、歴史』では、こう書いている。

__________
大宝律令 701(大宝元)年、唐の法律にならった大宝律令がつくられ、全国を支配するしくみが細かく定められました。律令にもとづいて政治を行う国家を、律令国家といいます。律令国家は、天皇と、天皇から高い位をあたえられて貴族となった、近畿地方の有力豪族が中心になって、運営されました。[2,p34]
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 これでは、この「律令国家」とは、天皇と有力豪族が法律で全国を支配する細かな仕組みを作った、というだけで、いかにもマルクス主義の言う階級搾取が行われたかのようだ。それも「中国にならった大宝律令」という表現で、単なる人マネのように描く。

 歴史の中に理想国家建設への志を見るのか、階級搾取への欲望を見るのか、両者はまったく異なる影響を生徒たちに与えるだろう。どちらの見方がより史実に近いのか、具体的に見てみよう。


■2.「敗戦を教訓にした律令国家」

 自由社版で興味深いのは、「敗戦を教訓にした律令国家」というコラムである。そこでは白村江の敗戦に関して次のように述べている。

__________
 ・・・百済、新羅、高句麗の三国は、古来、激しい抗争を繰り返しており、そこに唐の軍事介入を招いてしまった。

 まず、唐・新羅軍は百済を滅ぼし、今度は高句麗を南北から挟み撃ちして滅亡させた。日本も百済の救援に赴いたが、百戦錬磨の唐軍に対して、日本は各豪族軍の寄せ集めで作戦もまとまらず、大敗を喫した。

 天智天皇は敗戦の原因を分析し、唐帝国に学んで、律令の整備と中央集権化を目指した。天智・天武天皇は東アジアの興亡と敗戦の経験を教訓に国づくりを進めたのだった。[1,p57]
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 朝鮮半島のように小国家に分かれて内部抗争を繰り返している状態、あるいは日本のように国家としてまとまってはいても、各豪族の寄せ集めの状態では、中央集権国家としてまとまった唐に抗すべくもなかった。

 白村江の敗戦のあとで、唐軍の侵攻を恐れた日本は、軍事的な備えのみならず、中央集権国家としての整備を急ぐ必要があった。わが国はもともと皇室を中心に各部族がまとまって成立したので、さらなる国家統合を進める上でも、天皇を中心に豪族が私有する土地や民を公地公民として統合していくのが、自然な道であった。

 それは聖徳太子が憲法17条で描いた統一国家のビジョンでもあった。


■3.改新の後退

 自由社版での「天武天皇と持統天皇の政治」の詳細を見てみよう。
__________
 天智天皇がなくなった後の672年、天皇の子の大友皇子(おおとものおうじ)と、天皇の弟の大海人皇子(おおあまとおうじ)の間で、皇位継承をめぐって内乱がおこった。これを壬申(じんしん)の乱という。大海人皇子は、東国の豪族を味方につけ、機敏な行動で大勝利をおさめた。

この争いの中で豪族達は分裂し、政治への発言力を弱めた。こうして、天皇を中心に国全体の発展をはかる体制がつくられていった。[1,p57]
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 歴史学者の坂本太郎・東大名誉教授は、天智天皇が豪族の持っていた土地や人民を取り上げて国家のものとしたが、豪族の不満は大きく、白村江の敗戦の後には、その不満を和らげるために、人民私有を復活させたりして、改新の後退を余儀なくされた、と述べている。[3,p251]

 同時に自由社版では天智天皇の項で、「全国的な戸籍をつくった」事績を紹介しており、旧来の豪族勢力と妥協しながらも、公地公民化への準備を怠らなかった様が窺える。


■4.「われらの大君」

 天智天皇の子、大友皇子は偉丈夫で、文武の才にすぐれていた。しかし、大友皇子の支持基盤は、父・天智天皇が妥協を余儀なくされた旧来からの中央の大豪族であった。

 一方、大海人皇子を支持したのは下級役人や地方豪族であった。だからこそ、皇子はいったん東国に逃れて、そこから挙兵したのである。坂本博士はこう述べる。

__________
 この乱によって、大豪族に囲まれて成立していた近江朝廷(JOG注:天智天皇−大友皇子)が破れ、舎人(とねり)のような下級の役人や、国造(くにのみやつこ)・郡司(ぐんじ)などの地方の豪族に支持されていた大海人皇子が勝利を得たことの意味は大きい。

中央の豪族・貴族にくらべると、これらの下級の役人や地方の豪族は、むしろ一般民衆の側にも近かった。そして、かれらにとって、大海人皇子の成功は自分たちの成功と感じられた。この皇子こそわれらの大君である、と感じたに違いない。[3,p270]
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 こうして、白村江敗戦以来、一時、停滞していた改新への流れが、壬申の乱によって中央の豪族ら「抵抗勢力」を排除できたことで、また勢いを得たのである。

 東書版の「律令国家は、天皇と、天皇から高い位をあたえられて貴族となった、近畿地方の有力豪族が中心になって、運営されました」という記述では、中学生の学ぶ内容はまるで逆である。


■5.国づくりが「完成に近づいた」

 中央の豪族という抵抗勢力を打破した大海人皇子、後の天武天皇は、その後、いかに改新を進めていったか。自由社版はこう描く。

__________
 内乱に勝利した大海人皇子は、天武天皇として即位し、皇室の地位を高め、公地公民をめざす改新の動きを力強く進めた。天武天皇は、中国の律令制度にならった国家の法律の制定と、国の歴史書の編纂に着手した。また、国を運営する役人の位や昇進の制度を整え、豪族たちをこの制度の中に組み入れていった。[1,p57]
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 役人の位や昇進の制度を整えたのも、豪族たちが権勢をほしいままにしていた状態から、位を得た官僚が政治を行うという国家を目指したものである。そこでは豪族の生まれでなくとも昇進の機会があり、また豪族に生まれても、官僚として出世しなければ、政治に関われない。

 さらに歴史書の編纂は、人民一人一人に部族の一員であるよりも国家の一員であるという国民意識を持たせることを狙ったものだろう。この作業が後に、『古事記』『日本書紀』として結実する。

__________
 天武天皇のあと、皇后の持統天皇が即位して、改革を受けついだ。持統天皇は、都として、奈良盆地南部の地に、藤原京を建設した。これは、初めて中国にならってつくられる大規模な都の建設だった。[1,p57]
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 都は、国家統合の中心である天皇の宮殿を戴き、国家の行政を担当する官僚たちが仕事をする場である。有力部族がそれぞれの所有地で割拠した部族連合国家から、朝廷が政治を行う中央集権国家への脱皮において、都の建設は重要なステップであった。

 これらはいずれも聖徳太子が理想を描き、天智天皇が大化の改新でその実現に大きく踏み出した国づくりを完成させようという動きである。天武・持統朝の治世で、そうした理想の国づくりが「完成に近づいた」のである。


■6.国号「日本」の誕生

 自由社版では「国づくりが完成に近づいた」という結論に続いて、「日本という国号が用いられるようになったのも、このころである」と述べているが、その後に「『日本』という国名のおこり」というコラムに2頁も割いている。

 そこでは、「日本」という国名の意味を、「日」は太陽、「本」は「・・・の下」と説明して、次のように説いている。

__________
「日本」という国名は、607年の遣唐使の国書に「日出づる処」と書かれていたように、「太陽の昇るところ(昇る太陽の下)にある国という意味になります。

 これは、自分たちの国にゆるぎない自身をもち、その歴史にも誇りを持った古代のご先祖が、わが国に最もふさわしい国名として選んだものといえます。[1,p58]
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 そして、再度、聖徳太子の新政から大化の改新、天武・持統天皇の改革の流れの総括した後で、

__________
 こうして、それまでの政治改革の成果をまとめた飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)という法律で、「日本」という国名が公式に定められたと考えられます。[1,p59]
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「日本」とは、聖徳太子以来の政治改革の結果として新生なった国家につけられた名称なのである。


■7.1300年も続く国名「日本」

 このコラムはさらに、こう指摘する。

__________
 それから約1300年を経たこんにちまで、この国名はまったく変わることなく使われ続けています。中国や朝鮮半島の国々が、王朝が変わるごとに国名が変わってきたことと比較すると、それが特別のことであるのがわかります。

わが国の国名が、この長い年月の間変わらなかったのは、その間、国がとだえたり、他の民族にとってかわられたりすることがなかったからです。わが国は、世界でもっとも長い歴史を持つ国です。[1,p59]
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 わが国が以降、国名を決して変えなかったという事実は、中国や朝鮮半島の数々の、現れては消えていった国々とは対照的だ。そこにわが国の独自性がある。

 東書版では注で「『日本』という国号や「天皇」という称号は、このころ正式に定められました」と書いてあるだけである。日本の歴史を学ぶ教科書で、「日本」という国号の意味も経緯も独自性も書いていないのは重大な欠陥ではないか。


■8.共同体国家「日本」の誕生

 以上、「律令国家」建設への歩みを見てきたが、この「律令国家」という歴史用語自体が「律令」という法的側面だけしか指していないし、また中国の律令体制との違いも明らかにしていない。

 本講座736号[c]でも述べたように、わが国では古来から人民に対して「知らす」と「うしは(領)く」という厳密な区別をしてきた。
 中国の皇帝は人民を家畜のように財産として「領有」したが、日本の皇室は、民の喜びや悲しみを「知らし」たまい、民の安寧を祈る事を務めとしてきた。そして神武天皇は建国に際し「一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか」と宣言された。[d]

 人民が皇帝の財産、すなわち奴隷だとすれば、そこでの法律は奴隷を支配する命令である。しかし、家族の中での法律は仲良くやっていくために互いに守るべきルールとなる。同じく「律令」と言っても、国家の有り様が違えば、その意味合いはまったく別のものになる。

 聖徳太子から天智、天武、持統天皇と受けつがれた志は、実は神武天皇以来の「一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそう」という理想を、現実の政治体制の中で実現しようとする努力であったと解釈できよう。

 とすれば、それは「律令国家」というよりも、「共同体国家」と呼ぶ方がふさわしい。部族連合国家として生まれた「大和の国」は、ここに共同体国家として元服して、「日本」という新たな名前を得たのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) 〜 聖徳太子の理想国家建設
 聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
http://blog.jog-net.jp/201303/article_1.html

b. JOG(799) 歴史教科書読み比べ(9) 〜 大化の改新 権力闘争か、理想国家建設か
http://blog.jog-net.jp/201305/article_4.html

c. JOG(736) 井上毅 〜 有徳国家をめざして(下)
 井上毅が発見した我が国の国家成立の原理は、また教育の淵源をなすものであった。
http://blog.jog-net.jp/201202/article_7.html

d. JOG(074) 「おおみたから」と「一つ屋根」
 神話にこめられた建国の理想を読む。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h11_1/jog074.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1.藤岡信勝『新しい歴史教科書─市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/

2.五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み

3.坂本太郎『日本の歴史文庫〈2〉国家の誕生』★★★、講談社、S50

ドナルド キーンさんの歩いた道
2013/09/29
Japan On the Globe(817) ■国際派日本人養成講座■H25.09.29より転載7

国柄探訪: 日本文化は日本人だけのものではない
    〜 ドナルド・キーンさんの歩いた道
「日本人は、日本文化を外国人には理解できないものと、信じたいのではないか」

■1.「それはまさに、私にとっての喜びの瞬間だった」

 今年91歳になる米国出身の日本文学研究家ドナルド・キーンさんは東日本大震災を契機に、日本国籍を取得し、日本定住を決意した。日本文化・文学に関する著作は、日本語で書かれたものだけですでに30点もある。そのキーンさんがこんな経験を記している。

__________
 数日前、私は十年前だったら起こらなかったような経験をした。ある婦人が私に、最寄りの地下鉄の駅への行き方を尋ねたのである。それはまさに、私にとっての喜びの瞬間だった。

その婦人は私の外見におかまいなしに、私が駅の場所を知っていると判断したのだった。あるいは私がいかにも聡明そうな人間に見えて、私が日本人であるかどうか、よく考えなかったのかもしれない。蘭学者の長い闘いは、ついに実を結んだ。[1,p332]
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 アメリカやヨーロッパの大都市を歩いていると、現地の人に道を聞かれるのはしょっちゅうだ。パリでフランス人にフランス語で道を聞かれたり、ミラノでイタリア人にイタリア語で道を聞かれたりする。現地人の雑踏の中なのに、なぜわざわざ東洋人の顔をした当方に聞くのだろうか、と不思議でならない。日本で外人に道を聞くことは、今でも私には考えられない。

 それだけ、当方には「外人が日本の道を知っているはずがない」という確固たる迷信があるのだろう。アメリカ人として長年、日本文学を研究してきた「蘭学者」キーンさんは、まさにそんな迷信と戦ってきたのである。


■2.「刺し身は食べられますか?」

「外国人には日本を理解できない」という迷信が、どれほど根強く日本人の間に浸透しているか、キーンさんはこんな体験を日本語で行った講演の中で紹介している。

 ある地方で講演を依頼された時のこと、依頼者はキーンさんの秘書に「先生は魚を召し上がりますか?」と聞いてきた。魚は日本人だけの食べ物ではない。もちろん、食べられる。

__________
 しかし、まだ外国人は魚のおいしさを理解できないだろうと思ってか、あるいは私を試そうとしてか、「刺し身は食べられますか?」と聞きます。「喜んで食べます」と言うと、日本人はだいたいがっかりします。「塩辛は?」「納豆は?」外国人が味を理解できそうもないような食べ物を次から次へと並べてみるんです。

「全部食べられる」という返事をすれば、がっかりされるので、あまりにも気の毒ですから私は「いやそれは食べられない」というと、日本人は軽い優越感を覚えるようです。

 そういうふうに日本人は、日本文化を不可解なもの、外国人には理解できないものと、信じたいのではないかと思います。それはまことに残念だと思います。[2,p291]
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■3.「自分たちだけが特別だという確信」

 食べ物ばかりではない。学問の世界でも同じだ。

__________
 日本での生活に一つ不満があるとしたら、それは私の本を読んだことのある人も含めて多くの日本人が、私が日本語が読めるはずがないと思っていることである。

 日本語で講演した後に誰かに紹介されることがあるが、中には英語の名刺を持っていないことを詫び、あるいは名前に読みやすいように仮名が振っていないことを謝る人がある。東大の某教授などは、私が書いた『日本文学の歴史』を話題にして、「あなたが文学史で取り上げた作品は、翻訳で読んだのでしょうね」と言ったものである。[1,p346]
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「翻訳で読んだのでしょうね」と言われた時のキーンさんの憮然とした表情が思い浮かぶ。前節の講演では、多少の抗議も込めて、こう語っている。

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 皆さんの中でも少なくとも三割ぐらいは私は日本の文字を読めない、読めても日本の小学生ほどしか読めないはずだと思っていらっしゃるのではありませんか。しかし、どんなに頭の悪い外国人でも、39年間勉強しましたら、小学生より覚えているはずです。[2,p291]
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 キーンさんは「自分たちだけが特別だという確信を、このように強く抱いている国民が他にいるとは思えない」とまで言っているが[1,p309]、その強い言葉は、こういう経験から来ている。

 ただ、この「特別」というのは、「特別に優れている、抜きんでていく」ということよりも、「特殊」ということだろう。


■4.「『源氏物語』に心を奪われてしまった」

 成人してから日本語を勉強したアメリカ人キーンさんが、中公文庫版で20巻近くある浩瀚な『日本文学史』で『古事記』から三島由紀夫まで論じ、また新潮文庫版で4巻本の『明治天皇』を6万部も売り、毎日出版文化賞を受賞した。その業績そのものが、「外国人には日本文化は分からない」という迷信を打ち砕いている。

 しかし、生粋のニューヨーク子だったキーンさんは、どんなきっかけで日本文化、文学を研究するようになったのだろう。

 それは1940年秋、ドイツがフランスを占領し、英国までも空襲するようになった時期だった。ニューヨークの中心に或るタイムズ・スクエアの、いつも立ち寄る本屋で、ある日、”The Tale of Genji”(『源氏物語』)というタイトルの本が山積みされているのを見つけたことだった。挿絵から、日本に関する本だと察し、買ってみた。

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 やがて私は、『源氏物語』に心を奪われてしまった。アーサー・ウェイリーの翻訳は夢のように魅惑的で、どこか遠くの美しい世界を鮮やかに描き出していた。私は読むのをやめることが出来なくて、時には後戻りして細部を繰り返し堪能した。

私は、『源氏物語』の世界と自分のいる世界とを比べていた。物語の中では対立は暴力に及ぶことがなかったし、そこには戦争がなかった。・・・

 源氏は深い悲しみというものを知っていて、それは彼が政権を握ることに失敗したからではなくて、彼が人間であってこの世に生きることは避けようもなく悲しいことだからだった。[1,p51]
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 遠い国の遠い昔の、戦争のない平和な時代の物語であっても、源氏の「この世に生きる悲しさ」に深く共感したところから、キーンさんの日本文学への道は始まった。


■5.「貴族的プチブル的腐敗した西欧人」

 昭和28(1953)年、キーンさんは京都大学大学院に留学して、京都に住むようになった。その初期の頃に雑誌「文学」から依頼されて書いたのが、『日本文学の古典』という本の書評だった。これは日本文学をマルクス主義に基づいて解釈した本だった。

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私は読んで、愕然とした。この本が『古今集』に触れていないのは、それが貴族によって書かれたもので民衆の手で書かれたものではないからだった。『源氏物語』は、支配階級の矛盾を暴露した作品として取り上げられていた。他の作品が称賛もしくは貶(けな)される基準は、それが「民主的」であるかとうかに掛かっていた。[1,p170]
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 キーンさんが書いた書評は数ヶ月待たされ、その本の著者の一人による反論と一緒に掲載されていた。その著者はキーンさんが依頼されて書いた原稿を「投書」として片付け、キーンさん自身を「貴族的プチブル的腐敗した西欧人」と非難していた。

 源氏の「この世に生きる悲しさ」に共感したキーンさんと、「支配階級の矛盾を暴露した作品」としてしか取り上げない生粋の日本人と、どちらが真の日本文学の理解者かは、言うまでもない。

 日本文化は、外国人でも豊かで素直な感性を持っている人には深く味わえるものであり、生粋の日本人として生まれても空想的理論で頭が一杯になった人間には理解できないものである。いや、日本文化に限らず、すべての文化とはそういうものであろう。


■6.『曽根崎心中』の「道行」

 キーンさんの日本文学研究がどのようなものか、そのごく一端を紹介しよう。キーンさんは若かりし頃、近松門左衛門の浄瑠璃の翻訳に取り組んだ。その中で、相愛の男女が死に場所を求めてさまよう「道行(みちゆき)」の場面が出てくるが、そこで次のような発見をする。

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 ふつう日本人の現代語訳では、「道行」の韻文はただの飾りとして無視され、削除されていた。近松研究家としての私の一番重要な発見は、「道行」の劇的重要性にあったのではないかと思う。

「道行」の間に、徳兵衛も治兵衛も(あるいは、近松のどの世話物の主人公でもそうだが)優男(やさおとこ)から、愛人と心中できる悲劇の主人公へと変貌するのだった。私は、これを「歩きながら背が高くなる」と書いた。[1,p214]
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 私も人形浄瑠璃の『曽根崎心中』を見たことがあるが、この点には気がつかず、いつまで心中場所を求めてうろうろしているのだろう、と思っただけだった。事前にキーンさんの解説を読んでいたら、この物語をもっと深く味わえただろう。

 それにしても、こういう深い解釈に接すると、それを書いている人が日本人か、アメリカ人か、などという事は意識に上らなくなる。人間性の根っこまで到達した表現には、言語や慣習の違いを突き抜けて、人間としての共感を呼ぶ。

 キーンさんが、遠い異国の遠い昔の物語である『源氏物語』に心を奪われたのも、それと同じ事なのだろう。


■7.ヨーロッパに大きな影響を与えた江戸時代の美術品

 優れた文学や芸術は、国境も言語、宗教、民族の違いも超えて、人間の心の奥底で共鳴する。キーンさんの日本文学研究がその卓越した実例だが、こうした例は過去の歴史の中でも事欠かない。キーンさんは「世界の中の日本文化」の講演の中で、日本の江戸時代の工芸品がいかにヨーロッパで評価されたかを、紹介している。

 長崎の出島にはオランダ人が住んで、日本との貿易をしていたが、それは日本がヨーロッパを知る窓であるとともに、ヨーロッパが日本を知る窓でもあった。出島のオランダ人は陶器や磁器を日本から輸出した。

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 陶器はヨーロッパにはありましたが、日本のものと比べると粗末なものでした。日本の陶器に出会って、陶器というのはこういうものだと初めて分かったのです。オランダ人は日本人のまねをするようになりました。[2,p277]
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 それが現在のオランダのデルフトという町に伝えられているデルフト焼きで、日本の染め付けの真似だという。中国も伊万里焼の真似をしていたが、粗末な安物しか作れず、ヨーロッパでは日本のものが高く売れた。それ以外にも、日本刀、浮世絵、漆器、蒔絵(まきえ)、扇子、屏風などが高く評価されていた。

 浮世絵はヨーロッパの芸術家にも大きな影響を与えた。ゴッホのある絵の背景に、浮世絵が描かれている事も有名である。

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 ヨーロッパの19世紀の画家で日本の浮世絵の影響を受けなかった人は、ほとんどいなかったと思います。パリの近代美術館に行きますと、各画家の部屋があって、その中に、アトリエにあったような道具とか、物が置いてありますが、すべての画家のアトリエに浮世絵があったということがわかります。浮世絵はヨーロッパの芸術家に大きな影響を与えました。革命的な影響を与えたともいえるでしょう。[2,p287]
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■8.一つの民族がその文化を深めていけば

 現代日本の芸術も、世界に大きな存在感を示している。たとえば最近、引退宣言をしたアニメの巨匠・宮崎駿。海外でも大きなニュースとなり、引退を惜しむファンの声が寄せられた。[3]

・(アメリカ)いろんな外国映画があるけど宮崎の作品は字幕がいらない。アニメだけで楽しめる。外国の伝承とか昔話を知らなくても、一度観てほしいな。

・(フランス)『千と千尋の神隠し』には衝撃を受けたな。詩的なタッチと日本独特の慣習、民俗が融け合っていた。まさに傑作だし、アメリカのアニメーションとは比べ物にならないレベルだと思うよ。

・(スペイン)彼の作品のストーリーや絵は、まるで夢の断片の組み合わせのようだった。巨匠・宮崎がもう作品を作らないのかと思うと寂しいよ。

 これらの感想は、キーンさんが「源氏物語」に魅了された光景と重なってくる。一つの民族がその文化を深めていけば、他民族の人々も共感できる人類共通の根っこに到達するのである。

 我が先人たちは、そうした深い文化、芸術を豊かに残してくれた。我々はその遺産を受けついだ者として、どれが一つの分野でもいいから、その価値を味わえる教養を身につけたいものだ。文学が好きな人なら、キーンさんという絶好の道案内人がいる。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(478) 世界に愛される"Japan Cool" 〜 『世界の日本人ジョーク集』から
 自動車・家電、マンガ、アニメなど"Japan Cool" が世界の子どもや大人たちに愛されている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h19/jog478.html
b. JOG(636) 台風娘の町興し(上) 〜 セーラと小布施の人々
 長野オリンピックと国際北斎会議を機会に、セーラは伝統文化による町興しに邁進した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h22/jog636.html
c. JOG(578) きものの叡智 〜 愛・美・礼・和
 きものに込められた我が先祖の叡智を知ろう
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h20/jog578.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. ドナルド・キーン『ドナルド・キーン自伝』★★、中公文庫、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4122054397/japanontheg01-22/

2.ドナルド・キーン『果てしなく美しい日本』★★、講談社学術文庫、H14
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4061595628/japanontheg01-22/

3. The Huffington Post「宮崎駿監督引退、海外ファンはどう反応したか?」
http://huff.to/1avtSZ9

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