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野口英世は眠らない
2013/07/07
野口英世 黄熱病との戦い
Japan On the Globe(806) ■■ 国際派日本人養成講座■H25.07.07より転載
人物探訪 : 野口英世、黄熱病との戦い
 黄熱病が流行する赤道直下の港町に野口英世は乗り込んでいった。

■1.ノグチ博士来る

 1918(大正7)年7月15日、南米大陸の北端、ほぼ赤道直下にあるエクアドルの港町グアヤキルに野口英世は上陸した。助手として看護婦たち、医療機器の技術者、薬剤師などを従えていた。同時に臨床医学機器11箱、薬品類4箱、実験用のウサギやモルモットなどが陸揚げされた。

 すでに米国ロックフェラー医学研究所の代表的な医学者として名をなしていた野口のことは、到着以前からグアヤキルの新聞で報道されていたので、出迎えで黒山の人だかりとなった。

 騒ぎを大きくしたもう一つの理由は、同じ船に乗っていたオペラ歌手のマリア・エバントス一行が、グアヤキルで黄熱病が流行し、町の通りで死ぬ者がいると聞いて、上陸を拒否し、出演契約を破棄すると言い出したことだった。

 グアヤキルはほぼ赤道直下にあり、海抜5メートル。高温多湿で、黄熱病の他にマラリア、ペスト、赤痢、腸チフスなどの感染症の温床で「蚊が多く汚い港町」と言われていた。公衆衛生対策も整わず、オペラ歌手たちが怖がるのも無理からぬことであった。

 身長わずか153センチの野口は、当時の東洋人としても小柄だった。その野口が真っ白のスーツ姿にゲートルを巻いた猛獣ハンターのような奇抜な格好をして現れた。翌日の現地の新聞の第一面には、その写真が大きく掲載された。新聞記者には「ゲートルを巻けば蚊が防げるから、足の方には神経を使わないで研究に専念できるでしょう」と答えている。

 さらに新聞は「ノグチが他の博士たちと異なるのはスペイン語を話すことだ」とも報じた。野口は上陸第一声を現地の人々に直接伝わるようスペイン語で語ったことが、彼等の興味をさらにそそった。
 その一週間前に米国ロックフェラー財団が組織した黄熱病委員会調査団の野口以外のメンバーが到着していたが、彼ら米国人はスペイン語を学ぶことなど、念頭になかっただろう。

 もっとも野口がスペイン語を勉強し始めたのは、わずか1年ほど前に過ぎない。英語、ドイツ語、フランス語、デンマーク語を話す野口は、外国に溶け込むには、その国の言葉を学ばなければならない、と考えていた。ロックフェラー医学研究所でも、「野口英世は眠らない」との伝説を生むほど研究に打ち込んでいたが、その勢いでスペイン語も習得したのだろう。


■2.「優秀でファイトのある医者はいないか」

 野口がグアヤキルに来たきっかけは、その4年前の1914年8月に開通したパナマ運河だった。パナマ運河建設に最初に取り組んだのはフランスのパナマ運河会社だったが、その足を掬ったのが黄熱病だった。

 通常、黄熱病は突然、発症し、頭と腰が痛む。発病の日から吐き気を催し、白眼が黄色みを帯び、黄疸(おうだん)は身体中に広まる。発病後5、6日で死亡するのが普通だが、7日目になっても死ななければ助かるチャンスもある。この黄熱病で、大勢の建設労働者やフランス人工事関係者が死んでいった。それが一因となって、同社は破産して、工事は頓挫する。

 運河建設事業を引き継いだアメリカは黄熱病対策に取り組んだ。「黄熱病は蚊が媒介する」という説に基づいて、4千人もの人員を投入して、近隣地区のゴミを焼却し、ドブをさらって徹底的に清掃を行った。これが奏功して、黄熱病発症の数も減少し、運河建設は成功した。

 しかし、運河を通る船が寄港するグアヤキルなどで黄熱病対策を講じなければ、パナマもすぐ元の状態に戻ると考えられた。そして、この地から黄熱病を一掃できれば、メキシコ、ブラジル、ペルーなどの保健衛生問題は容易だろうと米国は考えた。米西戦争でスペインを破ったアメリカは、中南米諸国に覇権を伸ばそうと狙っており、その一環として「黄熱病撲滅」が必要だった。

 まずはエクアドルの黄熱病を叩かねばならない。危険な現地に赴いて、その病原菌を解明できるような優秀でファイトのある医者はいないか、との問い合わせに浮かび上がったのが、ロックフェラー医学研究所のドクター・ヒデヨ・ノグチだった。


■3.自分達を苦しめている伝染病と戦ってくれる「義人」

 エクアドルに来る時点で、「ドクター・ヒデヨ・ノグチ」の名前は梅毒スピロヘータの純粋培養、小児麻痺と狂犬病の病原体の発見などの業績で、世界的に広まっていた。ロックフェラー医学研究所の4人しかいない正式メンバーの一人であり、血清学会の会長にも選出されていた。

 その「医学界への貢献」に対して、スペイン、デンマーク、スウェーデン政府から、勲章を授与されていた。1914年にはノーベル医学生理学賞の候補にも挙げられたが、第一次大戦の勃発で受賞そのものが中止となった。

 グアヤキルの人々から見れば、世界的に著名な医学者が危険をものともせずに熱帯の僻地までやってきて、自分達を苦しめている病気と闘ってくれる。しかも、自分達の言葉まで覚えて。そんな野口の姿は現地の人々には「義人」と映ったようだ。

 野口が現地に滞在した約3ヶ月半の間にグアヤキルのエル・テレグラホ紙は43日間、平均すれば週に3回ほどのペースで、ドクトル・ノグチと黄熱病関連の記事を掲載し続けた。


■4.「人間発電機」

 到着の翌日から黄熱病検疫所の2階の1室を借りて仕事を開始し、深夜まで研究室に留まって実験を繰り返す野口は、現地の人々から「人間発電機」と呼ばれた。

 野口を中心とするロックフェラー医学研究所の黄熱病委員会調査団のアーサー・ケンダル団長は、野口の仕事ぶりについて、次のように手紙に書いている。

__________
 彼の熱意たるや恐るべきもので、今日まで彼の要求には全然ついていけたことがない。・・・ 野口は思いつくとすぐに指示を発する。私はありとあらゆるかたちの要望を受けた。・・・そのため私は寸秒も落ち着くひまがなかった。私の扱っている会計はめちゃくちゃになった。[1,p40]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 野口の研究を助けたのは、検疫医師のレオポルト・イスキエタ・ペレスとウォンセスラオ・パレハ博士の二人であった。彼らも野口に猛烈に鍛えられたのだろう。やがてエクアドル医学界の指導者になった。

 野口が研究のためにエクアドルの小動物について知りたがっているという噂が広まると、子供たちがイモリやヒキガエル、亀などを持って研究所にやってくるようになった。そのたびに野口は仕事の手を休めて、子供たちの相手をした。小動物のどれかが黄熱病の病原体を保有しているかもしれない、と考えていたのである。


■5.「ロックフェラー黄熱病委員会 黄熱病の病原体を発見」

 パレハ博士は、黄熱病の疑いのある患者を毎日診察して、その結果を野口に報告していた。彼が診察した先住民の娘は、まもなく死亡したが、その血液の培養結果を見た野口は、「やったぞ。これは黄熱病の病原体に違いない」と小躍りして喜んで、臨床実験を夜遅くまで続けた。

 グアヤキルに到着してわずか9日目のことだった。そして黄熱病と診断された27名の患者のうち、6名から同じ微生物が発見された。

 7月27日付けのエル・テレグラホ紙の第一面に「ロックフェラー黄熱病委員会 黄熱病の病原体を発見」という大見出しの記事が掲載された。最終的な検証が行われる前に新聞に公表されたのは、ロックフェラー医学研究所が、その成果をいち早く国際的にアピールしようとした思惑からだった。

 アーサー・ケンダル団長は、エクアドルの首都キトに赴き、厚生大臣(後の大統領)イシドロ・アヨラに報告した。エクアドル政府が彼の報告を受け入れたので、調査団は9月10日に帰国することにした。業績のPRさえできれば、あとは一日も早くアメリカに帰りたいと願っていたかのようである。

 しかし、野口は一人残って、黄熱病のワクチンを開発しようとした。病原菌の発見だけでは学問的成果ではあっても、人々は救われない。ワクチンを作って成果をあげてこそ、人を救う医学である。


■6.ワクチンで多くの陸軍兵士が救われた

 野口はロックフェラー医学研究所の所長サイモン・フレキシナー博士に次のように報告している。

__________
 動物実験をしたところワクチンに効果があったようです。私の実験は秘密にしておくことはできずにおります。段階を追った臨床実験の正式の公表はありませんが、当地の医者たちにはわかっています。パケリソ大統領の要請で山岳地帯の兵士に予防注射をうちに首都のキトに赴きました。[1,p41]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 9月16日、パレハ博士に伴われて野口は汽車で首都キト市を訪れた。そこには山岳地帯の陸軍の兵士たちが、ワクチンの実験のために集められていた。9月19日付けのエル・テレグラホ紙は、野口と陸軍兵士を登場させた風刺漫画で、次のような会話を載せた。

__________
 私のワクチンがよい結果を出すためには注射の前に石鹸を用いて入浴する必要がある。

 えっ! やめてください。黄熱の方がましです。[1,p42]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 熱の出るワクチンを恐れ、慣れない入浴を兵士がいやがっていた様子が風刺されている。それはともかく、野口の製造したワクチンで多くの陸軍兵士の命が救われた。


■7.「グラシアス、ドクトル・ノグチ!(野口博士、ありがとう)」

 野口の開発したワクチンが効果を発揮したことを知ったエクアドル国民は大喜びした。グアヤキル大学では教授会で「ドクトル・ノグチに医学部名誉教授の称号を授与し、肖像をメダルに彫って大学の会議室に飾ること」を満場一致で決議した。

 その後、首都のキト大学、クエンカ大学も名誉教授の称号を贈った。エクアドル陸軍は、野口を陸軍名誉大佐ならびに名誉軍医総監とし、軍服一式と剣を贈呈した。これらは現在、福島県猪苗代町の野口英世記念館に陳列されている。

 10月23日の夜、帰国を前にした野口のための謝恩送別会がグアヤキル市のオルメド劇場で開催された。政府、軍、市、医学界などの代表者が集まり、円形のオペラハウスは3階まで満席となった。エル・テレグラホ紙の社主が次のような演説をしたことが、翌日の同紙第一面で報じられている。

__________
 なにとぞ全国民の感謝の声をお聴き下さい。これは過去の悲劇のために恐怖のうちに生活を営んでいた国民の声であります。あなたの業績のおかげで平野は沃土(よくど)となり、国は富み栄えることでしょう。・・・「ドクトル・ヒデヨ・ノグチ」の名がエクアドルから消えることは断じてありません。[1,p43]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 野口は英語とスペイン語で答辞を述べた。そして、その最後に「もし、お国が私を必要とするとき、私は誰よりも先に馳せ参じましょう」と結んだ。会場を埋めた人々は立ち上がって、「グラシアス、ドクトル・ノグチ!(野口博士、ありがとう)」と叫びながら拍手を送った。

 10月27日、野口は中央桟橋からランチに乗り、英国船に乗り込んだ。大勢の人々がランチで見送る。汽笛一声、船が動き出すと、人々は「ビバ、ドクトル・ノグチ(野口博士万歳)」とランチから叫び、帽子やハンカチを大きく振った。


■8.「エスクエラ・フィスカル・ヒデヨ・ノグチ(野口英世小学校)」

 グアヤキルは今や人口5百万人の大都市に変貌し、野口が研究した黄熱病検疫所は国立公衆衛生研究所となり、文化財建築に指定されている。そこには野口の肖像付きのプレートが飾られ、ここで「野口英世が黄熱病の病原体を発見した」という碑文が掲げられている。

 その右側にもう一枚のプレートがあり、「左に記した野口の発見は誤りであり、のちに修正が加えられた」ことを告げている。野口が発見したのは、黄熱病と良く似た症状を起こすワイル氏病の病原体であったようだ。黄熱病の病原体はウィルスであり、野口が使っていた光学顕微鏡では見ることができなかった。その発見にはこの15年ほど後の電機顕微鏡の発達を待たなければならなかった。

 学問的に野口の発見が黄熱病の病原体ではなく、ワイルス病であったとしても、彼が危険を冒して現地に乗り込み、その地の多くの人々を救い、またそこで後の医学界のリーダーを育てたという功績に対する人々の感謝は変わらない。グアヤキルの2枚のプレートは同地の人々の自然な気持ちだろう。

 野口を首都キトで迎えた厚生大臣イシドロ・アヨラは後に大統領となってから、キトの北東にある野口が立ち寄った小学校を「エスクエラ・フィスカル・ヒデヨ・ノグチ(野口英世小学校)」と命名した。あちこちに野口の写真が飾られ、学校行事のある時にはエクアドル国旗、キト市の旗とともに、日章旗が飾られる。

 野口はエクアドルの後も、黄熱病の研究でメキシコ、ペルー、ブラジルと10年間、中南米を回って、各地で後継者を育成し、同様に胸像、レリーフ、あるいは「ノグチ通り」という名称で顕彰された。そして最後は、1928(昭和3)年5月21日、アフリカ・ガーナのアクラで、自ら黄熱病にかかって亡くなった。最後まで、危険をものともせず、医学で人々を救おう、という志は変わらなかった。

 千円札を見ていただきたい。そこに使われている野口英世の肖像は、エクアドルに出かけた時のものだという。気負いも衒いもなく、おだやかにまっすぐに見つめる眼差しは、ただ人々に対する慈愛が籠もっているように感じられる。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(463) 北里柴三郎 〜 大医は国を治(ち)す
 医の真道は人民の健康を保ち、その業を務めしめ、もって国家を興起富強ならしむるにあり。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogdb_h18/jog463.html

b. JOG(383) サムライ化学者、高峰譲吉(上)
 大勢の飢えた人々を一度に救える道として、譲吉は化学を志した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h17/jog383.html

384 サムライ化学者、高峰譲吉(下)
「日本は偉大な国民の一人を喪ったとともに、米国は得難き友人を、世界は最高の化学者を喪った」
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h17/jog384.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)

1. 山本厚子『野口英世は眠らない』★★★、集英社、H16
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4777710025/japanontheg01-22/

Sea-Tacニューズレター vol.34 2013年7月4日配信
2013/07/05
Contents ★今シーズンのザトウ★     
     ★急ぎ足・・・?★
     ★浅い海域で★
     ★遺産登録後★
     ★夏の着発便★
     ★南島への上陸★
     ★Tomocolumn 26「あかぽっぽ」★
     ★配信停止のご連絡★

こんにちは、SHIHOです。
日差しが強くなりましたね。じりじりと私のヤワ肌を焦がし、気がついたら真っ黒に日焼けしています。今年はマメに日焼け止めを塗っているのにな〜。絶対焼けない日焼け止めってやっぱりないのかしら。あまり強い日焼け止めだと、私のヤワ肌(しつこい?)に良くないし・・・。どなたか、お勧めがありましたら、教えてくださ〜い。
とは言え、この季節は海遊びが最高に楽しい。アオリイカ釣りや穴ダコ獲りは、面白いし、美味しいし、一石二鳥。
スノーケリングやダイビングは、水温が徐々に上がってきたので、”寒さ”から解放され、ノンストレスで水中を満喫。
冬に比べると海況も穏やかな日が多くなり、イルカも見つけやすい。ドルフィンスイム本番の到来。
考えただけでもワクワクの季節。あ〜、海に行きた〜い!だから、お勧めの日焼け止め、教えてくださ〜い。

★今シーズンのザトウ★
今シーズンもたくさんのザトウクジラと出会いました。中でも印象に残っているのは、”キズシロちゃん”。傷だらけの若いクジラで、その傷跡のせいで全体が白く見えるのです。
”キズシロちゃん”は、いつでも元気でした。胸ビレや尾ビレで海面を叩いたり、ブリーチしたり、船に近付いてきたり。私たちが喜ぶポイントを、憎らしいくらい押さえたヤツなのです。
ある時は、1時間以上アクティブな行動を続ける”キズシロちゃん”を見ながらランチにしました。ある時は、船のすぐ近くに来て仰向けになり、長い胸ビレをひらひら振っていました。近くで見られるのは嬉しいけど、少しは警戒心を持たないとまた傷が増えるぞ・・・と心配になるくらい。
そんな”キズシロちゃん”は、人間だけではなくイルカからも人気があったようで、イルカに囲まれて一緒に泳いでいる姿もよく見かけました。しかも、ミナミハンドウイルカ・ハシナガイルカの両方とも!!でも、”キズシロちゃん”のほうは、まとわりつくイルカたちがちょっと鬱陶しそうでしたが(笑)。
”キズシロちゃん”も旅立ってしまったのはちょっとだけ寂しいけど、いっぱいいっぱい楽しませてくれてありがとうね。また来シーズン会おう。傷が増えてないことを祈ってるよ。(しほ)

★急ぎ足・・・?★
ガス陽気・ザトウクジラシーズン・梅雨入り。今年は、どれも早めでした。
カメの産卵が始まるのも早かったようです。例年なら5月中旬から多いのですが、4月の終わりには南島の砂浜にカメの足跡がありました。
今年は、何もかもが早いな〜、と思っていたら、ずいぶん遅く、6月1日にザトウクジラの親子が確認されました。まだ小笠原にいたのですね。でも、お母さんクジラはお腹ペコペコなはず。気をつけて、早く北の海までいってらっしゃい!また来シーズンに待ってるから!!
このまま、梅雨が駆け足で去ってくれると嬉しいです。梅雨明けには、陽射しが強くなり、水温も上がるでしょう。
もうすぐ小笠原に暑い、アツい夏がやってきます!
どうか、夏は、ザトウクジラのようにゆっくり過ぎていきますように。(YURI)

★浅い海域で★
まだ水温は冷たく、ドルフィンスイムでは少しヒヤッとしますが、イルカたちとの良い出会いが続いています。
それも、沿岸の浅い海域で会うことがよくあります。兄島の滝之浦でスイムしたり、キャベツビーチでスノーケリングしてるときに背ビレを確認したり。
また、南島周辺でポンと水中に入れば、白砂が広がる美しい景観を背景に、イルカたちを観察できます。
深い海域でのスイムでは、イルカが潜ってしまうと見失いがちですが、底が見えているので、いつまでもイルカを見ていられます。また、彼らがからだを海底の砂にこすりつけているところや、のびのびとイルカ同士で遊んでるところなども良く見えます。
こんなふうに、いつも浅瀬にいてくれると嬉しいのだけどな〜。(YURI)

★遺産登録後★
世界自然遺産に登録されて、2年が経ちました。リピーターさんから、「小笠原、変わってない?」とよく聞かれます。気にされてるかたも多いようですので、私が思う、”登録前と登録後で変わったこと”をお話しさせていただきましょう。
大きく変わったのは、客層です。高齢のかたが増えました。そのせいばかりとはいえませんが、事故が多くなりました。海で溺れた、山で怪我した、レンタバイクで転んだ。島内の医療では対処できないことも多く、飛行艇を飛ばす回数も増えました。
そして、団体旅行が増えました。旗を持った添乗員さんに続いて、大勢が道いっぱい広がってゾロゾロ歩いているのをよく見かけます。
また、「小笠原」に行きたいのではなく、「世界遺産に登録されている場所」に行きたかったから、という観光客が増えました。残念ながら、自然を守ろうという意識が薄いのでしょうか、町や海岸や山の中のあちこちでゴミが目立つようになりました。
ルールを守れない人が多くなり、上陸したカメにまたがって写真を撮ったり、産卵巣を掘り起こしたり、ガイド同伴でないと入れない場所にガイドなしで入って、注意したら逆ギレしたり。
でも、こういった観光客が増えたのは、私たち島民側の力不足もあるのかもしれません。伝える力がまだまだ足りないのでしょう。自分を高めるいい機会をもらったと思うことにしています。
もちろん、そういった方ばかりではないです。私たちの話に真剣に耳を傾けてくださる観光客もいらっしゃいます。また会いたいなと思う、素敵な方たちにも出会ってます。
「小笠原、変わってない?」と聞かれたら、「変わりました。以前よりもっともっとよくなりました!!」そう言えるように、ガイドとして力をつけ(よし、頑張るぞ・・・)、皆さまの大好きな美しい小笠原を守っていこうと、改めて思っています。
だから、皆さま、あまり心配なさらずに、ぜひ遊びにいらしてくださいね!(しほ)

★夏の着発便★
おがさわら丸は、7月16日東京発便から8月30日東京着便まで、父島着発となります。11時30分に父島に到着して、14時に出港です。今年の3月と同様、東京に2泊することもありますので、小笠原往復の日程が6日間か、7日間になります。
おがさわら丸以外にも、ぱしふぃっくびぃなすやにっぽん丸も来島予定です。
混雑する時期でもありますので、どうぞご計画とご予約はお早めに!
また、おがさわら丸の来年3月までの運航スケジュールもすでに発表されてます。どうぞ年末年始のご計画も!(TOMOKO)

★南島への上陸★
昨今のツアーお問い合わせで、必ずといっていいほど聞かれるのが、南島についてです。イルカよりもクジラよりも、とにかく南島へ!というかたが増えました。
Sea-Tacのツアーでは、海況さえ良ければ、扇池から泳いで上陸します。植物の種や地中生物を持ち込まないようにとの配慮でもありますし、なにより、泳いで白砂の浜へ上陸するのは気持ち良いですもの。ときによっては、ボートを乗り換えてサメ池から上陸することもあります。
上陸後は、サメ池、扇池、東尾根とご案内します。建造物を作ることができない南島では、平らな桟橋も手すりもありません。険しい岩場を、手を使ってよじ登ることになります。狭いでこぼこの道を一列縦隊で歩きますので、歩きがおぼつかないかたにガイドが手助けすることもできません。
最近、南島で転んで骨折したり、海まで落ちたり、という事故例がかなり増えています。
おひとりでは歩けないかた、杖が必要なかた、どうぞ上陸はあきらめていただいて、ボートから南島ウォッチをお願いします。
あるがままの自然の中に入るにはそれなりの体力や運動能力が必要なときもあるのを、どうぞご了解下さい。(TOMOKO)

★Tomocolumn 26「あかぽっぽ」★
部屋で机に向かっていると、我が家の庭からミシッミシッと草を踏む小さな音がします。・・・ん? この音は?
そーっと窓際に寄って、カーテンの隙間から庭を覗きこみます。・・・いました、いました!アカポッポこと、アカガシラカラスバトです!
まさしくハトの姿形だけど、頭がピンクで、首のつけねが紫と緑に輝く美しさ。胴は、内地でよく見るハトの灰色ではなく、もっと濃くて黒っぽいです。室内のかすかな動きを察知したのか、ふと足を止めたハトは、こちらが息を潜めてると、やがて安心したようにまた歩き出しました。
あらあら、その後ろからもう一羽が現れました。こちらはまだ若い、クロポッポだわね、頭がピンクではなくて、黒です。一歩づつ歩いては、しきりに落ちてる木の実をついばんでます。
こんなふうに、家の中にいながらにしてアカガシラカラスバトが見られるなんて、20年前には想像もできませんでした。その頃、このハトは、父島ではすでに絶滅していて、母島でだけ数羽が残るとされてました。母島でたまたま見たという人の話を聞いては、それはそれは羨しく思ったものです。
そんなアカポッポが、実は、父島母島間を飛んで行き来してるのだとわかってきました。絶滅危惧種であるアカガシラカラスバトの保護活動が始まってから5年、その甲斐あって、40羽程度と考えられていたのが100羽にも増えたのです。
今では、我が家の庭のみならず、イヌの散歩中にばったり遭遇したり、遊歩道でひょいっと見かけたり。会うのがごくごくまれではなくなりました。お祭り広場にいたよ、とか、道端のガードレールに停まってたよ、とかいう噂も聞きます。
林の中にいるはずのハトがこうして町中へも現れるようになったのは嬉しくもあるけれど、でも、新たな問題も起きています。
安全な林の中とは違い、町にはいろいろな危険があります。車とぶつかったり、飼い猫に襲われたり、ガラス窓に激突したり。この一年でなんと10羽ものハトが事故死してしまいました。かなりの高い率です。
また、観光客がアカポッポを追いかけて民家にまで入り込むという問題も起きているようです。実際、我が家でも、カメラを構えた観光客が庭を覗きこんでいたことがあります。申し訳ないけど、よその人に庭に入るのはご遠慮いただいてます。というのも、研究者から、近くに人がいると(当然ながら!)ハトが怯えると聞いたからです。我が家を訪れたハトも、室内からだけ見ることにして、私自身は決して庭には出ません。その方が、よっぽど自然に動いてるハトをゆっくり観察できて、相手もあんがい窓の近くまでやってきちゃうことがあります。
それにしても、増えたとは言え、まだたったの100羽しかいないトリです。相変わらず絶滅の危機にあるこのトリが、ヒトの不注意や思わぬ事故によって失うなんて、ゼッタイに避けたいものです。ハトとヒトとが、どうしたら互いに迷惑をかけずに生きていけるのか、これからの共存の道を模索しなくては。
我が家をひんぱんに訪れていた「ライム06」ちゃんや「グリーン23」くん、まさか事故に遭っていませんように。まだ若かった彼らが、どうか無事にオトナになって、次の世代に命を繋げてくれますように。(TOMOKO)

尖闇「棚上げ」なかった
2013/06/21
読売新聞130620『語る 歴史問題 中』より転載

中央大教授 服部龍二氏
 拓殖大助教授、中央大准教授などを経て、2010年から現職。専門は日本外交史。著書に「広田弘毅」「日中国交正常化」など。44歳。

沖縄県・尖闇諸島を巡って中国側から「棚上げ」発言が相次ぐ中、野中広務・元宣屏長官が訪問先の北京で、1912年の日中国交正常化後に田中角栄首相(当時)から聞いた話として「棚上げを確認した」と発言した。だが、日中間係史に詳しい服部龍二中央大教授は懐疑的だ。

 72年9月25日から29日までの間、北京で4回にわたって行われた日中首脳会談のやりとりを日本の外交記録で見ると、田中首相が27日の第3回会談で「尖閣諸島についてどう思うか」と話題にしかけましたが、中国の周恩来首相が「今回は話したくない。今、これを話すのは良くない」と遮っています。やりとりがあったのは事実ですが、明確に棚上げ合意があったとまでは言えないと思います。中国は尖闇諸島について何らの文書化も求めなかったようです。
 そもそも、国交正常化に結びついた「竹入メモ」で、周首相は「尖閣諸島の問題に触れる必要はない」と述べています。田中首相に同行した大平正芳外相も、中国が正式にこの問題を提起したとはみなさなかったようです。大平外相は72年10月にオーストラリアでウイットラム労働党党首と会談した時、尖閣諸島について「北京訪問の際、議論しなかった。国交正常化という大きな問題を解決しなければならない時、中国側がマイナーな問題を取り上げるのは賢明ではないと判断していると感じられた」と話したという外交記録も残っています。
 尖閣諸島に言及した田中首相の意図は、中国への反発が根強かった自民党内への配慮から、できれば日本の領有権の言質を取って帰ろうという思いだったとみています。

 中国の論理矛盾を感じる
 中国側の棚上げ論には矛盾も感じます。仮に72年に棚上げで合意していたとすれば、中国が92年に制定した領海法で尖闇諸島を領土と明記したことや、中国公船が島の周辺にたびたび近づいていることは、明らかに違反しています。中国が棚上げ論を持ち出すのは、日本の行動に制約を加えようとする時が多いようです。

領土巡る発言慎重さ必要
 尖闇諸島に関して鳩山元首相が「係争地」と述べて中国側に絶賛されるなど、政治家の発言が「中国側に利用された」と批判されるケースが相次いでいる。領土に関する政治家の発言は、格別な慎重さを要します。尖閣諸島は歴史的、国際法的にみても日本の領土であり、特に政府要人だった人の発言は、日本国内の世論の分断にも利用されかねません。官房長官、自民党幹事長まで務めた野中氏が、安倍政権と正反対のことを言うのは不思議な感じがします。
 国交正常化交渉の時、台湾の扱いや戦争の法的終結など、尖闇よりもっと大きな争点があったにもかかわらず、日中両首脳は会談しました。毛沢東主席は、田中首相と周首相に「けんかは済みましたか。けんかしないと仲良くなれませんよ」と語りかけたそうです。その含むところは、政治を動かすには、トップ同士が会って話さないと打開できない、ということではないでしょうか。(聞き手 塩見尚之)

野中氏「聞いた」官房長官不快感
 野中氏が今月3日、北京で中国要人と会った後に開いた記者会見によると、72年の日中国交正常化後、田中首相は自民党田中派研修芸云で行った講演で、周首相との会談について「尖閣諸島については棚上げすることで、将来話し合いができるようになるまでは静かにやっていこうという話だった」と述べたという。野中氏は記者会見で「明確に聞いた」と強調した。
 野中氏は8日のBS朝日の番組でも、田中首相が周首相との会談で尖闇諸島に言及したことに閲し、「大平外相が『田中さんが帰国した時に(自民党内で)批判されるから、一言言っておかないといけなかった。静かに行きましょう』と言って、棚上げになった」との田中首相発言を紹介した。だが、これらのやり取りは外交記録にない。
 政府は「棚上げで合意した事実はまったくないし、棚上げすべき領土間題が存在しない」(岸田外相)との立場だ。菅官房長官は5日の記者会見で、「確たる根拠も示さないで、伝聞で聞いた話を中国でわざわざ発言された。非常に違和感を覚える」と述べ、野中氏への強い不快感を示した。

 竹入メモ
 1972年7月25日、公明党の竹入義勝委員長が中国を訪問し、29日まで3回にわたって周恩来首相と会談した内容を記録したもの。中国側が対日賠償請求権の放棄、日米安全保障条約の容認などの日中共同声明案を示した。竹入氏は帰国後、田中角栄首相に会談内容を伝え、日中国交正常化に向けた田中首相の決断につながった。

橋下氏正しいが舌足らず
2013/06/20
読売新聞130619『語る 歴史問題上』より転載

 いわゆる従軍慰安婦を巡る日本維新の会・橋下共同代表の発言など、政治家が歴史問題で持論を展開し、波紋を広げることが後を絶たない。参院選で争点化しようとする動きもある中で、冷静な議論はできないのか、専門家に語ってもらった。

現代史家 秦郁彦 大蔵省勤務を経て、米プリンストン大客員教授、拓殖大、千葉大、日大教授などを歴任。著書に「南京事件昭和史の謎を追う」など多数。80歳。

 橋下氏は慰安婦に関して「軍を維持するとか、規律を維持するには当時は必要だった」などと述べた。一連の発言について、「慰安婦と戦場の性」(新潮選書)を著した現代史家の秦郁彦氏は「事廣関係は大筋で正しいが、舌足らずだった」と指摘する。

 当時の政府、軍の上層部が慰安婦を必要だと判断したのかといえば、その通りです。戦後の日本に慰安婦は存在しないのに、橋下さんが「現在も必要だ」と考えるはずはないでしょう。「旧日本軍だけが抱えた問題ではない」と外国に向けた問題提起も決して悪くない。唯、事実関係にうろ覚えのところもあり、曲解されてしまいました。
 もちろん、政治家として場所やタイミングをわきまえての発言だったかどうかという問題は別です。
 在日米軍幹部に対する「風俗業」活用発言は茶飲み話ならともかく、公的な立場で公的な話をしている時にそんな話をされれば、相手も答えに困ります。相手の了解を得ないでやりとりを公開したのも問題でしょう。

 軍による慰安婦の組織的な強制連行を裏付ける証拠は見つかっていない。にも関わらず、今なお政治問題化するのはなぜか。

当時。国内では売春を職業として公認し監督する公娼制度がありました。公娼制をとっている国は今でもヨーロッパなどあちこちにあります。慰安婦も公娼制が戦地に移行しただけといえます。レイプと性病の防止が主な理由で、合法的だったことを現在の視点から謝罪や補償の対象とするのは法常識に反します。
 戦前の朝鮮半島で発行されていたいくつかの大新聞新聞に朝鮮半島で発行されたいくつかの大新聞に「月収は300円以上」とある慰安婦募集の広告が出ています。兵士の月給が10円以下の時代ですから、30倍にもなります。
 強制連行を主張する「運動体」の人たちは慰安婦を「性奴隷」と呼びますが、こんなに収入のある奴隷なんてあり得ないでしょう。そもそも奴隷と呼ぶこと自体、失礼であり侮辱です。
 戦後70年近くたち、出るべき資料は出尽くしている。強制連行の「証拠」はもう出てこないでしょう。それでも内外の「運動体」は常に機会をうかがっています。

動体」は常に、機会をうかがっています。何かあれば食いつき、マスコミを巻き込んで大騒動にしてやりたい、と。海外で日本批判に火がつく時、まず彼らがけしかける構図になっていて、橋下さんが批判にさらされたのもその延長線でしょう。

「慰安婦」日本人著作の英訳化を
 私の持論は、日本人の書いた学術的な著作の英訳化です。現在、私の著書を含めてほとんど翻訳されていません。これは社会科学の領域全体の問題点でもあります。
 やはり、海外でそうした著作を読んでもらうことが有効です。そうなれば、誤解や偏見も次第に減っていくはずです。そのためにも、専門知識を持つ外国人翻訳家の活用が必要です。

参院選で争点化すべきでない
 河野談話回を見直すなら、破棄しないとつじつまが合いません。安倍首相は戦後70年に合わせて談話を出すとおっしゃっているようですが、関連の閣議決定や河野談話が併存する形だと、外国人には理解されないでしょう。
 参院選で慰安婦の話を争点にすべきではないというのはその通りです。民主党は維新の会を「極右政党」と攻撃していますが、政権担当経験を持つ政党がそんな言い方で騒ぐのはいかがなものか。票が増えるとはとても思えませんが。 (聞き手 谷川広二郎)

 立場は一貫 発信を継続
 橋下氏の発言は、5月13日、大阪市役所で常時行っている記者団とのぶら下がり取材で出たもので、「軍を維持するとか、規律を維持するには当時は必要だった」というものだった。取材では、在日米軍司令官に「風俗業」の活用を提案したことも明かし、この部分はのちに「不適切な表現だった」と謝罪、撤回した。
 しかし、慰安婦に関しては、橋下氏は「(日本への批判が)国家の意思として女性を拉致、売買したということにあるのであれば、事実と異なる」「戦場の性の問題は、旧日本軍だけが抱えた問題ではない」(5月27日、日本外国特派員協会での講演)という立場を一貫して取っている。
 最近も自らのツイッターで「日本は敗戦国で、反省やお詫びをしなければならないことはたくさんある。しかし、不当な侮辱には抗議しなければならない。ホロコースト(独ナチスのユダヤ人大量虐殺)と同じだと言われれば、それは事実と違うと言わなければない。(6月15日)、「日刊の歴史家が共同作業で日本が国家の意思として組織的に女性を拉致し人身売買したのか否かにお事実を明確化するしかない。共同作業を以てしても100%事実が明確化しない場合もある。それでも今よりすこしでも明確化すれば前進だ」(6月16日)などと、積極的に発信を続けている。

「心証」を重視 誤解を広げる「河野談話」
慰安婦問題を巡る韓国の反発を受け、1993年年8月4日、当時の河野洋平官房長官が発表したもので、慰安婦に対する「おわびと反省」を表明している。ただ、韓国が当時、「強制連行」を認めるよう外交圧力を強めていたことを背景に、談話には、慰安婦の募集について「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」という文言が含まれている。
 実際には、河野談話をまとめた段階でも強制連行を裏付ける資料は見つかっておらず、当時の石原信雄官房副長官は後に、元慰安婦への聞き取り調査の担当者の「心証」を重視し、「総合判断して、その意に反して慰安婦にさた人たちがいることは間違いないということになった」と証言している。当時の日本政府は河野談話によって日韓関係の改善を期待したものの、かえって「日本が強制連行を認めた」という誤解を世界に広める結果を招いた。
 第一次安部内閣は2007年3月16日、「政府が発見した資料の中には軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」とする答弁書を閣議決定し。強制連行の証拠がないことを改めて示した。

「ミス・コリア候補二十人、全員が姉妹?」
2013/06/18
韓国はとうに儒教の国ではない ―関川 夏央
「週刊ポスト2013.6.25『やむを得ず早起き』より転載

 こんなのが出ていたよ、と年長の韓国人が教えてくれたのは韓国のネットのコピーである。
 米ニュースサイトの再紹介で、タイトルは「ミス・コリア候補二十人、全員が姉妹?」。韓国の「異常な」整形ブームを皮肉った記事で、米英の新開にも転載されたという。
 候補二十人の写真が並べてある。みなさん美しいが、みなさんよく似ている。顔の細さ、目鼻立ち、眉、そっくりだ。
 髪形は多少違っていても、結局は銀座ホステス風だ。二十人に血縁関係はないというけれど、これでは全員が姉妹どころか、髪形と衣裳だけをかえた本人の写真二十枚、といっても信じるだろう。
 米サイトの「レディット」では、この美女たちを「二〇一三年ミス・コリア選抜大会」の候補者としているが、韓国のネット「東亜A」では「二〇一三年ミス大邸(テグ)選抜大会」の候補者たちだと訂正した。しかし、ことの本質はかわらない。アメリカの投稿は、「全部同一人物じゃないの?」「整形したらそっくり同じ顔になっちゃったんだねえ」と驚きの声ばかりだ。
 韓国系でソウル出身の投稿者は、「彼女たちはほんとうによく似ていますねえ。実際、ソウルの繁華街へ行ってみると、若い女性全員が姉妹かと思うでしょうね」と書いた。別の韓国系の年配女性は、「整形手術を受けた若い女性たちは、もう韓国人に見えない。目の手術など、お化粧とおなじだと手軽に考えているみたい」と嘆く。
 整形に対する両洋の態度の違いを指摘する声もある。
「西洋女性は、唇を厚ぼったくするとか、胸やお尻を大きく見せるとか、固有の特徴をさらに目立たせるために手術する。一方、東洋の女性は顎を削ったり、特徴が目立たないようにしたくて手術を受ける」のだそうだ。「目立つ」、韓国語の「トッポイダ」は日本語に流用されて「とっぼい(悪目立ちする)」にかわったが否定的な意味は本来ない。
 二〇一二年にミス・コリア一位だったキム・ユミは、選ばれた直後、ネット上に過去の写真をアップされて整形疑惑を指摘された。
彼女は「目と鼻をいじりました」とすぐに告白、かえつて人気を高めた。
 英国誌「エコノミスト」の調査では、人口あたりの整形手術件数は韓国が世界最高、千人に十三件だという。とすれば七十七人に一人の割合にすぎないが、これはコドモも老人も入れた数字だ。
 十九歳から四十九歳までの都市居住女性に限ると、五人に一人が整形手術を受けている。二十代と三十代の女性なら、二人に一人だという説もある。現代日本がどうなのかわからないが、たしかに異常な高さだ。やはり「お化粧感覚」に近いのだろう。
 前の前の大統領だった慮武鉱も整形した。
 ある日テレビニュースを見たら、額に深く刻まれていた三本の皺が消え、二重瞼にかわっていた。日の方は瞼が垂れ下がる病気にかかったからだと言い訳したが、額の皺修復のついでに「可愛くしちゃえ」と思ったのだろう。北朝鮮に好意的だったこの大統領は、整形の甲斐なく退任後に自殺するまで追いつめられた。

 堂々たる「親不孝」

 一九七〇年代末から八〇年代にかけての韓国人の顔は、活動的で、多忙そうで、暑苦しいまでに濃い、そんな印象だった。つまり中進国的だった。男性の多くは、碁の趙治勲か歌手の趙容弼みたいだった。女性は歌手の李美子のようで、ちぢれラーメンみたいなパーマが大流行していた。高度成長時代の過剰な大阪のようだった。
 それが先進国的な顔立ちにかわったのは九〇年代だろう。よくここまで、経済の力は恐ろしいとしみじみ思った記憶がある。おなじコリアンでも北朝鮮人は、一般にますます貧相・無表情になっている。韓国の場合は整形手術に抵抗感のない文化風土も、たしかに顔立ちの変化に貢献したようだ。
 韓国が儒教の国であるというのは、もはや幻想ではないか。
「身体髪膚、これを父母に享く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり」と『孝経』にある。体は父母にもらったものだから、これを傷つけたり改変しないことから「孝」は始まるのだ、といっている。
 もちろんタトゥーや整形はいけない。一九一〇年秋、ハルビン駅頭で伊藤博文を暗殺した安重根は、誓いを立てた激情のあまり左手の小指を噛み切ったというが、これも「毀傷」だから感心できない。
「個性」を尊重し、「自己主張」を旨とするという韓国人の自己イメージも訂正を迫られる。「個性」と「自己主張」と「女性美」を、没個性的・画一的に追求した結果、みな同じ顔になつてしまった。美容整形医師の腕と想像力が貧困だからという人もいるが、これは皮肉を超えて、悲劇だ。
 人口五千万人余(日本の二・五分の一)ならヨーロッパレベルでは大国だが、地政学的には北朝鮮という存在によって大陸との連絡を断たれ、韓国は島国化した。島国化は安全保障と貿易立国には有利だが、相対的には狭い面積の国(日本の四分の一)に、ブームにもろい社会をもたらした。
「ミス・コンテスト候補者全員が姉妹?」という現象も、その表れだろう。

日銀のガラパゴス経済学
2013/06/17
Japan On the Globe(803) ■国際派日本人養成講座■H25.06.16より転載

The Globe Now: 日銀のガラパゴス経済学

 なぜ世界孤高の「日銀流理論」に固執して、長期デフレを座視してきたのか?

■1.「政権交代後、(GDPは)ネガティブからポジティブに」

 第2次安倍内閣で任命された黒田東彦・日銀新総裁のもとで「異次元の金融緩和」が実行されると、いままで国内を覆っていた停滞ムードが一変した。安倍首相自身が、最近の雑誌のインタビューでこう語っている。

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 今年1−3月のGDPは、前年同期比0.9%のプラス、年率換算で3.5%のプラスになりました。では昨年の民主党政権時代の7−9月はどうだったか。もうみんな忘れてしまいましたが(笑)、年率でマイナス3.5%です。繰り返しますが、マイナスだったのです。つまり政権交代後、ネガティブからポジティブに変わった。これはものすごく大きな変化でしょう。[1]
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 安倍首相の言う3.5%は事前予想で、実際の改定値はさらに4.1%と上方修正された。「予想よりも大きく伸びたのは、アベノミクス効果で個人消費が堅調に推移し、企業の輸出が想定以上に回復したからだ。」[2]

 倒産件数は前年同月比8.97%減で、5月としては過去20年間で2番目に少ない数字だった。「雇用環境」も7ヶ月連続で改善し、6年1ヶ月ぶりの高水準になった。

 株価や為替レートが一時の最高値から反落しているのを見て、一部のマスコミはアベノミクスを批判しようとするが、そもそも民主党野田内閣末期の昨年10月末の日経平均株価が9千円弱だったのが5月末で13千円超と40%以上も値上がりし、円レートも同期間で79円から100円へと円が20%も下がったのを見れば、まさに異次元の展開としか言いようがない。

■2.アベノミクスの成果を予言した書

『アメリカは日本経済の復活を知っている』とは、安倍内閣の官房参与としてブレーンを務めるアメリカ・イエール大学名誉教授・浜田宏一氏が昨年12月に出版した著書のタイトルである。

 浜田教授がこの本を書いている頃は、まだ昨年12月16日の総選挙前だった。自民党総裁となった安倍氏が日銀の政策について、国際電話で質問をしてきた時、「安倍先生の政見は、まったくもって正しいのです。自信をもって進んでください」と浜田教授は答えたという。[3,p4]

 その後の展開は、浜田教授の予言通りになった。『アメリカは日本経済の復活を知っている』とは、アメリカの経済学者や政治家は、アベノミクスが正しい政策であることを知っている、という意味である。浜田教授は「まえがき」ですばり、こう述べている。

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 結論からいおう。20年もの間デフレに苦しむ日本の不況は、ほぼすべてが日銀の金融政策に由来するものである。

 白川(JOG注: 日銀前)総裁は、アダム・スミスから数えても200年あまり、経済学の泰斗(たいと)たちが営々と築き上げてきた、いわば「水は高いところから低いところに流れる」といった普遍の法則を無視している。

世界孤高の「日銀流理論」を振りかざし、円高を招き、マネーの動きを阻害し、株安をつくり、失業や倒産を生み出している。年間3万人を超える自殺者も金融政策とまったく無関係ではない。

 ・・・本書で解説する理論は、なにも私一人だけが主張するものではない。日本を別にすればほとんど世界中の経済学者が納得して信じ、アメリカ、そして世界中の中央銀行が実際に実行しているものなのである。[3,p2]
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■3.リーマン・ショックの震源地でない日本の方がなぜ落ち込み幅が大きいのか?

「世界孤高の日銀流理論」とは何か。それを端的に表しているのが、リーマン・ショック後の対応である。2008(平成20)年のリーマン・ショックで、日本の鉱工業生産指数は30%も落ち込んだ。ユーロ圏の落ち込みが15%程度、震源地のアメリカやイギリスは10%程度なのにである。その理由を浜田教授はこう説明する。

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 イギリス経済は、財政問題がいくらか残っているが、すでに景気回復を始めている。アメリカは為替レートをかなり低い水準に維持し、経済は、喘ぎながらも景気回復の坂を上りつつある。

日本は、引き締め政策のおかげで、実質為替レートが一時30パーセント近く上昇し、輸出入の競争力を直撃した。産業界は30パーセントの値上げを吸収する必要があり、その分は生産性の上昇かコスト(賃金)カットで相殺しなければならなかった。[1,p70]
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 たとえば、日本で原価100万円で車を作ってアメリカ市場に輸出する場合、2008年1月の円レートは107円だったので、原価は9千3百ドルとなり、1万ドルで売れば7百ドルの利益が得られた。

 しかし4年後の2012年1月では77円となり、100万円の原価はドルベースでは1万3千ドルとなってしまう。売値が1万ドルでは3千ドルもの赤字である。無理に原価を1万ドルに抑えようとすれば77万円、すなわち23%ものコストダウンが必要である。

 これでは社内でボーナスを削減したり、部品メーカーに値下げを要求しても追いつかない。売上は減り、人員削減を余儀なくされ、設備投資も減っていく。こうして円高により、国内経済は萎縮していく。これが「デフレに苦しむ日本の不況」である。


■4.リンゴ村農協の無策

 それでは、どうしてこんな円高が起きたのか。浜田教授は、簡単な例でこう説明する。

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 そもそも為替レートとは、一国の通貨(たとえば円)と他国の通貨(たとえば米ドル)との交換比率である。もし、財の市場を考えて、リンゴがミカンに対して割高になるとしたら、それはリンゴの供給が少ないからか、リンゴの需要が増えたからである。[3,p47]
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 この例を使って、もう少し説明しよう。今、リンゴ村とミカン村があるとする。それぞれの村では、リンゴとミカンを物々交換の通貨代わりに使っている。ある年、台風が直撃してリンゴ畑もミカン畑も被害を受け、極端な品薄になった。

 ミカン村の農協は、この時とばかりミカンを保管倉庫からどしどし出荷して、供給量の下支えをしたので、ミカンの運搬や小売りをする人々の生活もそれほど落ち込まなかった。

 一方、リンゴ村の農協は何もせず、わずかに採れた分だけを出荷した。リンゴの流通量が激減して、運搬、小売り業者も扱い高が大きく落ち込んでしまった。リンゴ村の村民も家計をさらに引き締め、村内でのリンゴ流通量はさらに減ってしまった。

 さらに両村では、リンゴとミカンを交換して、互いに供給しあっていたが、今までの交換比率がリンゴ1個とミカン1個だったのに、リンゴが品薄になったので、リンゴ1個と交換するには、ミカン2個が必要となった。こうなると両村ともリンゴよりもミカンを食べる人が増える。リンゴ村はますます景気が悪くなった。

 おおまかなたとえ話だが、リーマン・ショック後に日本経済が震源地のアメリカ経済よりも大きく落ち込んだのは、日銀がこのリンゴ村農協と同様に無策だったからだというのが、浜田教授の主張である。

 そして「世界孤高の日銀流理論」とは、リンゴの供給量はリンゴ村の経済にも、ミカンとの交換比率にも影響しない、と言って、景気対策は日銀の管轄外とするものだ。どうせ効かないならダメモトで大量供給してみてもいいじゃないか、と言うと、超インフレになるからダメ、という。

 超インフレになるというなら、その前に、デフレを脱却して、高度成長期のようなゆるやかなインフレの状態になる時点があるはずだが、それも無視している。このような矛盾を内包した日銀流理論が「世界孤高」となるのも当然だろう。


■5.「ひどい失策だ」

 実際に、リーマン・ショック以降、米国では大量にドルを刷って景気の下支えをしたのに、日銀は金融システムが安定しているので、金融政策を拡張する必要はなかった[3,p70]として、景気の落ち込みを傍観した。デール・ジョルゲンソン・ハーバード大学教授はアメリカ経済学会会長も務めた経済学者だが、こう述べている。

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 2008年の国際的な金融危機以降、円は対ドルの名目為替レートで1985年のプラザ合意前後に匹敵する勢いで上昇した。輸出や生産の落ち込みは、主要先進国の中で最も激しかった。

 率直に言って、日銀はこのことに対して重大な責任を負っている。・・・

 FRB(連邦準備制度理事会、アメリカの中央銀行)、欧州中央銀行、イングランド銀行(英中央銀行)は、2008-09年の金融危機の最中にバランスシート拡大の方向に(JOG注:通貨供給増大)大幅に舵を切っている。しかし、日銀は主要中銀(中央銀行)の中では唯一、そうした動きに同調しなかった。その結果が、円レートの急上昇である。[3,p115]
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 リーマン・ショック時に限らない。それ以前から日銀が通貨供給量を絞って円高・デフレ政策をとってきた事に対しても、欧米の経済学者は批判を浴びせかけている。

 ポール・クルーグマンはノーベル経済学賞も受賞した現代アメリカを代表する経済学者だが、リーマン・ショック前のデフレ対策についても、こう日銀を批判している。

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 2005年から2007年にかけて、日銀が思い切ってインフレ率をプラスにすると約束すべきだった。それなのに金融引き締めを行ってしまった。・・・ひどい失策だ。[3,p120]
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「日銀のマネタリー・ポリシー(通貨政策)はプア(下手)だ」とは、元財務官僚で嘉悦大学教授の高橋洋一氏がプリンストン大学在学中に何度も聞かされた言葉だという。


■6.「責められるようなことは極力しない」という官僚的な発想

 弊誌278号「日本銀行 〜 現代の『関東軍』!?」[a]では、80年代後半のバブルの発生と崩壊、その後の長期不況が、日銀の金融政策にあったというドイツ人エコノミスト、リチャード・ヴェルナー氏の批判を紹介した。この批判は、その後のデフレ長期化とリーマン・ショック後の大不況も、同じく「プアな日銀の通貨政策」によるという浜田教授やアメリカのエコノミストたちの批判とも軌を一にしている。

 それにしても、日銀はなぜ欧米の主流経済学とはまったく違ったガラパゴス経済学とでも言うべき「日銀流理論」を信じているのだろうか? 浜田教授は、「責められるようなことは極力しない」という官僚的な発想が原因だと指摘する。

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 変えない、新しいことをしない、失敗しない、責められないようにする・・・そうした意識の積み重ねによって生まれた伝統、それが「日銀流議論」であり、日銀が、理論、事実、データによって、自分たちが間違っていることを(おそらく)知りながらも、そこから脱却できない理由だろう。
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 日銀法は「信用秩序の維持に資することを目的とする」と定めており、さらに「通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とする」としている。

 日銀が責任追及されるのは銀行がバタバタ倒産したり、狂乱物価となったりという事態であって、それさえなければ、リーマン・ショックで鉱工業生産が30%下がっても、デフレが長期化して自殺者が3万人を超えても、「信用秩序」が維持され、「物価が安定」している限りは、誰も日銀を責められない。

 欧米の中央銀行のように、通貨供給量を増やして、景気を下支えすることは、日銀本来の目的ではないと涼しい顔をしていられるのである。

■7.日銀の反日?!

 もう一つ日銀がガラパゴス経済学を信じている(あるいは、そのふりをしている)理由の仮説として、「反日団体」説がある。

 デフレと円高で日本企業の国際競争力が大きく削がれ、その分、中国や韓国の輸出が有利になった。多くの日本企業が中国や韓国に工場を建てて、国内は空洞化し、また貴重な技術が中韓に盗まれた。さらに、GDPが増えないため、防衛費も10年連続で削減を余儀なくされている。

 一部のマスコミでは愛国的な在日韓国人が親韓反日報道をしているという噂もあるが、同じ事が日銀でも起きているのだろうか。それは現時点では確かめる術はないが、結果的に過去の日銀のデフレ政策が中韓の国益に大きく資したという事実は疑いない。

 世論が安倍内閣を支持し、その安倍内閣が日銀幹部を入れ替えて、ようやく中韓でなく、我が国のために日銀が動きだしたことは、民主主義国家としての正道に立ち戻った、ということである。

 しかし問題は、四半世紀前のバブル経済とその崩壊以降、なぜこんなガラパゴス状態を許していたのか、と言うことである。国立大学で国家から給料を貰いながら、日銀のガラパゴス経済学を座視するような学問的無為無策がなぜ見過ごされてきたのか。

 この点を究明するのが、浜田教授の著書のもう一つの読みどころなのだが、すでに紙数は尽きた。この問題に関しては、浜田教授の著書を直接ご覧いただきたい。そこには、日銀が我が国の経済学者たちをコントロールする恐るべき実態が明かされている。直接、参照いただきたい。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(278) 日本銀行 〜 現代の「関東軍」!?
 日本銀行は、政府の意向にも従わずに、国民経済を自由に操る実権を握っている!?
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h15/jog278.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)

1. 安倍晋三(インタビュー)「拉致被害者を奪還する日本」、VOICE、H2507

2.産経新聞、H250611「指標堅調 窮地脱したか」

3.浜田宏一『アメリカは日本経済の復活を知っている』★★、講談社、H2412
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4062181517/japanontheg01-22/

日清戦争で日本政府首脳は領土割譲を求めない方針だった
2013/06/17
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」通巻第3965号 2013年6月17日より転載

(読者の声3)貴誌の投書欄で、「ちゅん氏」と「菊千代氏」が、佐藤守元空将の2000年に中国社会科学院で行われた「日中安保対話」の初会合での一喝、「大東亜戦争で日本は中国に負けていない。そこまで言うならもう一度戦争をして決着をつけるか!」を称賛される所論に私も痛快さを覚えます。
しかし、同時に危うさを感じざるをえません。

 その発言自体に対してではなく、この発言を一人歩きさせることに対してです。以前、ある日本の大学に研究員として来ていた中国人社会学者の講演を聴きに行ったとき、講演の最初に当日の演題とは全く関係がないにも関わらず、「正しい歴史認識を持つことが大切である」といったので、「あなたも学者なら中国政府の言う正しい歴史認識が事実に基づかないことを知っているであろう」と言いました。
 その中国人社会学者は、即話題を変え当日の演題の講演をはじめた。正しい歴史認識が日本人に対して話すときの枕詞として言っただけだったのでしょう。講演の主催者も聴衆の多くも多少左がかった人たちであったが、そのまま平穏にすすんでいきました。

それに反して、数年前反日デモが盛んに行われたころ中国で、日本と戦争をしたらどうなるかという議論が路上で始まったときそのうちの一人が日本が勝つといったところ袋叩き似合って撲殺されたというニュースがありました。
退役空将であり著名な軍事評論家である佐藤氏を日中安保対話の参加者が撲殺するはずはありません。
そんなことを中国政府が許容するはずがないと佐藤元空将をはじめ参加者はみんな知っていたはずです。
こういう安全地帯での議論を、日本人旅行者や着任したばかりの商社マン(ウーマン)が相手をわきまえずに行ったら、大きな危険性があります。さらに駐北京日本大使や外務大臣や防衛大臣がおこなったら別の意味で大変危険です。
 こういう状況判断力を多くの国民、就中、宮崎さんのメルマガの読者がもつことは重要です。

私が思い付くのは、日清戦争後の講和会議のことです。
当時、日本政府首脳は領土割譲を求めないつもりでしたが、新聞が国民を煽りにあおったため、領土割譲がなければ、暴動が起きかねない情勢であったので、ついに遼東半島の割譲を求め、その結果が三国干渉となり、旅順にロシアの軍事基地ができました。
旅順にロシアの軍事基地がなかったら、日露戦争は日本の楽勝で、何万人もの日本人将兵の命を失わずに済んだはずです。日本政府が当初領土割譲を求めない方針であった理由は簡単です。
(1)日本領とすれば、日本政府に治安維持の責任があり、そのためには莫大な費用を要する。
(2)領土割譲を得たとしても、儲かるような土地は割譲してくれない。伊藤博文に杉山茂丸が領土割譲を求めないように談判したところ、そのように答えたそうです。
こういった的確な判断力をひろく一般大衆がもつことが、議会制民主主義国では必須です。
  (ST生、千葉)

野中広務発言は中国の虚構宣伝の代行―存在しない尖閣「棚上げ」合意
2013/06/14
●野中広務発言は中国の虚構宣伝の代行―存在しない尖閣「棚上げ」合意

メルマガ版「台湾は日本の生命線!」2013/06/10/Monより転載

■中国に頼まれた上での発言か

野中広務元官房長官は六月三日、日中関係の改善を訴える元議員、現議員の訪中団団長として劉雲山政治局常務委員と会見。その際に「田中角栄元総理から日中国交正常化の際、尖閣問題の棚上げで両国の合意があったと聞いた」と語った。

これは「棚上げの合意はない」とする日本政府の見解に反するものだ。そこで菅義偉官房長官は四日、「尖閣諸島を巡り解決すべき領有権の問題はそもそも存在しない。棚上げすべき問題もない」と、野中発言を打ち消した。しかしそれに対して野中氏は同日、「私はそれを言うために(中国に)行ったのだから、発言の撤回などしません」などと悪びれる様子もない。

野中氏が「それを言うため」に訪中したことに注目したい。つまり中国の希望に応え、わざわざ出掛けて行ったのだろう。

■中国が宣伝工作で利用する「傀儡」たち

政府が尖閣諸島を国有化したのは昨年九月十一日だが、その直後(九月二十一日)に新華社は論評を発表し、「『争議棚上げ』は双方の指導者間の黙契。当時日本の指導者は周恩来の『棚上げ』提案に納得し、明確かつ積極的に応じていた」とし、国有化を日中間の合意(黙約)違反だと非難している。

このような宣伝で中国側は、日中対立における自国の正当性を強調する一方で、日本側に「棚上げ」(尖閣の実効支配の停止)を要求し、併せて問題解決の協議へと持ち込み、自国のペースに日本を乗せてしまおうと攻勢をかけつつある。

そしてそうした宣伝工作で利用するのが、野中氏など日本国内の親中派なのである(単に「親中派」というより、中国に長年間飼い慣らされて来た「走狗」「傀儡」と呼ぶべきかも知れない)。これら勢力の「棚上げによる日中関係改善」アピールに、日中対立が生む緊張感に耐えきれない政財界や一般国民は、思わず飛びつくことにある。

新華社は野中発言を大きく取り上げ、「安倍は老世代の政治家の諫言を聞くべきだ」と訴える論評を出した。

それでは「棚上げの合意」は、実際には存在したのだろうか。

■「棚上げ合意」は中国のでっち上げ

問題となる国交正常化交渉での田中角栄氏と周恩来氏との尖閣に関するやりとりは短いものだった。

日本側の外交文書によれば、田中氏が「尖閣諸島についてどう思うか?私のところにいろいろ言ってくる人がいる」と語りかけたのに対し、周恩来氏が「尖閣諸島問題については今回は話したくない。今これを話すのはよくない。石油が出るからこれが問題になった。石油が出なければ台湾も米国も問題にしない」と答えただけで終わっている。

これを見る限り、「合意」がなされた形跡はないのである。

野中発言について伊吹文明衆院議長は六日、「外交は文章で書いたものでない限りは効力を持たない。当時の会議のメモや内部文書があれば中国は必ず公表している」とし、合意の存在を否定したが、まったくそのとおりである。

「メモや内部文書」がないことは中国もわかっているのだ。そこで記録に残らない「黙約」と呼び、「合意」の存在をでっち上げるのである。

しかし「黙約」だけでは、外交上は何の「効力を持たない」のである。

このような外交の常識を、日本側は中国に認めさせなければならない。

■トウ小平発言で明らかな「真相」

野中氏は七日、BS朝日の番組で、田中角栄元総理大臣から聞いた「棚上げ」の経緯を次のように語っている。

「(田中氏が)尖閣の題を出したら、周恩来さんが『田中さん、その問題は、今度はやめときましょう。この問題に入ったら、この話(日中国交正常化)はできなくなりますよ』と。そしたら、(同席する)大平君(大平正芳外相)が非常に気を利かせて、『いや、田中さんは帰った時に右の方から言われるから、ここで一言言っておかなければと言ったんですよ。これは、それで結構ですから、静かにいきましょう』と言って、問題は棚上げになったんだと」

何てことはない。外交文書が示す会談内容以上のものはなかったのだ。田中氏の話した「棚上げ」というのは結局、「国交正常化交渉で尖閣の題は出さない」というだけの話に過ぎないではないか。

そしてそれが真相であることは、?小平氏が副首相時代の七八年十月、日中平和友好条約の批准書交換のために来日した際の記者会見での、次の発言からも明らかだ。

「国交正常化の際、双方はこれ(尖閣問題)に触れないと約束した。今回、平和友好条約交渉の際も同じくこの問題にふれないことで一致した」

このように所謂「棚上げ」とは「国交正常化の際」と「平和友好条約交渉の際」だけに限定されたものだったのである。

■世界の日本不信を呼ぶ野中発言

野中発言が中国の虚構宣伝を代弁するだけのものであるのを日本のマスメディアもわかっている。

だからこそ従来「棚上げ」を主張して来た親中メディアも、さすがに同発言には支持表明をできずにいる。

もっとも「日本政府は野中氏を批判するだけでなく、対話のチャンネルをしっかり築き、両国の緊張を解くべきだ」と主張する北海道新聞や「日本側で「棚上げ」合意を認める政府関係者は野中氏だけではない」と強弁する沖縄タイムスなどの例もあり、野中氏と同様、真実よりも中国の利益を優先する親中メディアが大手を振ってまかり通る日本の現状に強い危機感を抱かざるを得ない。

世界ウイグル会議のイリハム・マハムティ副総裁は野中発言についてこう語る。

「世界は日本をサムライの国と信頼して来たが、中国のプロパガンダに従い、自国を裏切る野中氏のような人間を見ると、日本に対する見方が変わってしまう」と。


●中国の嘘!尖閣「棚上げ」合意はなかった
メルマガ版「台湾は日本の生命線!2013/04/14/Sunより転載

「■外交記録に日中合意の事実なし 

中国の程永華大使は三月二十九日の記者会見で、「目下の中日関係の最大の問題は釣魚島問題。中日関係を改善するのにこれを避けて通れない。日本は島の購入(野田政権による国有化)は両国の古い世代の指導者が達成した重要な了解、合意を破壊した」とし、日本に尖閣諸島問題の解決を目指す日中交渉を求めた。

「日中の古い世代の指導者に棚上げの合意があった」として日本の尖
閣国有化を非難した程永華大使

「両国の古い世代の指導者が達成した重要な了解、合意」とは尖閣領有を巡る争いの「棚上げ」合意のこと。日本が国有化という実効支配の強化で、それを破っているというわけだが、そのような合意は存在しないと日本政府は強調している。

それはそうに違いない。そもそも日本の尖閣支配に何の瑕疵もなく、中国と協議すべき領土問題は存在しないからだ。それなのにいったい何を「棚上げ」しなければならないのか。

もっとも中国側の「古い世代の指導者」らが「棚上げ」の意向を示してきたのは事実である。

たとえば日中国交正常化で合意した七二年九月二十七日の田中角栄首相、周恩来首相との首脳会談では、次のようなやり取りがあった(外務省HP掲載の外交記録より)。

(田中総理)尖閣諸島についてどう思うか?私のところに,いろいろ言ってくる人がいる。

(周総理)尖閣諸島問題については,今回は話したくない。今,これを話すのはよくない。石油が出るから,これが問題になった。石油が出なければ,台湾も米国も問題にしない。

次いで七八年十月二十五日、日中平和友好条約交渉時の福田赳夫首相とケ小平副首相との首脳会談でケ小平氏は次のように述べた(同)。

(ケ副総理)もう一点言っておきたいことがある。両国間には色々な問題がある。例えば中国では釣魚台,日本では尖閣諸島と呼んでいる問題がある。こういうことは,今回のような会談の席上に持ち出さなくてもよい問題である。園田外務大臣にも北京で述べたが,われわれの世代では知恵が足りなくて解決できないかもしれないが,次の世代は,われわれよりももっと知恵があり,この問題を解決できるだろう。この問題は大局から見ることが必要だ。(福田総理より応答はなし。)

以上の記録を見る限り、中国側の「棚上げ」の意向に日本側が同意したという事実は見出せない。

■中国が勝手に「合意」と言っているだけ

ちなみにケ小平氏は、上記の会談と同日の記者会見でこう発言している。

「国交正常化の際,双方はこれに触れないと約束した。今回,平和友好条約交渉の際も同じくこの問題にふれないことで一致した」

この発言内容が事実なら、日中は「国交正常化と平和友好条約交渉の際に尖閣問題に触れないことで一致した」だけである。

ところが中国は、上に掲げた記録に基づき、日本と「棚上げ」に合意したと言い張るのである。

たとえば東洋学園大学教授の朱建栄氏が書いた「中国側から見た『問題』」(「世界」一二年十一月号)によると、前国務委員(副首相)の唐家璇氏は一二年八月二十九日、中国社会科学院で開かれた日中シンポジウムで次のように「棚上げの事実上の合意」を説明した。

「一九七二年の国交正常化の時、周恩来と田中角栄の両首相は釣魚島問題について『今後の解決に残す』ことで共通認識に達した」

「七八年に平和友好条約を調印した際、双方はさらに釣魚島問題について『争議を棚上げにし、今後の解決に残す』ことで黙約した」

どうも腑に落ちない話だ。田中・周会談で「今後の解決に残すことで共通認識に達した」と唐家璇氏は説明するが、外交記録によれば田中首相は「今、これを話すのはよくない」との周首相の言葉に対し、何も答えていない。それでどうして「共通認識に達した」などと断言できるのか。

それにしても日中平和友好条約の調印時に「棚上げ」の「黙約」があったとはよく言ったものだ。つまり「棚上げで合意したとの記録は存在しない」ことを、中国側は認めているのだ。

■二階堂元官房長官の証言から見る「合意」の真相

「中国側から見た『問題』」はさらに、元国務院新聞弁公室主任(大臣)の趙啓正氏を登場させる。

同氏は一二年六月、九〇年代半ばに訪中した二階堂進氏(七二年当時は官房長官で田中首相の訪中に同行)から次のように聞かされたそうだ。

「七二年九月の国交正常化交渉の間、中国は周恩来と姫鵬飛(外相)、日本側は田中、大平(外相)と私の五人で集まった際、尖閣問題の棚上げに合意している。他の当事者はすべて他界したので、自分はこの歴史の真実を話す責任がある」

この二階堂氏の発言は録音などで記録もされ、外交部に送付されているという。

この「日本側は尖閣問題の棚上げに合意している」とする二階堂氏の証言が事実なら、いったいどのような「合意」があったのだろうか。つまり「五人」しか知らなかった「歴史の真実」とは何なのか。

その趙啓正氏は朝日新聞が一二年七月七日に配信した若宮啓文・朝日新聞社主筆らとの対談記事で、その辺を少し詳しく語っている。

「田中内閣の官房長官だった二階堂進さんに聞いた話ですが、田中角栄首相は訪中前に『尖閣問題を話さなければ国民に説明できない』と言っていた。しかし周恩来首相にそれをぶつけると『その話をすれば正常化できない。これは少し置いておこう』と言われて同意した」と。

これに拠る限り二階堂氏は、ケ小平氏と同様に「国交正常化と平和友好条約交渉の際に尖閣問題に触れないことで一致した」という話をしただけのようだ。

若宮氏が「田中首相は異を唱えなかったが『わかった』とも言っていないので、日本政府は『棚上げ』は合意でなく『領土問題は存在しない』との建前を貫いてきました」と説明すると、趙氏は「この問題を脇に置くことで国交を開いたのは事実。上の世代の勇気や知恵は覚えておくべきです」と、日本政府への不満を口にした。

しかし「田中首相は異を唱えなかったが『わかった』とも言っていない」というのが「歴史の真実」なのだろう。従って「棚上げ」の合意はなく、「この問題を脇に置くことで国交を開いた」と言うだけの話らしい。

■「ゆっくり解決しよう」は社交辞令

人民日報日本語版によると、二階堂氏は九六年十一月、『人民日報』や新華社とのインタビューで次のようにも証言している。

「会談の中で、田中首相の方からこの問題をどう扱うべきかと周恩来総理に質問しました。周恩来総理は少し考えた後、『この問題は今後の議題として、今回は取り上げないことにしましょう』とおっしゃいました。田中首相も、『では、今後話すことにしましょう』と賛成しました。これは事実上、双方の指導者の意見が一致したことになります。即ち、この問題について、今後ゆっくり解決しましょう、ということで合意したのです。今の一部の若い人は歴史を知らず、歴史を尊重しない」

「今後ゆっくり解決しましょう」というのは、国交を開くにあたって尖閣問題には触れないことで合意した際における社交辞令としか受け取れない。少なくとも領有権問題の「棚上げ」合意でないことは明らかだ。

「若い人は歴史を知らず、歴史を尊重しない」などと、いかにも中国と歩調を合わる人々が使いたがる言い回しだ。二階堂氏の証言は、今や中国に盛んに宣伝利用される。

■大平外相の発言は日中「黙約」を証明しない

新華社が日本が国有化した直後の一二年九月二十一日に配信した論説「言は必ず信じ、行いは必ず果たす」も、日本に「棚上げ」の約束を守れと訴える内容。田中・周会談に言及し、「棚上げ」の合意は事実だと訴えている。

―――「争議棚上げ」は双方の指導者間の黙契だ。当時日本の指導者は周恩来の「紛争棚上げ」の提案に納得し、明確、積極的に応じていた。

―――たとえば大平正芳は一九七二年九月三十日、朝日新聞のインタビューを受け、「今回の中国との交渉では尖閣列島問題は話されず、国交正常化が中心だった」と述べ、十一月六日には衆議院予算委員会で、将来の平和友好条約締結する際、領土問題は話し合われるかと質問され、「後ろ向きの問題はすでに終わっている。平和友好条約は前向きの問題なのだ」と言っている。

―――このような方式で、日本の多くの人の関心に答え、そして「争議棚上げ」が中日両国指導者間の黙契であることを証明している。

こうした大平氏の発言を見ても、当時中国が尖閣問題に執着しなかったことに日本がいかに安堵していたかは伝わってくるが、しかしこれだけでは領有権「棚上げ」の「黙約」の「証明」になっていない。日本が中国の如何なる「提案に納得し」たのか、一切語られていないからだ。

■「合意」を強調する河野洋平の歪んだ媚中心理

日中対立を高めた尖閣国有化を批判する親中派からも「棚上げ」合意を守れとの声が噴出している。

河野洋平前衆議院議長もそうした一人だ。「世界」(一二年十月号)掲載のインタビュー記事「日本外交に理性と誠実さを」で次のように述べている。

河野氏は「棚上げ」合意のでっち上げ宣伝に加担している

―――日中国交回復当時に、現在はこの問題を解決する知恵を私たちは持たないので、解決は次世代に委ねると中国側のリーダーが明確に表明しました。この方針が中国側から打ち出された時、私たちは非常に驚いたのです。次世代に解決を委ねるということは、すなわちそれまでは現状を維持するということにほかなりません。尖閣諸島は日本が実効支配しているのですから、その表明は日本への大変な譲歩であったのです。

これでは強盗の譲歩に感動、感謝しているようなものだが、こうした屈折した心理は親中に特有のものだろう。

河野氏は「棚上げ」合意が如何なる形でなされたかには触れることなく、ただ合意は存在するとの前提で、こうも論じている。

―――このように、尖閣をめぐっては日中間に一つの合意があったにもかかわらず、なぜここまで問題化してしまったのか。それは明らかに、石原都知事のパフォーマンスです。

―――さらに間の悪いことに、東京都が購入するのであれば国有化すると野田政権が言い出しました。

―――中国との国交回復時の合意は、現状のまま次の世代が解決のために良い知恵を出すまで維持していくことです。国有化は、明らかに現状維持から踏み込んでいます。

河野氏の言葉からもわかるように、たかだか「国交正常化の際,双方はこれに触れないと約束した。平和友好条約交渉の際も同じくこの問題にふれないことで一致した」ことが、中国や日本の親中派の間では今や、「日中が尖閣諸島を放置して如何なる手も加えないことで合意した」と捏造されているのである。

■「棚上げ」しているのは日本だけだ

かつてと違い、すでに海洋進出能力を向上させている中国はとうに「棚上げ」を
停止している

日中の「先輩指導者」の間で尖閣領有問題の「棚上げ」合意がなかったことは事実だが、しかし日本側が「棚上げ」を表明する中国を刺激しないため、自らも「棚上げ」姿勢で実効支配の宣伝や強化を努めて避けて来たのも事実だ。

「尖閣諸島の長期にわたる平穏かつ安定的な維持・管理を図る」との理由で、公務員を含む国民の上陸を許さずにきたのはその象徴だ。七九年には一度建設したヘリポートを撤去した。民間が建てた灯台を海図に載せることを長年放置したりもした。

しかしそれに反して中国は「棚上げ」などしていない。「現状維持」の破壊行為を繰り返し行ってきた。近年では〇八年十二月、「実際の行動で中国の立場を示す」(中国国家海洋局の孫志輝局長)目的で海洋調査船を尖閣の領海に侵入させた。まさに「棚上げ」中止宣言である。

そして一〇年九月の中国漁船体当り事件が発生、日本は「棚上げ」方針の一環で犯人を釈放したものの、中国は報復措置として漁業艦船の尖閣接近を執拗に繰り返した。

こうした状況を受け、一二年四月に「尖閣諸島を日本が実効支配しているのに、ぶっ壊すためにあそこでもっと過激な運動に走り出した」とし、東京都による同諸島の購入・開発計画を打ち出したのが石原慎太郎都知事だった。

そこで都の計画を阻止し、「棚上げ」を継続しようと野田政権が実施したのが国有化だったのだが、中国はこうした「善意」をも「棚上げ合意」違反だとし、監視船、航空機による尖閣海域でのパトロールを常態化させて今日に至っているわけだ。

そしてその一方で、存在もしない「棚上げ」合意なるものをでっち上げて日本に揺さぶりをかけ、日本の抵抗力を奪いながら、日中交渉で中国のペースに乗せようと狙っているのである。

以上のように、「棚上げ」を継続するのは日本だけであり、中国はそのようなことはしていない。「棚上げ」合意に立ち返れば紛争は収まるなどといった宣伝謀略に、日本国民は惑わされてはならないのだ。

原爆投下は神の懲罰
2013/06/10
「中央日報」の韓国記者と独占対決
「私は反日主義者じゃない」「それは嘘だ!」
「天皇を断罪せよ」「安重根の銃弾を安部に送る」過激論文の前科も

 これが韓国新聞のコラムだって?
「原爆投下は神の懲罰」「天皇を断罪せよ」と、テロリストも真っ青の言葉で読者を煽る。
こんなの絶対に許せない!
日本国民の怒りを代表して本誌記者がソウルに乗り込み、コラムを書いた論説委員と直接対決した。―――「週刊文春」6月6日号より転載

 五月二十七日。ソウル中心部の中央日報本社に、同社論説委員キム・ジン氏(53)が姿を現した。二十日に「原爆投下は神の懲罰」という内容のコラムを発表した人物である。
 本誌記者はキム氏に直撃取材をおこなった。
 ―コラムの内容についてお伺いしたい。
「あなた方だけでなく、この件についてインタビューは受けないことにした。自分の意見はコラムで述べています。コラム以外にはいかなる意見も述べることはできない。それは他のメディアに対しても同じです。その点を理解して下さい」.
 ―記事のせいで日本の反韓感情が高まっているが。
「(ニヤッと薄笑いを浮かべて)大変申し訳ないですが、これ以上は話すことはできません」
 この後もキム氏の弁明は続くのだが、まずは問題の原爆コラムをもう一度紹介しておこう。

 五月二十日、韓国大手新聞の中央日報に、「安倍、丸太の復讐を忘れたか」と題するコラムが掲載された。「丸太」とは、旧日本軍の371部隊が旧満州で人体実験を行った際、中国人捕虜のことを丸太と呼んで実験に使っていた、との説に由来する。先日、安倍総理が被災地の自衛隊基地を訪問して操縦席に座った際、空自機の機体番号がたまたま「731」だったことにイチヤモンをつけたわけだ。
〈安倍は笑いながら731という数字が書かれた訓棟機に乗った。その数字にどれだけ多くの血と涙があるのか彼はわからないのか。
安倍の言動は人類の理性と良心に対する生体実験だ。(略)神は人間の手を借りて人間の悪行を懲罰したりする。最も苛酷な刑罰が大規模空襲だ。歴史には代表的な神の懲罰が二つある。第二次世界大戦が終結に向かった一九四五年二月、ドイツのドレスデンが火に焼けた。六カ月後に日本の広島と長崎に原子爆弾が落ちた。これらの爆撃は神の懲罰であり人間の復讐だった。(略)日本に対する懲罰が足りないと判断するのも、神の自由だ〉

 韓国では有名な極右の論客

 まるでテロリストの檄文のような文章だが、これでも中央日報はれっきとした韓国第二の日刊紙。公称約130万部を誇り、保守的なスタンスが特徴。韓国随一のサムスン財閥と縁が深く、日本経済新聞とも提携関係にある。

 日本政府はすぐさま駐韓日本大使館を通じ、中央日報に抗議。さすがにまずいと思ったのか、中央日報はHPからコラムの日本語訳を削除。そのうえで「個人の見解であって社の公式見解ではない」と異例の発表をした。しかしHPをよく見ると、未だ韓国国内向けと英語訳は残されたままだ。
 こんなトンデモコラムを執筆したキム・ジン氏とはいったい何者なのか。
 キム氏は1959年、韓国東部の原州の生まれ。慶煕大学を卒業したのち、英字新聞「コリアタイムズ」を経て、1986年に中央日報に入社した。以降、政治部のエース記者として鳴らし、1998年からは論説委員を務めている。「大韓言論賞」を受賞するなど、韓国で最も有名な記者の一人だという。
「保守派の論客として、ラジオやテレビの討論番組にも出演しています。政治スタンスはかなり極端な保守派で、極右と言ってよいでしょう」(元中央日報記者)

 反日トンデモ論文を多数執筆

 韓国の保守派とは、日本のそれと同じく、親米反共、すなわち対北朝鮮政策で強硬論を唱える人々だ。キム氏自身、「北朝鮮と全面戦争して何百万人死者が出ても三日間我慢すれば勝てる」という冗談のような論調を展開したこともあるほどだ。
 もともとキム氏は朴槿恵大統領の父、朴正煕元大統領を強く支持していた。
「朴正煕の熱烈な信奉者で、朴正煕の広報担当みたいでした。彼は1992年に『青瓦台秘書室』という朴正煕時代の政権内部の内幕を描いた本を出版し、名前を売りました。しかし、この本は朴正煕の良い面しか描いておらず、批判も多かった。
 彼は勤勉な記者でしたが、決定的にバランス感覚が欠けている。本来ならば論説委員にしてはいけない人間なのです」(同前)

 原爆コラムは、日本でも大々的に報じられたが、キム氏の反日トンデモ論文はこれだけではない。今年4月29日にも「昭和天皇を断罪すべきしと題したコラムを掲載している。以下、概要を紹介しよう。
〈20世紀以降、侵略戦争の最高責任者は、何らかの形で量刑を受けた。(略)
 第二次世界大戦の三大戦犯掴はドイツ。イタリア、日本だ。ドイツの総統ヒトラーは自殺した。イタリアの首相ムッソリーニは反ファシスト遊撃隊員に殺害された。しかし昭和天皇はこの罰を受けなかった。(略)
 明成皇后(注・19世紀の権力者。韓国では日本人に暗殺されたとされている)の遺骨、丸太肉、南京で切断された中国人の頭、そして従軍慰安婦の血の涙を混ぜて怒りの矢″を作る。安重根(伊藤博文を暗殺したテロリスト。韓国では英雄視される)義士の銃弾と、その矢を安倍に送る)、
 もはや脅迫状である。こんな恐ろしい文章が大新聞に堂々と掲載されるということ自体が信じ難い。
 だが、韓国ではこうした反日記事が毎日のように垂れ流されている。とくに「憲法改正」を掲げる安倍政権の誕生以来、凄まじい安倍バッシングが起こっている。
 慰安婦、歴史認識、さらにはアベノミクスがもたらした円安と日本企業の復活(韓国企業の苦境)まで俎上に載せ、日本叩きに狂奔しているのだ。
 中央月報に抗議した外務省職員も「こうした反日記事は毎日のように出てくるので、その都度対応していたらキリがない。しかし、今回は文章があまりにも非人道的だったので、抗議に至りました」と打ち明ける。

 40年近く韓国社会を取材し続けてきた黒田勝弘・産経新聞論説委員が韓国の現状を語る。
「731機の件は全紙が一面で掲載して軍国主義復活』『安倍の正体見たり』と報じていた。こんな下らないニュースを追いかけるのは韓国だけです。40年近く韓国にいますが、進歩がないどころかむしろ退歩している。メディアは意地になって反日を訴えますが、今、韓国ではメディアと市民の乖離が激しい。街を歩いていても日本人だからと言って忌避されることは全くないですからね。

 韓国人の被爆者たちも激怒

 首都大学東京名誉教授の鄭大均氏も嘆息する。
「安倍首相がたまたま731という機体に乗っただけで731部隊を連想する。反日主義の韓国人には、敵意や清疑心が準備されていて、すきあらば日本を否定的に解釈する。重要なのは、こうした敵意が日本からも発せられるようになったこと。今後の日韓問係は葛藤多きものになると思う」

 拓殖大学アジア情報センター客員研究員の高永侮≠ヘ、キム・ジン氏を梼下撤大阪市長と比較して評する。
 「配慮に欠けて、過激な言動で注目を集めようとするところは、橋下市長とよく似ていますね。政治感覚も国際感覚もない。原爆のことを書けば、当然日本で批判を浴びるということもわからない。米軍司令官に風俗利用を進言することがいかに失礼なのかもわからない。
 キム氏のコラムは論調が激しすぎるため、しばしば韓国内でもネット上で批判の的になります。彼は有名ですが、読者の人気はない。今回は一般市民の顔色を窺いながら、人気集めのために反日の記事を書いたのでしよう。そんなところも橋下市長とそっくりです」

 もちろん、明らかに原爆を正当化する記事に対して、被爆者は填りを隠さない。
 「言葉を扱う論説委員が、このような記事を書いたことは残念です。まだ原爆の被害が正しく伝わらず、単なる大きな兵器としか思われていないことに情けない思いです」(日本原水爆被害者団体協議会 田中煕巳事務局長)
 韓国人の被爆者たちも黙っていない。「韓国原爆被害者及び子女のための特別法推進連帯会議」のチョン・ウンオク事務局長が話す。
「日本人だけでなく、七万人余りの韓国人も原爆の犠牲となりました。被害国は日本だけではない。原爆を決して懲罰と言ってはなりません。どのような場合でも、原爆を投下したことは許されない犯罪行為であり、虐殺行為です。日本が悪事をしたから原壌を落とされても仕方ない』という認識は、決定的に間違っている。コラムの執筆者と中央日報は、原爆被害者に謝罪しなければならない」

 じつは原爆コラムに対しては、中央日報社内からも批判が巻き起こっている。
「コラムが出た日に中央日報の記者に会うと『あれは酷いな』と早速言われました。別の記者は『自分が正義で、ドイツや中国も頷くだろうと考えているみたいだが、明らかに間違っている』とかなり手厳しかった」(在韓ジャーナリスト)
 また、社内でもキム氏の立場は微妙なようだ。「彼は社内でとくに仲良くしている人間もおらず、同僚と食事に行ったりすることもない。社内では浮いた存在です。しかも今回は社がキム氏の見解を否定する内容のコメントを出した。これは異例中の異例です」(前出・元中央日報記者)
 韓国政府も「筆者個人の意見で、韓国政府の見解ではない」という旨を発表するなど、もはやキム氏は四面楚歌。
 キム氏は27日付のコラムの末尾にこう記した。
(趣旨とは異なり、日本にいらっしゃる原爆犠牲者と遺族を含め心に傷を負われた方々に遺憾のお言葉を申し上げます)
 趣旨だって?
 いったいこのコラムをどう読めば、「原爆投下は神の懲罰」以外の趣旨を読みとることができるのだろうか?
 冒頭で紹介したように、原爆コラムの趣旨についてどういう意図であのコラムを書かれたのか。
「それについても複雑な問題もあるし、同様に話すことはできない。コラムの内容通りです」。
−安倍首相へのバッシングをみると、何をしても日本は批判されるとしか思えないが、いったい日本にどうしろと言うのか。
「私のコラムを見れば、それがわかります。私は、単なる感情的な反日主義者ではありません」
−それは嘘だ。反日主義ではないと言うなら、なぜ原爆を正当化するようなコラムを書いたのか。
「その話も、感情的な反日主義者ではないということです。韓国と日本は、一緒に行かなければならない。韓日関係は、夫婦関係です。離婚してはいけない。広島も、ヒロヒトのことも、将来のために直さなければいけないことを書きました。それが私の意見の全てです」
―広島、長崎が「神の懲罰と書くのが、どうして日韓関係の修復に繋がるのか。
「……ここまでにしましょう。私の書いたい事は,ここに書いてあります。しかし私は絶対に感情的な反日主義者ではないです。
 韓国と日本は最後まで一緒に行かなければいけない。そういう関係です。ここまでが私の言えることです。こんなかたちで日本の記者にも会ったことはないですし。申し訳ないですが、ここまでです」

 橋下市長を批判する資格なし

―中央日報が「これは社の見解ではない」としたことは異例だが。
「我々は社内も社外も含め、論調と違うものも載せている。社のスポークスマンが言う通り、これは私個人の主張です」
 そう述べた後、キム氏は「これを見てもらえれば自分が反日主義者でないことがわかる」と言って、今年1月7日付のコラムのコピーを本誌記者に手渡した。
 その内客は2011年に発生した靖国神社放火事件の犯人、劉強(中国人)に関するものだった。
 劉は事件後ソウルヘ逃亡し、そこで逮捕された。日本政府ほ劉の身柄引き渡しを韓国政府に求めたが、韓国政府はそれを拒否し、中国へ送還した。
 キム氏はコラムで「日本へ身柄を引き渡し、日本の法で裁くべきだった」と主張している。これをもって「感情的な反日主義者ではない」と言いたかったのか。
 だが、このコラムを最後まで読むと、しつかり「反日」で締めくくられていた。
〈劉強は義に徹した人物だ。義のために放火したとすれば、劉強は現場で日本の警察に手錠を掛けられ、法廷で日本に向かって自分の大義を主張するべきではなかっただろうか。安重根義士のように……〉
 中央日報は慰安婦問題に関する橋下市長の会見を「弁護士らしく焦点をぽかした」と批判したが、他人を批判できる資格があるのだろうか?
 韓国とは、かくも近くて遠い国なのである。

戦争により女性や児童の尊厳を傷付けた国は揃って謝罪しよう
2013/06/09
国連総会で、「戦争により女性や児童の尊厳を傷付けた国は揃って謝罪しよう」と日本が率先して提案して各国に賛意を問いましょう。
これで誰も文句を言うことができなくなるでしょう。

アジア女性基金の大沼保昭の『「慰安婦」問題とは何だったのか』を読むと、いわゆる慰安婦だったという女性に、数百万円のお金と時の首相の謝罪文を届けた活動が、韓国と台湾では、支持団体や、NGOや弁護士や、おまけにメディアまでが、彼女らがそれを受けると彼らの活動の場がなくなるので反対し、国家責任や謝罪を求めると言う、彼女らが生きているうちにはとても叶うことが不可能な、闘争に走ったために、彼女らは、非国民と言われたくないために、隠れて受け取ったり、彼らの活動に仕方なく従ったことが原因で、今日に至るまで解決ができなかった、おそらく彼らは未来永劫に解決する気がないことが分かります。

彼らは、ドイツのブラント西独首相がユダヤ人墓地で、膝まづいて謝罪したことを挙げて、日本を責めますがますが、ドイツは法的責任を取ったことはありません。賠償をしたこともありません。アジア女性基金は、受け取りを望んだ方々に補償金としての彼女らの生活をサポートする金額と時の首相の謝罪文を手交しています。その上さらに裁判を続けたいのならそれも可能だと助言までしています。

道義的責任と法的責任と比べ、法的責任の方が上にあると言う根拠のない目標に向かって、支援団体や弁護士たちが、戦う己に酔ってしまい。肝腎のいわゆる慰安婦の現世の幸せを犠牲にしたことは正しかったのかと大沼は問うています。

法的に見て裁判所は現行法の枠から出られませんから、裁判所で法的責任を問うことはとても難しいと、ちゃんと法律を見ればわかるはずなのに、彼らの動機、いつまでも日本国や日本国民を非難する材料であるこの種を使う闘争を止める気がないのだと思えると言っているように見えます。

オランダはじめ多くの元慰安婦たちは、首相の謝罪文を見て感謝したとのことです。、
つまり、どんな理由があるにしても売春という職に従事したことは、彼女ら自身や彼女らの社会ではさげすみの理由になるので、彼女らがやむにやまれぬ、強制的に売春を強いられたと読める謝罪文がないと、彼女らの社会で生きてゆけないのです。
だから儲けが大きかったからとか、自分の生活や家族を救うために身を売ったという場合でも、謝罪文は免罪符になるのですから、彼女らの尊厳を守ることのできる謝罪文を彼女らに手渡したことは、日本人でしかできない潔さだと評価することが必要と思います。

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